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金、それだけ 8

「行きに通った時も見かけて、歩いてんなって思ったけど。帰りもまだ歩いてるし」 甚一は、声をかけた理由を探すようにボソボソと呟く。 「…気付いてたんなら声かけて欲しかったです…」 知らぬ間に見られていた事に更に恥ずかしくなり、素直に答えた。 初めは遠慮して断ってはみたものの、内心ほっとしたのか、急に足が重だるくなり「方向一緒っぽいんで」という甚一のご厚意に甘えてしまった。 少し深く腰かけ直し、車窓を流れて行く山の斜面を見ていた。 車内の会話は特に盛り上がることもなく、甚一の車は海岸沿いを進んでいる。 Bluetoothで繋がれた聞き馴染みのない音楽が流れてはいたが、無言の車内は手持ち無沙汰でなんとなくバッグに入れっぱなしにしていた島のチラシを開いた。 航空券割引キャッシュバックのチラシだ。 確か、丘珠空港から飛行機に乗った際に手渡され、次に飛行機に乗るとしたら一年後、その上旅費が全額戻ってくる自分には関係が無いと、眺める事なく折り畳みそのままにしていたものだ。 「 面積142.99km²、人口約2,101人の1町から成る離島で、複雑な海岸線は海の幸の宝庫となっています…」 チラシにかかれた島の紹介文を独り言のように読み上げると「へえ。そうなんだ」と興味なさげな返事が返ってきた。 「って、書いてあるんで」 「二千人もいるかな」 「さぁ。わかんないですけど…」 会話のキャッチボールがあまりにも続かな過ぎて無意識に口をついて出たのは、たいして知りもしない人間を車に乗せる羽目になったことへの謝罪だった。 「あの、すみません。なんか…」 「いや、別に。こっちも帰るだけだし」 甚一の返事は、やはり素っ気ない。 病室での初対面では状況が状況だったこともあって、いたく落ち着いた人という印象の甚一だったが、元々口数の少ない人なのか愛想が良いとは決して言えない。 運転席側は海のはずだが、島を囲むようにして建てられた防潮堤は、人の背丈をゆうに越えて聳え立ち、春の海を少しも見せてはくれなかった。 それでも話題を探すように、物珍しく眺めるふりをしていた。 「波除が高いんだね」 外を眺めたままぽつりと呟くと甚一は「…震災あったから。それまではなかったらしいよ。俺も覚えてない」と、そうボソボソと言った。 高田が言う震災とは、三十年以上前にこの島を襲った地震による津波の事だ。 パンフレットの隅におさらいのように記してあった出来事は、自分達の年代ではあまりに記憶に遠く、防潮堤は到達した津波の高さで建てられたものと、記載を読んだ。 中でも一際高く建設されている場所は、その被害が大きかった場所らしい。 「資料館あるけど。行く?まだ間に合うんじゃねえかな」 気を利かせてくれたのかもしれない。 甚一の提案に、「え、高田さんが行きたいなら」と答えたが「子供の頃毎年行かされたからもういい」という返答は皮肉にも聞こえてしまった。 地元の人間にとっては日常に起こった事で、ある日突然世界が変わってしまったような、そんな出来事になっただろう。 テレビや動画で知っていても、簡単に想像できるものではない。 「高田さん。あの、お爺ちゃんの事。不慣れですみませんでした…。その、俺あんまり慢性期病棟って経験無くて…。何か不手際があったかも…」 沈黙が些か気まずくもあり、思わず口から出たのは、先日看取った甚一の祖父の話題だった。 つい数秒前まで動いていたはずの心臓が止まる。 それだって、少なからず人の世界を変えてしまうもののはずだ。 最期の処置は、自分なりに丁寧に、出来ることはやったつもりだが、家族からしてみれば、ぞんざいに扱われたと思われるかもしれない。 甚一が返事をしないので、不満があったのかと心配になり運転席を伺うと、甚一の眉が寄っていることに気づいた。 「あの…」 甚一は何から言えばいいのかわからないというように「あー、」と口癖なのか、やはり意味のない声を出してから「いや、ごめん。慢性期ってなに?」と疑問を口にしたのだった。 「あ、えと、治療が必要な人の施設、みたいな?老人ホームの病院寄り?みたいな感じかな…。正確には違うかもだけど…」 「ああ…。や、別に。そういうのはなんもないっつーか。なんも考えてなかった」 「…はぁ」 「斉藤さんがなんで来たのかなって今は考えてた」 「ああ、島に?」 「うん。不便でしょ。大した観光地があるわけでもないし」 表情を変えないままの甚一の横顔を覗き見る。 まさかここで四百万の借金がありまーす、とは言えず、更に給料めちゃくちゃ良いんすよ、と答えるのもなんだか欲まみれの人間に見えるような気がして、どうにも口にするのが憚られた。 