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金、それだけ 11
自分で掘るから誰か俺を深い深い穴に埋めてはくれないだろうか。
甚一の呆れ顔は、呆れなどとっくに通り越した疲れ顔にも見える。
交番に俺を迎えに来た甚一は、ただの知り合い程度の俺に代わり頭を下げて、少し怒ったように乗って、と言って俺を車に乗せた。
警官の小林がこちらを見ているのだ。
素直に甚一の言う事を聞くしかあるまい。
車は病院を通り越し、団地の前で停車した。
俺がまた助手席から飛び降りる事を想定していたのかは知らないが、先制攻撃とばかりに甚一が口を開いた。
「あのさぁ」
文句を閉じ込めたため息が甚一から漏れ、そのままウィンドの縁に肘を置いて頬杖を付く。
「…呼んだの俺じゃ無いもん」
恥ずかしさで顔を両手で覆った俺に甚一は「だから払うっつってんのに」と乱暴な言葉を投げつけた。
「ちゃんと自力で返しますから、本当に」
「家賃。団地の。いくらなの?」
「関係あります?今」
「いいから。いくら?」
「…二万って書いてた」
埒が開かないとでも言う様な態度の甚一は、手のひらに隠れてしまった俺を全く気にせずに、一方的に聞きたいことだけを聞いていく。
まだ一度も払っていないが雇用契約書には確か寮費二万の記載があったはずだ。
その安さに驚いたのも記憶に新しい。
「じゃ、二万でうちに住めば?」
そう言った甚一のセリフは、今俺の頭の中で繰り返されている。
手を解いて、顔を上げて甚一を眺めた。
たっぷり十秒は口を開けたままだった。
「…なんて?」
甚一は首を掻いて、それからゆっくりと話し出した。
「生活費ったって斉藤さんも仕事に出るんならたかが知れてるし。全部混みで月二万くらいしばらく入れてくれれば固定資産税分と今年の暖房費くらいになるから。給料出たらでいい。俺も上手い具合に稼いでる訳じゃないから結構助かる」と続けた。
「いや、でもあんまり知らない人と住むのはちょっと…」
「別に無理にとは言ってない。ただの提案。こっちは別にって話」
「その、高田さんも助かるというのは…」
甚一は、シートにもたれかかると少し考える様に視線を上に向ける。
「収入が不安定なんだよ。一次産業の、特に俺たちみたいなのって。冬は雪かきのバイトしてる」
俺は、正直言って世間知らずなところがある。
自分に関係のある職種以外の給料事情など、ましてや漁師の給料なんてどこから出ているものかもしらない。
「そうなの?高田さん漁師なんでしょ?マグロ一匹釣ったら500万とかじゃないの?」
「マグロ釣らないし。釣ったって500万丸々懐に入る訳じゃないし」
漁師といえば、テレビで見た事のあるマグロの一本釣りしかイメージはわかないのだ。
「そうなんだ…。蟹は?」
「ロシアまで行ける資格持ってない」
「おそロシア…」
「うるせえな。まぁ、斉藤さんがめちゃくちゃ酒飲むとかなら食費も出して貰うかもだけど」
わざとふざけたのが伝わって、少し嬉しくもあった。
自然と態度と口調が砕けてきているのはお互いだ。
「多分普通。多分ね」
「あとギャンブルはやめろ」
「もうしてない」
「俺は確かめようがないし」
「絶対しない。もうする気にもならない」
うん、と自身の決意を確かめる様に頷いた。
それからもう一つ「あの、俺の事売らない?俺、もうおじさんだしあんまり需要ないかも」と俺のくだらない妄想の発言を聞いた甚一は、数秒キョトンとして、二、三度ゆっくりと瞬きをして、ふは、と吹き出して横を向いて、ククク、と静かに笑い出した。
その口元を拳で隠しながら。
「人売れるとこ知らない」
そう言った甚一の笑い顔は、あまりにも幼い。
この人は、こんなふうに笑うのか。
困ったように眉を下げて、切れ長の目が糸になってしまうほど細くして、笑い皺を刻んで。
初めて見る甚一の笑顔に、ささくれのひどかった胸の内が、ふ、と紐解けていくような気持ちになる。
「あー、その。気を遣ってるとかじゃない?俺が金なさすぎてさ」
ぽろりと落ちた言葉は、無意識に、思いがけず素直になった。
甚一のせっかくの笑い顔は、咳払いで終わってしまった。
