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金、それだけ 13
見慣れない天井に頭が追いつかず耳元で鳴るアラームを止めた。
まだ朝の五時前だ。
外は既に日の出を済ませている。
今日は夜勤で、まだ寝ていられるのに、と毛布を頭まで被ろうとして気が付いた。
バ、と勢いよく起き上がり何度か屈伸をして強制的に身体を目覚めさせる。
スウェットを着て階段を降りた。
洗面所で顔を洗う。
昨日の二人分の洗濯物が入った洗濯機を回そうとして、柔軟剤が2種類置いてある事を知り匂いを嗅いで、好きな方を投入。
それからお湯を沸かす。
電気ケトルは便利だ。
さて、とお目当ての場所に向かう。
個室傍のホルダーを開ける。装備完了。
洗剤をかけてブラシでゴシゴシ。
普段からマメに掃除されているのだろう。
汚れた場所は特にない。
「何やってんの…?」
いつの間にか背後を取られていた事に気付いて勢いよく振り返ると、ボリボリと腹を掻きながら甚一が欠伸をしていた。
甚一の寝起きの髪が、爆発した様にあちこちに向かって逆立っていた。
「いえ。ご恩を。これくらいしかできないので」
姿勢良くお辞儀をする。
「いいよ…あとでするから…つか、まずしょんべんさせて。どいて」
そう鼻声で言った甚一は一生懸命掃除をしていた俺をトイレの外へと追い出したのだった。
「高田さん。トイレは座ってした方が汚れも少ないです」
甚一は、米を喉に詰まらせた様な咳をして「まず、食いましょう」と言った。
二人の間のテーブルには、白菜とお揚げの味噌汁、おからと納豆。あんまりにも健康的過ぎるかとウィンナーと目玉焼きを焼いた。
甚一の仕事内容ははっきりとはわからないが、漁師なのだからきっと体力仕事だろうと思う。
無言で米をかき込んだ甚一に「用意、すんません」
と頭を下げられてしまったので「自分、夜勤なんで。昼間は少し寝かせてもらいますから」とこちらも頭を下げた。
お椀を手に持ち「いろいろ、」とだけ言って味噌汁に口を付けた甚一は、お椀をテーブルに置くと鼻を啜った。
「いろいろ、決めた方がいいんすかね」
甚一の目はまだ開いていない。
「高田さんの家だから高田さんが住みやすいようにしていいと思ってるけど」
そう返したが、今の甚一に何を言ってもきっと耳を素通りしてしまうだろう。
だって、瞼が下がって咀嚼が止まり、ハ、と目を開けて食事を続けるという一連の流れが先程から繰り返されている。
ここで暮らし初めて、甚一の寝起きがあまり良くない事を知った。
目覚ましのアラームを止めて二度寝をする様な事はないが、起きてからしばらくはこの調子だ。
ぼんやりしたままご飯を食べて、頭を濡らして寝癖を治して髭を剃る。
モゾモゾと着替えに寝室に篭り、寝室から出てきた甚一は、大体はパーカーとジョガーパンツに身を包んでいる。
甚一のなんとなく垢抜けたような顔は、それだけで様になるのだから羨ましい。
そこら辺でやっと甚一は目を覚ます。
「ご飯作って行くから食べてね」と言うと「すんません」と言って、甚一は仕事場へと向かった。
洗濯終了のアラームが鳴る。
下着類は2階の洗濯部屋へ。
甚一のパーカーと自分のスウェットはガス乾燥機へ。
甚八が生きている頃、何をどうしても磯生臭くなる衣類を気にして二人で買ったらしい。
台所で存在感を放つヘルシオは、甚八が漁協の忘年会のビンゴで当てたものと甚一は言った。
当たった当初、甚八は付いてきたレシピを面白がり、チーズケーキも焼いたりしたそうだ。
それから甚八は、映画が好きだった。
甚一の寝室に並ぶレコードとCDは、甚八が若い頃に集めた映画のサントラなのだという。
リビングのテレビでは、アマプラネトフリユーネクストと、若者顔負けにサブスク加入して引退した日々を悠々自適に過ごしていた様だ。
近頃は、韓国のヤクザ映画を好んで見ていたらしい。ミルで豆を挽いて、皮のソファに座り映画を見る。
ソファとテーブルもよくよく見ると、手入れされ使われ続けていることがわかる。
和洋折中が、甚八の貫禄ある渋い趣味を物語っていた。
偏見があるかもしれないが、小さな島の漁師の隠居生活にしては随分と都会的じゃないか。
仏間の窓を開けて空気の入れ替えをする。
この辺、案外甚一の方が大雑把だ。
甚一に代わり仏壇に火を灯し線香を上げリンを鳴らして手を合わせた。
昨夜もご近所から花と肉じゃがの差し入れがあり、花は骨箱の隣に飾り、肉じゃがは美味しくいただいた。
