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嘘、それだけ 4
「俺、男とセックスできたら死んでもいいわ」
その言葉が強烈過ぎて何故そんな話になったのか、甚一は前後の会話を覚えていない。
そう翔平が言ったのは酔った勢いだったかもしれないし、成長過程で無理矢理胸の内にしまってきたものが爆発したからかもしれない。
けれど甚一はそれを確かめる必要はないと思っている。
お疲れっした。と一応は全員に聞こえるように頭を下げて更衣室を出た。
バイト先の居酒屋は、夜の12時を回ってもなお客足が途絶えない。
チェーン店の居酒屋の裏の出入り口からネオン煌びやかな街へ出た甚一は、携帯に届いた『店にいるよ』という短いメールで翔平がウエスタンキッチンにいる事を知る。
ビンテージ感満載のアイテムでまとめられた店内は、一見カフェのようでもあった。
小さな店ではあるが、朝方まで飯も食える酒も呑める甘いものも食べる事ができる。
甚一はよく知らないが、どうしても大体は酒がメインになってしまうゲイバーで、なかなか珍しい場なのだと居合わせた客から聞いた。
大学で翔平の姿を見かけても、学部が違うから基本的に行動を共にするような事はない。
そもそもキャンパス自体が違うのだ。
たまに友人といる翔平と目が合っても、片手を上げて挨拶をする程度だった。
甚一と翔平が会うのは決まって夜中。ウエスタンキッチンで落ち合うのがお約束になっていた。
東京の賑やかさには劣るだろうが、それでも甚一が育ったところに比べれば大都会だ。
飲み屋街を闊歩するのにもだいぶ慣れた。
けれど、人の多さには島を出て三年経ってもなかなか慣れず、甚一は連なる店を這うように道の隅を歩いた。
しばらく歩いて街の喧騒が消える境目に建てられたようなビルの地下に店はある。
今夜も店は適度に繁盛しているようだ。
翔平が、カウンターの一番奥の席で携帯を眺めていた。
店の扉の開閉音に気付かなかった翔平は、隣の席の椅子がずらされた事でやっと甚一の到着に気が付いた。お疲れ、とお互いに言って。
つまみのナッツが出されて直ぐに手を付けると、翔平は自分の分を甚一の前に置いた。
ジンジャエールを頼むと、お酒じゃなくていいの?とマスターに聞かれ頷いただけの返事をする。
「待ってればよかったのに、家で。チャージ代勿体無くない?」
そう言いながら、運ばれてきた炭酸で喉を潤す。厨房で5時間立ちっぱなしだった体が生き返る。
「酒入れないとできないって」
少しだけ色を含んだような翔平の言い方に、あれ、もしかして始まっちゃった?恋。とハンチングがトレードマークのマスターが、二人にしか聞こえないようにイタズラに笑ったが、ネルシャツに、癖っ毛、赤い縁の眼鏡をかけ、店に迷い込んだ高校生のような童顔の翔平は舌を出して顔を顰めると「タイプじゃない」と言った。
大学も残すところあと一年と言う時期にも関わらず、甚一と翔平は互いにどこか垢抜けきれない風貌だった。
洒落た店の明かりの下では、田舎から出てきたばかりの右も左もわからないような子供に見えていたのではないだろうか。
お互い酔っていた事もあったし、お互いガチガチに緊張もしていた。初めての時は。
肌に唇が触れても、くすぐったさもわからなかった。
そんなだから、勿論最後までできるはずもなく、お互い身体の反応も何もあったものではなかった。
浅い知識の見様見真似で触れた愛撫は稚拙だっただろうし、そもそも甚一に至っては、男女の成人用ビデオですらきちんと見たことがない。
性行為の方法だけをなんとなく知っていた程度だ。
その夜の二人の情けなくも恥ずかしい失敗は、翔平の大笑いで終わった。
なんか戦友みてえ。セックスの戦友。セックスに挑んでる。くっだらねえ。
裸で腹を抱えて笑う翔平を見て、切ろう切ろうと思いながらもめんどくささが勝ち、しばらくハサミを入れていない頭を掻いて、やはり甚一も笑ったのだった。
や、しつけえ、と漏れた翔平の声が掠れている。
甚一は、翔平の足を開かせて、むしろ乱暴に身体の中に入った。
ちょうど自分の顔の横にあった翔平の足の先をべろりと舐めると、ぎゅうと切なく翔平の中は疼いた。
そのくせ、くすぐったい、と言って甚一の頭に軽い踵落としを喰らわせるのだ。
ついこの間まで何も知らなかった子供達は、一つ覚えたらまた一つ余計な事を覚え、大学が休みの日には猿のように朝から晩まで身体を繋げるようになった。
