10 / 26

金、それだけ 10

車内では相変わらず知らない曲がかかっていた。 この間とは反対周りで走る車内は、先日と変わらず特に会話もない。 二人の間に流れる気まずいまでの空気の中「はっきり聞くんですけど」と甚一が口を開く。 何を?と聞き返す前には「金、大変なの?」と甚一は言った。 え、と小さく漏れた呟きは、甚一の耳に拾われたようだ。 「や、さっきたまたま。役場で」 そう言われて役場の窓口で項垂れる自分を思い出した。 職場や役場で晒した恥ずかしさは若干苛つきに変わってきていた。 「本当にはっきり聞きますね」 思いの外刺々しくなった言葉に気付いているとは思うが「まぁ、濁しても長くなるだけだし」と、甚一はやはり顔色を変えない。 「黙って見てるとかどうなんですか。この間もですけど」 更に強くなる口調に、甚一が一度小さなため息をつくのがわかった。 「こっちも手続きしてたんだよ。人間死んだ後もいろいろあんの。で?困ってるのか困ってないのか聞いてんだけど」 甚一の感情の見えない声と言葉は、やけに高圧的に聞こえる。 よく知らない人間に、なぜそんな事まで聞かれなきゃいけないのかという気持ちにもなる。 苛立ちも確かにある。 けれどそれを遥かに上回る惨めさだ。 その惨めさに涙が落ちそうになる。 一七五センチのどこからどうみてもただの中年が泣いたところで気味が悪いだけだろう。 しかも自分で作った借金が原因ときている。 もう目も当てられないのが今の俺の現実だ。 「こ、困ってますよ。すっごく困ってる。自分が悪いのわかってるから自分でなんとかしようと思ってるんです。結局、なんか、いろいろ頼っちゃってるけど」 車は、目的地もなく走り続けている。 窓の外を見ているのは、泣いている顔を見られたくないだけだ。 気を取り直すようにお茶を一口飲んで、鼻を啜る。 「なんで言わなかったんだよ、この間。男と付き合ってた話までしといて」 「お金の事は言えないでしょ」 「基準がわかんないんだけど」 「俺の基準ではそうなの」 「借金ってこと?理由は?ヤバいやつならこんまま交番行くけど」 「ギャンブルっていうかオンラインカジノってやつ?注ぎ込んだの。カード使い過ぎてキャッシングも。気付いたらほぼ破産状態」 「ギャンブルだろ。つかそれも犯罪じゃん」 「ふぅん。そうなんだ」 「いやよくわかんねえけど。そこはいんだよ別に」 「わかんないならテキトー言うな」 会話の途中、何度も鼻を啜った。 甚一から箱ティシュが放られたが、いらないと言って後部座席に投げた。 甚一から舌打ちが聞こえた。 テンポの良い会話にしては、あまりにも醜い。 お互い苛立ちが隠せなくなった頃、甚一は自分を落ち着かせるように鼻で大きく息を吸って、ゆっくりと吐いた。 俺は、相変わらず、流れていくだけの外の景色を見ていた。 「いくら?」 「はあ?なんで高田さんにそんなことまで言わなきゃいけないんですか?」 「借金、いくらだって聞いてる」 信じられないデリカシーの無さに、眉を顰める。 甚一の横顔は、やはり表情が読めない。 自分の祖父が死んだ時も、親しくもない人間を送ると車に乗せてくれた時も、今もだ。 澄ました顔に見えるのは、俺が冷静じゃないからか。 「四百万だよ!なんだよお前!代わりに払ってくれるの⁉︎揶揄ってるだけならやめろよ!」 導火線に火がついて、つい大きな声を上げてしまった。 これ以上、惨めな気持ちになりたくなかった。 もう降ろせよ、と口を開きかけた瞬間だった。 「払うよ」 一瞬、目の前の人間がなんと言ったのか理解できずにそのまま時が止まる。 「…は?」 実際には音楽は流れているし、車窓の景色は流れている。 「払うって。その借金。オンカジで作った借金なんだろ?もうやってないって言うのも信じるよ」 先日は甚一に刻まれていた眉間の皺が、今度はこっちに増える番だった。 えっと、とほんの少し浮かした腰をシートに沈ませて、なんと答えていいのかわからずにまずは再び外の景色を眺めた。 そういえば、この車は一体どこに向かっているのだろう。 しばらくは海岸沿いに民家がかなりの間を空けて建っていたし、山の方には学校らしき建物もあった。 整備されて見た目だけは立派な道路を走っていたはずが、一車線あるかないかの道になっている。 山道ではいかないが、人のいる気配はすでにない。 前方に、建設途中に見える建物があった。 足場は組まれているが誰かが作業しているようには見えない。 浅い知識しか持っていないし、実際にあるのかどうかもわからないが、蛸部屋、蟹漁船、人身売買などというワードが頭に浮かぶ。 「け。結構です…。本当に」 甚一に覚えていてもらえた事。 島でできた初めての顔見知りで、少なからず嬉しさはあったかも知れない。 佐伯の事をペラペラとバラしてしまったのも、久々に職場以外の繋がりを持てたからかもしれないと今になって思う。 「あ、降ります。明日もほら、仕事、あるので」 このまま着いて行ったとして、果たして俺はどれを選ばされるのか。 