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金、それだけ 6

丁度夕食の時間帯で、野々村が一人で配膳しているのが先程から目の端に映っていた。 「あ、俺とりあえず配膳手伝ってきて良いですか?患者さん覚えたいし。野々村さん一人で配ってるし」 「あ、そうだね。お願いできるかな?」 了解です、と返事をして廊下に出てすぐに「お、見ない顔」と声をかけてきたのは、白衣を着た四十代くらいの医師だった。 「あ、今日から出勤の斎藤です。斎藤陽太」 「本間です、よろしく」と軽く腕を上げられてもう一度頭を下げる。 野々村に声を掛けると大袈裟に喜ばれ、悪い気はしなかった。 一人一人ネームバンドを確認して、介助が必要だと思われる患者の目星をつける。 今夜俺にできることといったら精々その程度だろう。 高田甚八、と書かれたネームプレートには家族用と書き足されていた。 失礼します、と小声で言って中を覗く。 古い病室だった。 ベッド脇のパイプ椅子に座っているのは、自分と同じ歳の頃か、もう少し若いかもしれない青年だ。 膝に肘を付いてジッと患者を見つめていた。 初対面だが、彼の目の下に少し隈があるように思えた。 今日夜勤の斉藤です、何かあればすぐ声かけてください、と青年に声をかけると首だけで会釈をされた。 青年の眉が寄っている事に気付き「初出勤なんですよ。これからよろしくお願いします」ともう一度声をかける。 「あ、ご飯、消灯台で大丈夫ですか?」 そう言いながらも、目線は否応なく患者に向いた。 既に輸液は外されている。 心電図のモニター音は最小にされ、不規則だった。 今まさにアラームが鳴ったにも関わらず、青年の反応の薄さに、もう何日もこの状態であったことが伺える。 その中で、呼吸器の音だけが一定の速度で聞こえていた。 「夕飯、頼んでないですけど…」 青年に急に声をかけられ「え」と声を上げた。 確認してきます、と踵を返した時「二本柳さんが甚一くんにって。食べれなかったら残しても良いよ」と言いながら病室に訪れたのは畠中と、先程挨拶を交わした医者の本間だ。 「甚一くん、疲れてない?大丈夫」 畠中は青年に声をかけて、俺の手からお盆を受け取りサイドテーブルに置くと「二本柳さんにコストつけとくから」と笑い、彼にもヤクルトを一本手渡した。 本間はモニターのアラームを止め、画面を確認してから「甚八さーん。どうだい?」と声をかけ、まずは首に下げた聴診器を患者の胸に当てた。 本間が心音を聞き、瞳にペンライトを当て「甚八さん、辛くないかい?」と言いながら身体に触れていてもなお、青年は落ち着き払っていて、それは病室の空気をひどく緩やかなものにしているように思えた。 けれど、廊下からは野々村さんと、おそらくだが、認知のある瀬戸さんの会話が聞こえてくる。 今日家に帰るって言ってある。 今夜はもうバスがないから明日にしよ。瀬戸さん。 ええ?困ったねえ。明日約束してるんだよねえ。 聞こえてくる会話に、畠中は我慢することなく笑い、本間も笑う。 青年も、ほんの少しだけ口の端を上げた。 ナースコールが詰所から聞こえる。 「あ、俺、ちょっと行ってみます。できるかわかんないですけど」 畠中から、頼みます、とお願いされて対応に向かい、病室へ繋がるマイクから「ただいま伺います」と言って間違えないよう病室を確認しながら廊下を歩く。 食事介助に始まって、トイレ介助、1時間おきの体交はその都度野々村に声をかけ向きを確認しながら。 瀬戸さんの徘徊、オムツの交換、内服介助、輸液の交換、そして瀬戸さんの徘徊。 物のある場所がわからない上、患者を間違えないように、と時間は必要以上にかかってしまっただろうが、なんとかこなす。 日を跨ぐまでには大体の患者を把握してしまうほどには、あちこちに振り回された。 勿論のこと、野々村と畠中もそれぞれに病棟内をバタバタと行ったり来たりだ。 そうしているうちに、前を通り過ぎるだけの高田の部屋から僅かに聞こえるアラーム音は頻回になり、本間と畠中の出入りの間隔が毎時間毎に短くなっていった。 少し休んでと言われ、簡単に電子カルテの操作も教わり、記録を入力しながらカップ麺を啜る。 詰所の奥にソファスペースがある。 野々村はぐったりと腰を下ろし「久々にバタバタ。今日の夜勤当たりだわ」とため息をつきながらチョコを齧っていた。 「斎藤ちゃんも食べなー」と言って。 書き留めたメモを入力しているうちに、説明だけを受けていたラウンドの時間に設定していたスマホが鳴って、思い切り伸びをして席を立った。 ライト片手に病室を回る。 瀬戸さんがどうにも眠れないようで、所在なくベッド脇に腰掛けていた。 眠剤を内服できないかと思ったが少しだけならいいだろうと隣に腰を下ろした。 二人並び、ありもしない話をして小さく笑う。 なんとか誤魔化し横にさせる事ができた。 ナースコールが鳴る。 男性患者がトイレに行きたいと訴える。 管が入っているからそのまましても大丈夫ですよ。と安心させる。 俺がそうして過ごしているうちに、個室では高田の最期が迎えられていた。 「斎藤ちゃんもいてあげて」 「え、でも」 戸惑いを隠せなかった俺は野々村に引っ張られるように高田の病室へと足を踏み入れ、畠中と、高田甚八の孫である甚一の間に立った。 どんな時でもナースコールは空気を読まない。 たとえそれが、たった一人の家族が死んだ青年の前でもだ。 野々村は自身が涙を溜めているというのに「いい、大丈夫。