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金、それだけ 5

「あ、ロッカーね。休憩室と一緒だから。こっちこっち」 と手招かれ素直について行く。 病棟の一番端、今はもうごくたまにしか開かれる事のない手術室の手前に休憩室はあった。 ここ最近では半年前に緊急の手術があったというが、それも本当にたまたま出張医がいたから出来た事だと聞いた。 それを教えてくれたのは、本日の夜勤メンバーである畠中圭吾だ。 患者が出入りしない場所だからか節電の為かはわからないが、天井の常夜灯だけが点灯し、日中から薄暗い事が伺える。 休憩室は畳の部屋で、女子更衣室は別にあるそうだが、男の着替えのスペースは部屋の隅に気持ち程度に作られただけだった。 ロッカーにはすでに俺の名前が貼られている。 誰かが準備してくれたらしい。 狭さや扱いを特に気にする事もなく、先程二本柳から渡されたユニフォームに着替えた。 ピンク色のスクラブはいささか恥ずかしさがある。 ナースシューズは白ならスニーカーで良いと事前に聞いていたので、白いアディダスのスニーカーだけは売らずに持って来ていた。 財布しか入ってないボディバッグをロッカーに仕舞い、詰所で再び簡単な挨拶をした。 男の子同士の方が話しやすいだろうし逆に良かったかも、と言ったのは師長の古川だ。 男の子?と、怪訝に思ったのは畠中も同じのようで、自然と目が合った。 それもそのはず、畠中に至ってはおそらく四十代も半ばだろう。 まぁいいか、とお互い微妙な顔で笑い頭を掻いて申し送りの輪に加わる。 もっとも今日はただ、畠中の隣でふんふんと頷き聞いているだけなのだが。 夜勤のメンバーはもう一人。 看護助手の野々村麦子という、こちらもやはり年配の女性だ。 「麦ちゃん。最年長。六五才」と古川に紹介されて「歳は言わなくていい」と野々村は古川の肩を叩いた。 「ほぼ療養だね。隣の施設で診きれなくなったらこっちにスライドしてくる感じ。褥瘡悪化しちゃったとか。肺炎起こしたりとか。あとは看取り待ちの人も何人か。家族が延命希望してる人もいるし。まぁ、たまに満床になるよ。その時は覚悟しといて」 畠中はそう言ったが、温和な雰囲気のおかげか脅しのような言葉も随分と柔らかく聞こえる。 「今はそんなに。閑散期って感じ。良い事なんだけどね」と畠中はそう言って肩をすくめた。 申し送りの後の訪室で、挨拶がてら病室を回って歩いたが、説明の通り寝たきりの患者の方が多い。 腰が九十度に曲がったような老婆が、それでも独歩で廊下を歩いていた。 その背中に「瀬戸さん。お家帰るならちょっと師長さんのところ寄って行こうよ」と野々村が声をかけている。 瀬戸さんと呼ばれた彼女は無事、詰所で保護されて、帰宅を誤魔化されていた。 それを見て思わず笑ってしまったのは、微笑ましさでだ。 「瀬戸さん認知でさ。結構激しい時あるよ。今日は出歩きたい日みたい」 弱ったような表情を見せた畠中が「あとは高田さんだけだね」と、開かれたままの個室の扉をノックした。 この部屋だけ、外から中が見えないようにパーテーションが立てられている。 「甚一くん。大丈夫?一旦帰る?」 畠中が病室に顔だけを覗かせ声をかけたのは、おそらくこの部屋の患者の家族にだろう。 そういえば昼間、二本柳が誰かと泊まりがどうとか、そんな話をしていた気がする。 「や、大丈夫です。つか多分なんすけどそろそろなんじゃないかなって。…わかんないっすけど」 やけに落ち着いた小さな声が病室から僅かに聞こえた。 「一回先生呼ぶね」と畠中が言うと「お任せします」と返事が返って来た。 ちょっとごめんね、と口にした畠中は胸元の院内PHSからドクターへ連絡を取った。 漏れ聞こえたドクターの返事は、すぐにこちらに向かうとのことだ。 「先生にも紹介しないとだね」 と畠中は微笑み、とりあえずは詰所へ戻りパソコンを開いた。 病院自体のスタッフ人数は五十名ほど、うち看護部の職員三十名。そのうち十名は看護介護補助者というのだから、おそらく本当に綱渡状態なのだろう。 ひょろっと背の高い、柔和な笑顔が印象的な畠中は「これだけ入力しちゃうね」と今し方の出来事を、パチパチとタイプしていく。 「助手さんはいるけどオムツ交換も食事介助も僕たちも勿論参加します。日勤の時は介護士のパートさんもいるけど、できるスタッフで交換するから。とにかく人が足りなくて」 参るよね、と指を動かしながら眉を下げる畠中の説明を聞きつつ日勤のスタッフがパラパラと帰っていくのを頭を下げて見送り、記録中の畠中の後ろに立ったまま、なんとなく個室の入り口を眺めていた。 病欠となった花田というスタッフの家に寄ると言って帰り準備をした師長が、パーテーションの外から病室へ何やら声をかけ、手に持っていた紙袋を中にいる家族へと渡したようだった。 俺の視線に気付いたのか、畠中は「個室の高田さんなんだけど」と口を開く。 「申し送りでも言ってたけど、もうそろそろって感じで。こればっかりはいつどうなるってはっきり言えないからさ。泊まりに来てるお孫さんの事も気にしてあげて。疲れてると思う。何か声かけられたら対応お願いするかも」 「勿論です。戦力になるなら」 畠中は、頼もしい、と笑ってからくるりと俺に振り返り「あ、延命処置はしないってちゃんと家族確認してる」と、そう言った。 それは高田という患者に今何が起きたとしても、命を繋ぐ為の治療をしないということだ。 「あの、他のご家族は…お子さんとかいらっしゃらないんですか?」 今日来たばかりで、受持ち患者すらいないどころかスタッフもまだ認識できていない自分が、どこまで介入していいのか迷うところではあるが、情報として聞いておくくらいは許されるだろう。 「だいぶ前に亡くなってるみたい。僕も詳しく知らないんだ。僕も去年…一昨年か。妻の転勤で島に来たからさ」 腕を組みながら畠中がそう言う。 「奥さんの?」 「そうそう。公立高校の先生でさ。前いたところも田舎だけど、離島はやっぱり不便さのレベルが違うよ」 「そうですか?そこまで不便な気しませんど。コンビニあるし」 「これからこれから。俺も初めはめっちゃ良いとこって思ったもん。なんかごめんね。初日なのにいろいろ言っちゃって」 恐縮したような畠中に「や。逆にそっちの方がいいです。若い新人ならあれですけど」とこちらの方が気を遣ってしまう。 「病棟経験少ないから迷惑かけるかもですけど」と笑いながら言ったのは紛れもない事実なのだ。 「救急センターにいたんだっけ?」 「自分がいたとこは病棟と完全に別れてて。救急の、一日中やってる外来みたいな?」 「へえ。病院によって違うんだろうけど、逆に僕の方がこっちしか経験ないからなぁ。でも、ま、師長さんも言ってたと思うけど、まず今日はオリエンテーションのつもりでいきましょう」 畠中はそう言ってから唐突に「あ、そうだ。これあげる」とポケットからヤクルトを一本取り出して俺のスクラブのポケットに滑らせた。 「娘がヤクルトのバイトしててさ。買わされちゃった」と畠中は笑ったのだった。

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