車が左折の為スピードを落とす中、俺は無理矢理作った笑顔でそう言って、ガチャガチャと音を鳴らしながらシートベルトを外した。 ベルト装着のアラームが鳴るが、それどころではない。 「何」と驚いた甚一がブレーキを踏んだのを合図に助手席のドアを開けた。 「あっ、おい!危ねえって!」 勢いのまま飛び出して、全速力で来た道を戻る。 「俺の事は気にしないで下さい!」 そう叫んだ俺の声が甚一に聞こえていたのかは、俺にはわからない。 まただ。また俺は、39号線を歩いている。 左手には海、舗装だけはしっかりされている2車線の車道を挟んだ右手には山の斜面。 道路の脇には手入れがされずに伸び放題の草が生えていた。 スーパーの方が北側なら、ここは島の南側だろう。 俺が今向かっている寮の場所は中央エリア。 高田が追ってくるかと後ろを気にしつつ足を進めるが、彼の車が俺を探している気配はなかった。 誰ともすれ違う事なく中央エリアに到着し、商店街に入ると交番の赤いライトが見えた。 その向かいは俺の第二の冷蔵庫になりつつあるセイコーマートだ。 寝巻きのような格好で歩く俺を、交番の前に立つ警察官が見ていた。 先程甚一に言われた事を思い出す。 オンカジは犯罪なのか。 俺は借金持ちの犯罪者なのか。 歩いているうちに甚一に対する苛立ちは消えていた。 あれは、言葉の少ない彼なりの心配だったのではないか。 それに対して俺はただただ開き直り苛立ちをぶつけてしまった。 けれど、甚一の人の傷口から肉を抉り出すような言い方はどうかとも思う。 素直に「払って」と言っていたらどうなっていたのだろう。 ぐるぐると考えても答えが出るはずもなく、そんな時でも人間は、腹だけは減るのだ。 グー、と鳴いて教える空腹が自己嫌悪を膨らませ、急に心細くなる。 いっそ楽にしてくれと、警察官と目を合わせた。 「君この間来た派遣ナースくんだよね?え、どうしたの?なんかあったかい?」 ジッと中年の男に見つめられた不憫な警察官が近づいてきて、まるで迷子を見つけた時の様に優しく問いかけてくれた。 自分でも気付かないうちに疲れてしまったのかもしれないし、甚一につまらない怒りをぶつけて、やるせない気持ちを一人で抱えたくなかったのかも知れない。 「お、俺のこと逮捕してください…」 制服姿の警察は、普段なら何もしていなくても何故か避けがちになるのに、今はひどく安心感を与えてくれた。 震える下唇を突き出すと、崩壊した涙腺からポロポロと涙が落ちてしまう。 「ちょ、え、泣いてる?」 人通りなど皆無に近いというのに、周囲を気にする警察官に肩を抱かれ交番の中に入った。 「ど、どうしちゃったの。故郷に帰りたくなっちゃったか?」 完全に子供扱いである。 入ってすぐそばのパイプ椅子に座らされ、ペットボトルのカフェラテをいただく。 そういえば口をつけたお茶を、甚一の車のドリンクホルダーに差したまま物理的に飛び出してしまった。 それすら今は申し訳ない。 スウェットの袖で、グズグズと鼻水を拭く俺に、警官はティッシュを差し出した。 「俺、前にオンカジハマっちゃってえ。犯罪なんですよね?もうやってないけど…めっちゃ借金作ってここ来たんです…給料良くて、返せるかなって。でも、もう逮捕された方が楽です…」 逮捕されたら財布の中身を気にしない生活ができるのではないかとも思ったのだ。 しゃくりあげながら話すと警官は「や、逮捕って。その辺俺もあんまり詳しく無いし…」と顔を背けた。 こんちくしょう。 恥を忍んで曝け出したのに半笑いじゃねえかよ。 このくそポリスめ。 警官は気を取り直すように咳払いをして「えっと、たしかぁ、斉藤くんだっけ?二本柳さんに聞いてたよ。よしよし、今日はまず帰ろう。な?オンカジの事は調べとくから。誰かに迎えに来てもらおう。婦長さんは…やめといた方がいいか。死ぬほど怒られるでしょ。あ、君昼間コンビニの前で甚一くんと話してたよね?友達になったのかい?今電話してあげるから待ってね」と、俺を落ち着かせるためか、喋り続けながらデスクに置いてあった台帳のようなものをパラパラとめくり、昔ながらの電話の受話器を耳にあてた。 今、甚一と言わなかったか。この男は。 「あ、高田さんはダメ!蟹漁船に乗せられる!」 電話を阻止しようと警官に手を伸ばしたが、拒まれ払い除けられる。 電話のフックを押そうとした左腕も阻止されてきつく握られてしまった。 「蟹?甚一くんはイカ漁師、あ、もしもし?甚一くん?交番の小林です」 「か、帰ります!俺!大丈夫!寮すぐそこだし!」 力を入れたら入れた分だけ、警官も強く腕を握ってくる。 お友達の派遣のナースくん酔ってるのかなぁ、ちょっとうちに来て取り乱しちゃってねえ。などと電話口で言っている。 チン。と間抜けな音で通話が終わり、くるりと振り向いた警官の顔が引き締まる。 「酔ってないです!本当に、全然!」 「ダメ。自殺とかされちゃおまわりさん困るから」 「絶対しないし!」 「信用できない」 掴まれた左腕は、信じられないほどにびくともしない。 こんなとこでちゃんとした警察官に戻るなっつーの。 小林な。覚えたからな。

ともだちにシェアしよう!