実際、欲まみれの身ではあるのだが。 離島医療に貢献したい、こんな自分が誰かの役に立てるなら、などとそれらしい言葉を並べてみても、なんだかどれもこれも陳腐に聞こえて逆に嘘くさいように思える。 「言わなきゃダメな感じですか?」 「言いたくなきゃいいけど。いや、斉藤さんに限らずなんだけどさ」 余所者を拒むようにも取れる甚一の口調からは根掘り葉掘り聞いてやろうとか、何しに来たんだなどという悪意は感じられず、「他の人はわかりませんけど…」と、前置きをしてみる。 隠したところで、例のあの医者がこの島に来る事はない。 甚一がどう思うかはわからない。 笑い話になれば良いという気持ちもあった。 「付き合ってた人が転勤になって。ま、そんときは普通に、そのうちねーなんて言って見送ったんですけど、次の週のインスタで結婚報告してて。そいつがここの病院に来てるドクターで。それも結構後にインスタで知って。一発殴ってやろうと思って。バカみたいだけど、本当の話です」 話しているうちに引っ込みがつかなくなり、結局最後まで喋ってしまったのは、甚一が口を挟まないからだ。 突然こんな話をされて、上手いリアクションが取れる人間がいたらお目にかかりたいものだ。 運転中なのだから当たり前だが、甚一は何も言わず前を見ているだけだった。 「佐伯って医者いませんでした?二本柳さんにもう来ないよとか言われて。マジかよって。あ、若いよ。確か三十三とか」 そう続けると「それ、うちの爺さん倒れた日にいた医者だけど。つか、その先生がいたから、うちの爺さん助かったみたいなとこある」と甚一は言って「…いや…助かったって言えんのかな。わかんねえけど」と、首を傾げた。 ふ、と畠中が言った事を思い出す。 緊急手術が半年前にあったと聞いた。 もしかして、その日たまたまいた出張医というのは佐伯なのか。 「え、まじ…?なんで…。まじで呪い。まじムカつく」 俺は、佐伯がたまたま出張で来ていた時に、たまたま運ばれて助けた患者の最期に偶然携わったのか。 やはり、縁か運命かと思わないでもない。 それは決して、恋愛的な意味ではない。 俺の恨み言に甚一の顔が顰められる。 「あ、高田さんの事じゃなくて、俺とあいつの状況がってこと。そこは誤解しないでください。本当に」 「…佐伯って」 俺が、くそーなどと唸っている最中で甚一が言い淀むのも無理はない。 佐伯も俺も、どこからどう見ても男なのだ。 ベラベラ喋るような事はしてないけれど、隠しているわけじゃない。 これを発端にあらぬ噂が立つかもしれないが、一年後には出ていく身。 会話を重ねる事に、甚一の眉間には一本一本深い皺が刻まれていっている。 「ああ、うん…。まぁ、そういうあれです…。別に言いふらしたいなら言いふらしても…。俺はあんまり気にしてないし…」 尻すぼみになる俺の言葉に、甚一の顔が更に歪んで「そういう言い方、どうなんだよ」と気を遣った。 海沿いに、民家がちらほらと見えてきていた。 やっと自分達の居住区に入る。 「…高田さんのお宅もこの辺なんですか?」 話題を変える様な世間話に甚一は「ああ、まぁ、はい」と素っ気ない返事をしただけだった。 病院の前で大丈夫と言ったのに、甚一は寮の手前まで俺を乗せた。 ガソリン代と言って差し出した千円札は「帰り道だって言ったでしょ」と言われ受け取ってもらえなかった。 「今度お礼させてください」と社交辞令のように言うと、甚一は「いや、本当に大丈夫なんで」と言ってヘッドライトをハイビームに切り替え、道路を下って行った。 車が見えなくなるまで見送ってから部屋へ戻り、テレビをつける。 ザッピングするが特に見たいものもなく、リモコンを放ってベッドに横になる。 給料が出たら今日のお礼と言って、甚一を呑みに誘っても良いかもしれない。 まずは返済が最優先事項ではあるが、それくらいの交際費は許容範囲、必要経費だろう。 もっとも、ホモからの誘いになど乗ってくれないかもしれないが。 ちなみに俺は別にゲイという訳ではない。 特に意識はしていないが、カテゴライズするならば、バイセクシャルというやつだ。 万人に受け入れられるとは思っていない。 けれど別に悪い事でもないだろう。 性別で人を好きになるわけじゃないし。 好きになってくれた人が、たまたま男だったり女だったりするだけだ。 買い置きのカップ麺を食べる為、お湯を沸かしに台所へ立った。 薬缶がないので鍋で沸かす。 沸騰していくお湯を眺め、不必要なまでにいろいろと話をしてしまったな、と少しだけ反省をした。

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