甚一は、組んだ腕をハンドルに付いて顎を乗せ、バツが悪いように黙ってから、やっと口を開いた。
「…気を、使ってるのかわからない。人付き合いが苦手だからこうするのが正しいとかも正直わかってない。間違えてるなら教えてほしい」
口を尖らせ不貞腐れた様な甚一の横顔は、大型犬を思い出させた。
不器用に見える男が紡ぐ子供の様な言葉は、体の中にストンと落ちて胸に広がる。
「た、正しいとか間違いとかはわからないけど…。でも普通なら多分言わないかなって思う。思うけど、俺はめっちゃ迷ってる。俺は今一万でも二万でも浮いたら超ラッキーだから。でももう絶対借りたりとかはしたくないの。なんか、それやったら俺多分もうダメになると思う。俺マジでめっちゃアホだから」
甚一は催促する様に、こちらを見て「じゃあ、どうする?」と小さく聞いた。
ハンドルに体重を預け、頭を乗せたまま。
「どうするってそんな。今決めなきゃダメなの?」
唇を尖らせる俺がおかしかったのか、甚一は再びクククと拳を口に当て含み笑いをして「部屋。今月中に引き払えた方がいいんじゃないの?」とのんびりと言う。
「確かに」と頷き甚一と目を合わせた。
「じゃ、決定?」と甚一が聞くので「高田さんが良いなら」と即決。
甚一の眉が下がって、目が細められる。
この人、全然無愛想なんかじゃないや、と唐突に思う。
ほんの少しだけ茶色い瞳の色が、すごく優しい。
「あ、そういえば一つ頼み事ある」
と甚一が言う。
まずちょっと行って良い?と聞かれて、え、うん。と返事をしたが、どこに?とは聞けず、甚一に気付かれないように生唾を飲んだ。
「あの、奥様とか、いらっしゃる?」
「いらっしゃったら居候とかさせないと思うけど」
「いや。でも…」
「寝るなら広い方がいいだろ、普通に」
「そ、っすね」
すいすいと泳ぐ車が向かった先は、なんて事はない。甚一の自宅だった。
寮のある商店街を抜け海岸線を数分走って、エリアとしては同じだろうが、今はもう開かれていない商店を曲がった先の小さな集落の中に甚一の家はあった。
途中に公民館があった。
右隣は空き地で、左隣は民家だ。
家の前には駐車場、家の裏には庭もあるらしい。
玄関の引き戸は曇りガラスで、外観はそれなりに古そうではある。
靴を脱ぐ前、雑誌に出てきそうな玄関にまずは驚いた。
炬燵、みかん、電話の上のレースのカバー、ジャラジャラとぶつかり合うビーズの暖簾、ボンボンと音が鳴るガスの給湯器、子供の頃、爺ちゃんの家で見た風景を思い出しながら潜った玄関に入ったと同時に、ほっこりした気持ちは一瞬で消えた。
元から立て付けられている靴箱の上には、ロードバイクが壁にかけられていた。
「…自転車、乗るんすか」
と聞いたら「ああ、爺さんが乗ってた」と甚一は言った。
俺は、もう二度と動くことのなくなった高田甚八さんしか知らないので、へえ…、とだけ言って甚一の後に続く。
黒のニューバランスを足だけで脱いだ甚一に、どうぞ、と案内された。
「お邪魔します…」と呟くように言って靴を脱いで揃える。
すぐ左手はお手洗いと見た。
その隣には2階へ続くストリップ階段がある。
家の古さに比べて、随分と洒落た作りなように思う。
そしてリビングに入る。
部屋の真ん中にソファ。
木目のテーブル、大き目のテレビ。
その隣の間接照明はモダンと言うのが正しいのか。
リビングの両側に、襖で仕切られた部屋。
道路側の部屋は、甚一の寝室なのだろう。
そこで先ほどの問題が発覚した。
部屋の真ん中に置かれたベッドが、ダブルを超えたキングサイズのベッドだったのだ。
その上には、乱雑に脱ぎ捨てられたTシャツと家着らしいジャージ。
iPadが同じように、ポン、と置かれている。
サイドの空いているスペースには、レコードとオーディオがあった。
車内でも自分なら聞かないような音楽が流れていた。洋楽か邦楽かもわからない曲もあった。
漫画の本も綺麗に並んでいる。
反対側には押し入れがある。
片側の襖が開いていて、押し入れがクローゼットに改造されていることがわかる。
とにかく整理整頓されている部屋に、奥様がいないなら、お付き合いしてる人でもいるのではないか、と疑う。