会えばセックスしかしないような関係は、なかなかどうして、都合も心地も悪くない。
絶対に誰にも知られたくないと言い合った二人の営みは、十五歳の自分が見たら怯んでしまいそうな雑多な街に埋もれていた。
「秋田?」
そう聞き返す甚一の手には、マルボロライトが握られている。いつ覚えたのだ煙草なぞ、と翔平は甚一を見上げた。
シャワーから上がったばかりでまだ髪も乾かしていない甚一は、翔平を気にする事なくタバコに火をつけた。
まだ全裸の翔平はベッドにだらしなく横になったまま、枕を抱いて話を続ける。
「言ってないっけ?絶対そっちの方が良いよ。マシ。店あんだもん」
翔平はケラケラと笑って、甚一がテーブルに放ったタバコの箱から一本取り出して口に咥えた。あとで返すわ、と言いながら。
「でも陸で繋がってるだろ」
「コンビニまで山越さなきゃ行けねえのは繋がってるとは言わねえの。ま、高校は市内に下宿したからあれだけどさ。小中なんて山道歩いて1時間だよ。雪降ったら最悪。遭難するっつーの。よく死ななかったよ、俺」
翔平が喋るたびにプラプラとタバコの先が揺れる。
投げられたライターを手に取って、そのまま火をつけた翔平の格好を見て甚一は「寝タバコやめろ」と非難した。
「俺みたいなの自分以外にいないと思うくらい人いねえし。母ちゃんも父ちゃんもゲイって単語すら知らねえんじゃねえかな」
電気工学部の翔平が周りより一足早く貰った内定の電力会社は、北日本を中心に全国へ転勤があると聞いた。
「地元だったら笑えんわ」
翔平は心底嫌だ、という顔をして身体を起こしてあぐらをかいた。
パカ、と開けた口からタバコの煙が天井に登る。
「お前は?そういえば甚一の父ちゃんも漁師なんだっけ?」
祖父が漁師だと言うことは、何かの話題で既に翔平には話していた。
翔平の祖父が、小さい村の村長だった、という話を聞いた時だっただろうかと甚一は考える。
もっとも今は、翔平が産まれたという村は複数の集落と合併しただ広いだけの町になったようだが。
甚一は一旦は考えてから、ゆっくりと口を開いた。
「多分」
そう言ってから、首を捻る。
「よく知らない」
つい数分前までお互い裸で寝ていた二人だが、甚一はひとつも進んでいない卒論をそろそろ気にしなければならなかった。
リュックに入れていたノートパソコンを立ち上げて、タバコを灰皿に押し付ける。
「知らないってなんだよ」
翔平は、不満を含んだ声をベッドに背を向け座り込んだ甚一の背中へ文句を投げつけた。
ベッドの上ではあんなに執拗なのに、シーツの海から上がると一気に醒める。
その落差が気に食わないのだと、翔平はよく文句を言った。
「死んだ。震災で」
甚一の言葉が翔平にどう届いたのか、甚一にはわからない。
「母親も。多分」
翔平がどんな顔をしていたのかも、今の甚一に知る術はない。
「多分って」
と戸惑うような翔平の、小さな声を背中で聞いた。
「知らない。死体も上がってない。俺はあんまり覚えてない」
甚一は、この話をした時の相手の反応が、腹の底から面倒臭いと思っている。
甚一は、なんでもない事のようにそう言って、パソコンと一緒にリュックから引っ張り出したノートを開いた。
「何書いてんのか全然わかんねえわ」
授業で書き留めたノートを眺め独り言を笑いながら呟いた。
この話はこれで終わり、というように。
卒業と同時に翔平は青森に行くことが決まって、甚一はそのまま名古屋に残り内定の決まっていた会社へと就職をした。
何度か遊び相手を探しにウエスタンキッチンに足を踏み入れて、その場凌ぎのような愛を交わしてそのまま何人かとは遊んだが、甚一はもう誰のことも覚えていない。
翔平とは、付き合うだの付き合わないだのという話になったこともない。
もしそうなっていたら、逆に上手くいっていなかったかもしれないと甚一は思う。
スマホに替えたのも随分遅い。
翔平に彼氏ができたとメールで聞いた。
よかったじゃん、と返信したのは甚一の本心だ。
セックスを覚えた後、それ以上を欲しがるのは何もおかしい事じゃないと思えた。
数年ぶりに会った翔平が、彼氏がいるのにも関わらずベッドへと誘ったのには、当時はどういう意味があったのかはわからないが、今ならなんとなくわかる気がする。
向かい合い改まって話をするなんて柄じゃない。
調子はどうだ、と聞く代わりに素肌に触れて、口をつけるのだ。
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