行ってくる」と言って「甚一、頑張ったね」と甚一の背中を撫でて個室を出て行った。 「お世話になりました」と甚一は野々村に向かい丁寧に頭を下げた。 「さ、甚八さんを綺麗にしてあげて。甚一くん、あとでまたね」 そう言うと俺と畠中の肩を叩き本間も部屋を出る。 畠中が呼吸器の電源を切ると、病室は物音一つしないと言ってもいいほどの静けさになった。 「身体綺麗にするけど、甚一くんロビーで待ってる?」 畠中がそう聞くと甚一は「どうするのが正解なんですかね、」と自信なさ気に聞き返し「出てた方がいいですか?」と続けた。 畠中は、ふふふと笑い「甚一くん真面目だから、甚八さんも安心だよね」と言って「最後の最後まで一緒にいましょうか」と甚一を窓辺の腰掛けに促した。 「斎藤くんにもお願いしていい?」 畠中は、グローブをつけると俺の分をはい、と差し出し「初日からごめんね」と今日何度目かの謝罪を口にした。 「いや、予測とか、できるものじゃないし…。こればかりは…」 「…そうだね」 窓辺に座り、ぼんやりとしている甚一にも聞こえるかどうかの小声のやり取りだった。 息を引き取ったばかりの高田さんは、まだ温もりを残している。 救急ではこんなに静かな時間を取れたことはあまり経験がなかったように思う。 シーツに横たわる体を見下ろすと、胸の動きがないのが不自然なくらいだった。 温めたフェイスタオルで清拭をしていく。 肌はやわらかく、心臓が動いていたさっきまでと何も変わらないように思えた。 今までだって、自分なりには丁寧に触れているつもりだったが、いつも最短最小限の処置になった。 もう次の生きた患者が急かすように列をなしているからだ。 葬儀屋が到着していれば、家族が彼らに頼むことも多かった。 何もなければ、島の夜勤は静かなのだと思う。 ナースコールが鳴っては消えて、野々村が対応してくれているのがわかる。 あまりにもコールが連続するものだから、畠中は部屋の外を気にして「斎藤くん大丈夫そうだし、少しまかせてもいいかな?綿詰めは葬儀屋さんでするし整えてくれるから大丈夫だよ。すぐ戻るよ」そう小声で矢継ぎ早に告げグローブを外し、足元のゴミ箱へ放った。 部屋を出る際「甚一くん、葬儀屋さん呼んでもいいかな?皆来るまで待ってて欲しい気もするけど…」と窓際に座る甚一に声を掛ける。 「あ、いや、仕事の邪魔になるから呼んでください」 放心状態だと思っていた甚一は、案外しっかりと受け答えをしていた。 「そんな事ないのに」 畠中は、一度はそう呟いたが、甚一の気遣いを汲んだように「わかった。今先生も診断書書いてくれてると思うから。嫌かもしれないけど、他のスタッフにも連絡するね」と病室を後にした。 任せてもいいかと言われたが、もうほぼほぼ終わっているのだ。 何をどうすることもなく、髪を丁寧に梳く。 気付けばもう、早朝と呼べる時間になっていた。 「なんか。忘れないです。多分。今日のこと」 三人の部屋が静か過ぎたせいだ。 気付けば口から溢れていたのだ。 「自分、今日ここに到着したんです。今日契約書に判子押して」 甚八の髪を殊更ゆっくりと整えた。 挿管を固定していたテープの残骸が頸部に張り付いているのを見つけて、ウェットタオルで拭き取っていく。 「スタッフさん一人休むって偶然聞いたから、自分出れますーとか言って。おかしいでしょ?」 誰に聞かせるわけでもなかったと自分でも思う。 俺が無音に耐えられなかっただけかもしれない。 甚一は何も言わず、黙って聞いていた。 遠くで波の音が混じったような、低い風の音だけが聞こえる。 部屋からは日の出が見えて、すぐに葬儀屋が到着した。 きっと前もって相談していたのだろう。 甚一と一言二言会話をしてお互いに頭を下げて、葬儀屋は仏様に手を合わせた。 もう少しで皆が来るからそれまでいないか、とやはりドクターから言われた甚一は、それを断り冷たくなった祖父と病院を後にした。 廊下を渡る途中、顔を出した当直の職員に甚一は律儀に頭を下げて歩いていた。 玄関まで見送る為、数名の一番最後に着いて歩く俺に視線を向けた甚一は、深々と頭を下げ、ありがとうございました、と言った。 日勤帯が来るまでに、できるだけ部屋の後片付けをした。 昼には部屋移動をするようだ。 瀬戸さんを個室に移すらしい。 さっきまで高田家の二人がいた部屋は、何事もなかったように無機質になった。 高田甚八という患者の生前の事は何一つ知らないというのに、少しばかり寂しさを感じた。 朝の採血を頼まれて、リセットされたように覚えられていない事を笑いながら、再び自己紹介をして部屋を回った。 畠中から連絡を受け既に出勤していた師長は各部屋を周り、患者に朝の挨拶をしている。 採血中の俺を見つけると「畠中がめちゃくちゃ褒めてたよ。即戦力ありがたいよ」と背中を叩かれて、イヤイヤ、と照れて見せた。 日勤帯の出勤も始まっている。 まだ顔を合わせてない看護部ではない職員達も、どれどれと自分を見に来ていた。 さいとうです、さいとうようた、三六才です、と八の字に眉が下がった。 この病院では夜勤明けの次の日は、公休になるというルールのようだ。 病院を出て少し下りセイコーマートに寄る。 寮に帰るため山の方へ戻る。 時間にしたら15分もかからない。 そのくらいの距離感だ。 途中、島の各所にある防災スピーカーから、高田甚八の通夜の日時が放送されていた。

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