見慣れない俺の顔を見て驚いた近所の叔母様は、俺が島に来た派遣の看護師だと知ると、友達になったのねと笑い更に缶酎ハイを差し入れてくれた。
甚八が着ていたという衣類は、八十代の高齢者が着るには若く、捨てるなら俺が着る、と手を上げた。
甚八のデニムのシャツはほんの少しだけ大きくて、歳の割に体格の良かった人なのだと知る。
俺は、筋肉が削げ落ちて骨のようになってしまった甚八しか見ていない。
聞けば聞くほど面白い人だ。
けれど甚一に言わせれば、ただのミーハージジイなのだそうだ。
甚一と暮らし初めて、あっという間に一ヶ月が経とうとしている訳だが、実は事件が何度かあった。
まず一つは、移住給付金が振り込まれていたのである。
特定の職種従事で越してきた場合は追加で十万。
医療従事者はその対象で、計二十五万の大金だ。
一騒ぎして甚一に五万差し出したのだが、そのうちの二万だけを引き抜かれ、あとは小遣い、それ以外は返済に回せば?と揶揄われる。
先月分の電気代や水道代を払っても余る金額を返済に回す前に、俺は甚一を呼んだ。
リビングのテーブルを挟んでお互い、何故か正座をしてしまった。
す、とスマホと雇用契約書をテーブルに並べ、ついでに今月のシフト表も一緒に置く。
甚一がまず食いついたのは雇用契約書だった。
「看護師の給料やべえな」
目を皿の様にして契約書を読む甚一に「これは短期の派遣だからだよ。普通ならこんなにもらえない。前の職場は半分くらい…働き方にもよるけどもっと少ないよ」と、医療系の厳しさを解く。
「へえ…」
「で、見て欲しいのはこれです」
暗くなった画面をタップして、甚一に差し出すが人のスマホだからか、甚一は俺がスワイプするのを大人しく待っていた。
俺は、甚一に俺の全てを開示する為、今までのカード利用履歴を甚一に見てもらおうと考えたのだ。
甚一の隣に行って、一緒に画面を眺めた。
スワイプで流れて行く一昨年からの履歴は、自分が見てもお見事だ。
ある時を境に、頻回に、そして高額になっていく。
佐伯が転勤して、結婚を知った当時、連絡を取るか取るまいかだいぶ悩んだ。
LINEもインスタもブロックされてるかもしれないし、そもそも着信拒否をされているかもしれない。
考えれば考えるほど、空白の時間が開けば開くほど、なんと声をかければいいのかわからなくなり、スマホを眺める時間だけが増えた。
そのうちに広告にのせられゲームのように簡単に始めたオンラインカジノだ。
「やば、一晩で18万使ってるじゃん俺」
「金額デカくなってくのリアルすぎるだろ」
甚一は、笑い事ではない他人事に笑う。
カード会社の履歴全てを振り返り「高田さんならどこから返す?」と聞いてみる。
甚一は、ええ、と腕を組んで顎に指を添え画面を見つめた。
「一社ずつかな…。多分…。それ以外は、まぁ払える分払ってって…」
甚一が、あまりに真剣に考えるから、そうしよう、と素直に思える。
「アップルは普通に払えばいんじゃない?」
「やっぱり?」
「だろ」
いつのまにかソファに並んで座っていて、手には酎ハイが握られていた。
「払うっつってんのに」
甚一は、今でもたまに言うのだが「もう払ってもらってるみたいなもんだよ。ご飯も出て来るし、生活費込み二万って普通に考えても少ないし」と答えるのも毎度の事だ。
「まぁ、頑張ってください」
「頑張ります」
そう言って、給付金で買ったハーゲンダッツを冷凍庫から取り出し「ご協力のほどお願いします」と甚一に差し出す。
「それだよ、お前のわるいとこ」と甚一は笑って受け取った。
お礼の品でさえ、結局は金で手に入れたものなのだ。
それから月末の給料日には、甚一に無理矢理見守らせながら返済をした。
甚一曰く、全部デジタルだから何をやってるかがわからなくなるのだ、という年配が言うようなご意見を頂いてしまった。
いろいろ引かれ手取り四十八万円。
これだけでも凄い凄いと一人で騒いで、まずは一社に三十万、もう二社にはリボで五万ずつ。
アップルは二万。
甚一に二万払おうとしたら、今月はもう貰ったと受け取って貰えなかった。
じゃあ今度休みを合わせて外で食べようという話に落ち着き、五月分の返済は滞りなく終わった。
食費は、食べたいお菓子と仕事中の飲み物を買うくらいで、たまに甚一と食べるためにセイコーマートの唐揚げを買ったりはするが、まるで実家に住んでいるかのようだ。
通勤にロードバイクを使うようになった。
これも甚一がチャリは飾り物じゃないと言ってメンテナンスしてくれた。
掃除はなんとなく分担している。