「彼女さんが?あ、いらっしゃった?」
「いないって。部屋中ベッドみたいなのいいなって。本当に」
甚一は、ククク、とまた笑って、車のキーをソファに投げた。
重厚な、三人がけの皮のソファだ。
テーブルに電子タバコを吸った形跡があって、タバコを吸うんだな、と思った。
「前は俺が使ってたんだけど全部片付けたから」
手招きされ、案内された二階の二部屋は、言われた通り何もない。
階段を登って左側の部屋は、以前甚一が使っていたであろうベッドが置かれているだけだった。
それも多分シングルじゃなくて、セミダブルだ。
「好きに使っていいよ。荷物あるでしょ」
短い廊下を挟んだ向かいの部屋は、突っ張り棒で物干しが作られた洗濯部屋だ。
廊下側以外の全ての壁に窓があり、日当たりも風通りも随分と良さそうだ。
この時期だと少し寒いくらいに思う。
「それでその…頼み事というのは…」
この、綺麗に掃除されている家の中を見て、俺は、ハ、と思いつく。
ハウスキーパーではないか、と。
掃除洗濯家事、育児はないが、自分の身の回りのお世話をして欲しいのでは。
いや、そうに違いない。
幸か不幸か職業柄、そういった事を当たり前に出来ると思っている人間がいる。
現に俺は二十代の頃、その事が原因で男と別れた事がある。
一人暮らしも長い分、できない事はない。
けれど世間に見せて恥ずかしくないかと言われればそこまで完璧にこなしている訳でもない。
「俺。料理はそこまで得意じゃないけど掃除くらいならちゃんと出来ます」
階段を降りながらそう言うと甚一は「え?」と不思議そうな顔を作った。
「頼み事って、家政婦的なアレですよね?1人だとどうしてもテキトーになっちゃうし。わかります」
再びリビングに戻り、そう続け深く頷くと、甚一はやはりククク、と笑って「いや、別に。そういうのは考えてなかった」と言った。
え。じゃあ何を、と言ったところで、リビングから続くもう一部屋の襖の間から、花に埋もれるように置かれていた骨箱が見えた。
「あの、お線香、あげてもいいですか?」
その部屋を伺うと、甚一は首を掻いて「ああ、まぁ。どうぞ」と言って襖を開けた。
何もない8畳ほどの畳の部屋に、甚一の祖父である甚八の遺影が飾られていた。
甚一は、仏壇に蝋燭を立て火をつける。
初めて見るほど立派な仏壇には、若い男女四人の写真が飾られていて、壁にはおそらく高田家の先祖の写真が並べられていた。
誰かと聞くのは、今はそぐわしくないように思う。
正座をした俺に合わせて、甚一も隣に座る。
線香を立て、リンを鳴らし手を合わせた。
「結構、元気な方だったけど」
甚一はそう呟いて、俺に付き合うように線香に火を付け「案外あっさり死んだな」と言って、息を吐いた。
甚八のキーパーソンが甚一だけだった事、家族を呼んでもおかしくない場面に誰も来なかったということは、そういう事なんだと、なんとなくは察していた。
島の外には親族がいるのかもしれないが、知らなければならない事でもない。
何を言ってあげるのが正解なのかはわからない。
「……そうなの。人ってあっさり死ぬし、死ねない時もあるし。どんな姿でも死なせたくない人もいるし。不思議だよね。命って、なんなんだろうなってたまに思うよ。俺」
そう言って、高田家の仏様達にもう一度手を合わせたのは、お邪魔してます、と伝えたつもりだ。
顔を上げ甚一を見ると目が合ったので可笑しくなって笑ってしまった。
「高田さん、甚八さんと似てるね」と言うと不本意なように「よく言われる」と言った。
仕切り直すように息を吐いて、立ち上がった甚一は「ちょっと」と俺を台所へ呼んだ。
その前に、あ、と言ってお供物の中に菓子を見つけ日付を確認すると、同じものを二つ手に取り一つを俺に寄越した。
甚一はそのまま袋を破り一口で口に放る。
食べていいのか迷っていると、頬を膨らませて咀嚼し、テーブルに置いてあったペットボトルのお茶を飲んで「これが俺の頼み事」とそう言ってまたお茶に口を付けた。
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