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嘘、それだけ 6

他人と暮らすなんて考えたこともなかった。 祖父が倒れてから何気なく二本柳に告げた自宅を下宿にしたいという話は、すぐにどうこうというわけでもなかったし、もし本当に実現するなら、あちこち手を入れる必要があるだろうと思っていたのだ。 震災の被害を免れた地域にあるとはいえ、自宅は倒壊こそしなかったものの、地震の影響で外壁にはヒビが残っている。年季の入った畳も替えなければ、と頭の中で考えていたのは、あくまで漠然とした妄想に過ぎなかった。 陽太は、そんな古い壁も、使い込まれた畳も、ただ大きいだけの仏壇にも、すっと馴染んだ。 それが彼の性分なのかはわからない。 ただ、いつの間にか甚一の生活の隙間に、空気のようにするりと入り込んでいた。 気付けば、仏壇の花はいつも新しいものに替わっている。線香は買い足されている。洗濯物は、きちんと畳まれていた。米は、一日三合炊くようになった。 そういえば、いつから「甚ちゃん」と呼ばれるようになったのだろう。 もう、ずっとそうやって暮らしていたかのような気さえしている。 一年が経てば、陽太は島を出て元の生活に戻る。それは、自分も同じことだ。 「じゃあ、函館で会社経営してるとか?」 「だったら函館に住むって」 「従業員に任せてるとかよく聞くじゃん」 「具体的すぎる」 「じゃなかったらおかしいもん。二万で助かるなんて言う奴は人の借金払うなんて普通言わない」 「それは今関係ない。友達と会ってたんだって。さっき言っただろ」 「それ本当に友達?」 「は?どういう意味?」 陽太はずっとこの調子だ。 さすがの甚一もため息が出る。 「だって…」 「うるさい。降ろすぞ」 「降りないし。あ、あれ何?」 「ああ、なんか、あれ。なんだっけ。モニュメント?よく知らないけど」 「知らないのかよ」 「用事ないだろ。モニュメント」 陽太は、そりゃそうかも知んないけど…、と下唇を突き出し不満いっぱいの顔で顔を顰めた。 江差町からの正午発のフェリーは定刻通り出港して、自宅に着いたのは午後の三時前。 だらしなくソファに横になり、ベリーショートになった髪と寝起きの顔をクッションで隠した陽太は「夕べ全然眠れなくて…さっき寝て…だから…」と言い訳のような事をごにょごにょと呟いた。 「別に休みなんだからいいだろ」と言って「これお土産」と目の前に置いた紙袋の中身を見た陽太は物言いた気に眉を寄せた。中身は翔平から貰ったシャンプーのセットだ。 髪切っちゃった、と呟く陽太に、友達が合わなくなったから消費しろって、と付け加えたが事実なのだから仕方ない。 それよりも甚一は、翔平の事をなんの躊躇いもなく友達と言えた自分に驚く。 計画通りにハンバーガーを買って、セブンイレブンに寄り飲み物を買った。そのついでに限定のカップ麺を数個買い溜めをした。 台所に積んだカップ麺を見た陽太が、俺これめっちゃ好き、と言って目を輝かせた。 こんなもので喜ぶなよと呆れたが、すぐ買えないもん、と口を尖らせた陽太を見ると、一晩陽太を置いていったという気持ちにどうしてもなる。 ハンバーガーを勿体無くて食べれない、と言いながらムシャムシャ食べる様子はこれ以上なく可笑しくもあったが、陽太がはしゃげばはしゃぐほど、必要のない罪悪感にかられた。 外へ連れ出したのは罪滅ぼしだったかもしれない。 スーパー行くけど、と言い訳をした。 函館で買わなかったの、と聞かれて、忘れてた、と答えた。 何買うの、と聞かれて数秒考えて、靴下?とか?と苦し紛れの返事をした。 陽太の質問に他意はない事は充分わかっていたのだが。 車は風を受け、海道を走る。 陽太がまだ島全体一周した事がないと聞き、北側のスーパー『ニコッタ』へ向かうところハンドルを切って南側に走った。 