気付いたらトイレが微妙に良い匂いになっている事に気付いて笑ってしまった。
きっと甚一が、俺に気を遣ったのだろう。
そして俺は四十九日の納骨に、嫌だと言って甚一を困らせた。
この間まで生きていたのに、この家は甚八が作った甚八の為の空間のようなのに、甚八がいないのはおかしい一人喚いたのだ。
甚一と酎ハイを数本空け、久しぶりの多量の酒に少し酔っていたかもしれない。
その晩俺は、仏間に置かれ、未だ花に囲まれた甚八の骨箱を抱えるように寝てしまった。
四十九日の法要に俺は仕事で同席できなかったが、骨箱は月が変わる今でも仏壇の手前にきちんと置かれている。
高田さんは俺を甘やかし過ぎだと思うと言ったら、ジジイといる時とたいして変わらないと笑われたのだった。
俺達の世界は、どうしたって金がいる。
息をするだけで税金を取られるのだからたまったもんじゃない。
金を得る為の労働だ。
けれど金だけではないだろうと、思いたくなる時もある。
朝の採血も滞りなく終わり詰所に戻ると、ちょうど配膳車がエレベーターから降りてきたところだった。
食事の介助が必要な患者は介護士さんにお願いして、経管栄養投与の為中村の爺様の部屋へ向かう。
中村の爺様は北側エリア方面の大地主で、若い頃はあれこれと島の事業に携わり、震災後は島に貢献してきたのだと聞いた。
けれど結局息子達は島を出てしまっていて、面会にも顔を出さない。
ここでもほんのりと金の匂いを感じて、俺は殊更やけになったように寝たきりの中村の爺様に構う。
1週間に一度ほど家族から連絡が来て、担当医の本間と古川が対応している。
瀬戸さんは個室に移ってから、今はもうベッドサイドのポータブルの用足しに足を下ろすのが精一杯になってしまった。
それはそれで俺たちを振り回してはいるのだが。
介護士の手も足りず、瀬戸さんのベッドの縁に腰掛けて、刻まれた食事をひと口ずつ口に運ぶ。
もごもごと口を動かして、時間をかけて、それでもちゃんと飲み込んでくれる様子を見ていると、自然と顔が緩んでいく。
「あったかくなってきたしあとで車椅子で外に出てみませんか?」
そう彼女に声をかけても、うんうん、と頷くだけだ。
何を聞いてもあまり返事が返ってこなくなってしまったが、どうしても話しかけてしまうのは職業病なのかもしれない。
食事が終わって口元を拭いてあげながら、ふと、悪くないなと、急に思う。
何が、と言われてもはっきりと言葉にすることはできない。
申し送りを終える。
少しだけ背もたれに体を預けて、あくびがひとつこぼれた。
日勤メンバーに追い出されるような形で病院を後にして、ロードバイクに跨り、ゆるやかな坂になっているメイン通りを下った。
潮風を受けながらのんびりと高田家への道を辿る海岸線の途中、甚一の車が前に見えた。
自転車を停め、大きく手を振ると甚一の車が徐行してゆっくり止まりウィンドが開かれる。
「甚ちゃん。どっか行くの?」
「函館。LINE入れた」
「見てないもん。え、泊まりで?俺も行く!明日と明後日休みだし!こんまま行っていい?」
「ダメ」
「なんでなんで。行きたい」
ヤダヤダと騒いだ俺を困ったように見た甚一は、少しだけ鼻で笑って「なんでも」と宥めた。
違和感に、あれ?と思う。
海岸に吹く風が、車内の空気を引き摺り出すように、甚一が付けているのであろう香水の匂いを鼻に運んだ。
似合わない訳ではないが、甚一には洗濯洗剤の匂いの方が似合っていると瞬間的に思う。
甚一の首元は、生地の厚そうな白いシャツが第一ボタンまで留められて、ハンドルを握る右腕に、見たことのない普段は付けてないG-SHOCKが付けられていた。
家にいるときたまに掛けているメガネは太い黒縁のはずだ。
縁のない丸いレンズのメガネは白いシャツによく似合っていて、合わせ慣れているように見えた。
「…今日帰って来る?来ないなら行く」
留守番前の子供のような事を言ってしまったのは無意識だ。
この人はきっと、思いがけず秘密が多い。
甚一はもう一度ゆっくりと「ダメ」と言った。
天気が良い。
陽の光は、春の中に初夏を感じるほど暖かい。
高田の爺様達に、まずは線香を立て「ただいま」と声をかけた。
『明日函館行く。ゴミ出しといて』
昨夜送られて来たLINEを、仏壇の前で確認した。
留守で無音の他人の家にいる自分が、奇妙に思える。
しばらくそのまま正座をして、何を考えるでもなく仏壇の写真を眺めていた。
ただただ、一人、ぼんやりと。
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