甚一に言わせれば他所の人間に自慢できるところなどない生まれ故郷だ。 けれど陽太は道の途中で見る景色の中に、いちいち目ざとくあれこれ見つけ、窓から顔を出して喜んだのだ。 以前通った道ではあったが、あの時は少し状況が特殊だったと思い出す。 陽太が家に来て一カ月ほど経った。 二人の休みが重なるのは今日が初めてだと甚一はさっきようやく気が付いた。 もっとも甚一は、自分で休みの日を決める事ができるし、この度の休みも翔平と会う為に決めたもので、明日はもしも向こうからのフェリーが出なかった時の為の予備日のつもりだった。 充分に天気予報を睨んで決めた日取りだが、風と波は予報だけではどうにも読めないものなのだ。 助手席の陽太に、顔を出すな、と怒ると、風が気持ち良い、と目を細めていたのに、何がきっかけで始まった応酬だったか、既に論点はずれまくっていた。 函館に用事あったの?と聞かれ、友達と温泉に行ったという返事には少しも嘘は混ざっていない。けれど隠したい気持ちになるのは仕方ない。 日帰りで24時間も滞在しないのだし、手ぶらで行ったようなものだ。 何より昨日家を出た時は、翔平の部屋に行くつもりでいた。勿論翔平だってそういうつもりで会う約束をしたはずだった。 港へ向かう途中偶然とはいえ陽太の顔を見なければ、きっと今まで通りの他には言いづらい関係のままだったと甚一は思うのだ。 「あ、何あれ。鳥居?」 陽太の声が車内に静かに流れる音楽に混じった。 「神社。よく見えるな」 甚一は運転席から視線だけを向け、簡潔に答えた。 フロントガラスから見える風景の遥か前方に微かに見える朱色。 「へえ」 「行くか?」 「降りても良い?つか、あそこまで行けんの?」 「階段ある」 「え、行く」 「え?登るの?」 「え?下りるんじゃない?」 「いや、登りがメインだろ」 「や、先に下りるじゃん。あれ、なに。アイス屋さん?ほら、なんかトラック停まってる」 陽太が指差す方向を、甚一は眼鏡の奥の目を凝らして探るが、トラックの姿は捉えられない。 「お前マジで視力なんぼ?」 陽太はすでにスマホで神社の情報を調べ始め、甚一は改めて目的地を観察した。 弁天神社は、島から細く長い階段で繋がった小さな岩礁の上にある。 そこら辺にアイス屋があるという情報は、甚一の日常には存在しないものだ。 そういえば最近、キッチンカーが島に出入りしていると漁協で聞いたのを思い出した。 港の前や役場の前で、デコレーションされたワゴン車に家族連れが並んでいるのを確かに見たことがある。 アイスだのクレープだのと、子供がいる家では喜ばれるだろうが、甚一は特に興味もなく通り過ぎていた。 「ほら、今アイス屋さん来てるって。へえ、神社、大漁の神様なんだ」 陽太は、「ほら」と言ってインスタの画面を甚一に向けた。ちらりと見た画面で自分の住む島のアカウントが存在することさえ、甚一は今初めて知った。 甚一は、はあ、と大きくため息をついた。 こんな島の何を発信するんだという呆れと陽太の懲りないSNSへの接触にだ。 「お前インスタとかやめろって。また余計なもん見つけるぞ」 「今ここのこと見てるだけだし」 ああ言えばこう言うとは陽太のような事を言うのだろう。 けれど、陽太のささやかな要望を叶えることで、自分の中の後ろめたさを少しでも軽くしたいという気持ちが、甚一の追及を鈍らせていた。 神社へ上るのは大体は観光客だ。 細く長い石段が、緑の岩肌を垂直に切り裂くように上へと延び、そのてっぺんにある朱の鳥居とお堂が、空の青さに鮮やかなコントラストを描いていた。 オフシーズンではやはり人の気配は少ない。 神社へ向かうための階段がある広場には確かに一台のキッチンカーが停まっていた。風でたなびく幟には、丸く大きなソフトクリームの絵。 陽太がアイス屋だと断言した理由が分かった。 「食べよ」 「寒くない?」 「寒いけど食べる」 子供のような強情な言い方に、甚一は口元を拳で隠して少し笑う。 五月晴れで天気は良いが、まだ外でアイスを食べるには肌寒い季節だ。 バニラを二つ頼んで、陽太が小銭を払う。 店員に、寒いから車で食べな、と言われてしまいつい笑ってしまった。 けれど陽太はソフトクリームを片手に、お堂へ続く階段を降り始めた。 大人が一人通れるくらいの、細く長い急な下りの階段が終わると、登りの階段へ続く手前に海岸へ出る石段がある。 陽太はそちらへ方向を変えて足を踏み出した。 石段から続くのは、海に向かってゆるやかな坂になったコンクリートの斜面で、優しい波が白く泡立って寄せては返す。 かつては何隻もの船が並んだ漁港だ。 震災の後新しく立派な漁港が作られてここは使われなくなったと祖父から聞いたことがある。 「昔の漁港。今は使ってない」 「どうして?」 「新しいとこあるから」 波打ち際ギリギリに立つ陽太のスニーカーの底を、冷たい海水が濡らしていた。 陽太は屈んで膝を抱きながらアイスを舐める。 地平線を見つめているようにも、寒さを誤魔化しているようにも見える。 甚一は、目線を合わせるように陽太の隣で膝を折った。足元にあった小さな小石を摘んで、そっと海に投げる。欠片は、波に飲まれて波紋すら残さなかった。 「関係あるかはわかんないけど震災から水域がちょっとずつ上がってるらしいよ。満潮になればここも浸る」 「…島、沈む?」 不安気にぽつりと呟いた陽太に、甚一は、ハハハ、と笑って「五百年後とか?」と揶揄いまじりの返事をした。 「じゃあ俺たちが死んだ後、無くなるかもしれないんだ」 潮騒に混じる陽太の声を聞きながらアイスクリームを口に含むが、やはり時期にはまだ早いようだ。 ソフトクリームのコーンの最後を食べ終え、ゴミをポケットに詰めると、陽太は手を払った。「十年ぶりくらいに食べた。美味いけどちょっと寒いね」と、赤くなってしまった鼻をこすりながら笑った。 陽太に合わせるように急いで食べ終え、同じようにゴミをポケットに突っ込む。 「寒い」と文句を陽太に投げるがイヒヒとイタズラをした子供のように笑われただけだった。 波打ち際を歩きながら「冷凍庫にひじきあったから鶏肉入れて炊き込みご飯作った。クックパッドで作り方見つけて」と陽太は話し出す。 甚一は、少し遅れてその後ろを着いて歩いた。 のんびりと、景色の一つ一つ、足取りを一歩一歩確認するように。 「あと鮭焼こうかなって。冷凍庫の奥に眠ってました」 くるりと振り返り、少し怒ったふりをした陽太に「すんません」と頭を下げる。 去年の秋の、甚八が倒れたあたりのものかもしれない。 陽太はまた背中を見せ、今度こそお堂に向かう階段を登り始めた。 「あのさ、あんまり気ぃ使わなくていい。いいよ、テキトーで。別に飯の用意だってしなくていい」 「自称ハウスキーパーだから」 「その割に二階散らかってるっぽいけど」 洗濯物を干すために二階へ上がった時に目に入ったのだ。 勿論部屋の中には入っていないが。 少し息を切らしながら話し続ける。 「そこはほら、アレでしょ?」といたずらに陽太は言って「どれだよ」と言う返事に、ふふふ、と二人の笑いが重なる。 「ねえ甚ちゃん」 と、優しく呼ばれる。 「何」 数秒の沈黙に、甚一は数段先の陽太の背中を見上げた。 「甚ちゃん、女の子と会ってたの?」 背中を向けたまま足を緩めず先を行く陽太がどんな顔をしているのか、甚一にはわからない。 小さく聞かれた質問に「男だよ。友達」と、今日何度となく言った言葉を繰り返す。 数秒黙って陽太は、なーんだ。とやっと振り向く。借金返したら俺も行こー、と、無邪気に言うと残る数段を走って行った。

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