21 / 26
嘘、それだけ 8
漁が解禁になるまでは、朝の六時頃には家を出て漁協倉庫に寄り誰かがいれば何かないかと声をかける。
何もなければ水揚げを手伝う。
春先はカレイ、ヒラメ漁が盛んだ。
仕分け作業に加わり、なんだかんだと出てくる世間話や噂話を頷いて聞き流す。おめえ聞いてねえべと言われるのがお約束だ。
午後からは一昨年から始まったトラウトサーモンの養殖場へ顔を出すこともある。
上手くいけばこちらも秋に水揚げになる。
大学で経済流通を学んで、卒業後は食品会社の企画マーケティング部にいた甚一は、度々相談を受け足を運んでいた。
行く行くは島の新しい特産品にしたいらしい。
勿論これも仕事だ。漁協からわずかながらバイト代が出ている。
特に急ぎの用事がなければ、他の船の作業を手伝ったり、自分の船の点検に勤しむ。
午後五時頃には家に帰る。
島に戻って来て5年。中学に上がる頃には夏休みになると既に大人に混じって祖父の船を手伝っていた。ズブの素人というわけではないが、まだまだ下っぱという気持ちがある。
そりゃあそうだ。昔一緒に船に乗った大人達数名は、もう高齢者と呼ばれる年になっているのにも関わらず、未だに現役の中に混ざっているのだ。
もっとも、昔のように怒鳴り散らすような事はなくなったように思うが。
案外、島の外から来た若い世代も多い。
けれど、結構な薄給に十人来たら三人残れば良い方だ。
思った以上に辛いうえ、思った以上に稼げないのだ。漁師というものは。
一年を通して何かしら採れる島ではあるが、数年前島に帰って来た時には既に祖父は、烏賊釣りが盛んな夏の時期だけ漁に出て船を動かし、冬は役場で雪かきのバイトをしていた。
それを甚一がそのまま引き継いだ訳だ。
甚一が出戻ってから一年は一緒に船に乗ったが、その後の隠居生活の合間にも市場や加工場に顔を出して小遣いを稼ぐ生活をしていた。
甚一は船舶や大型車両の免許を取りつつ過ごした数年間で、やっと地盤が固まってきたというところだった。
陽太は、漁師というのは船に乗って魚を獲り網を上げるのが仕事だと思っているようだ。
大漁だった?と聞かれると、ぼちぼち、と答えるのが常だ。
甚一も、陽太の仕事の内容などざっくりとし知らない。
とにかく隙間なく働ければ、甚一はそれで良い。
そのおかげで、贅沢をしなければ生活には困らない。
それが割に合うかどうかは、考えたことがない。
先日翔平に言った事は事実だ。
二交代制の陽太が日勤の日は気にならないが、夜勤が続くと途端に生活リズムが変わる。
朝早く家を出る甚一を、陽太は律儀にいつも見送った。
甚一が帰る時には既に陽太は出勤している。
一晩勤務の陽太が帰ってくる頃には甚一は仕事に出ている。
夜にやっと顔を合わせるが、微妙な時間に寝落ちてしまい、甚一が布団に入る頃二階から降りてきたりする。
そんな折、陽太は甚一のベッドで眠るようになった。
そっちで寝る、と言われると、迷いもあるが布団独り占めしないならと言って甚一は結局招き入れてしまう。
陽太が住み始めた当初、おそらく気を使っていた陽太が、朝早く家を出る自分に合わせ朝五時に起きあれこれと家の事を買って出たが、それはやめて欲しいと伝えた。
にも関わらず、弁当作りは今でも続いている。
タッパに冷凍されているおかずを詰めただけの弁当ではあったが、空いた時間に一人車で食べていると、こちらが手助けをされている気持ちになった。
夜勤で陽太が不在の家に帰る。
洗濯物が畳んでベッドの隅に置いてある。
飲みっぱなしのペットボトルのお茶が冷蔵庫に仕舞われている。
ぎゅうぎゅう詰めだった冷蔵庫に、二人が飲む為の缶酎ハイや缶ビールが数本入るようになった。
夕食が用意してある。
書き置きのメモは、妙に記録的だ。
メモ紙を手に取って眺める。
字が綺麗で初めは驚いた。
『コーヒー豆不足。要確認。
※太田様からお供物を頂きました。連絡よろしくお願いします』
職場での陽太を想像する。
おそらく至って真面目な男なのだろう、と目尻が下がる。
いつのまにか生活の中に陽太の手跡が点々と残るようになった。
何故そんな男が四百万の借金を作ってしまうほど実態のない賭け事なんかにハマってしまったのだろうという疑問は、それほどまでに陽太を捨てた男が好きだったのだろうというところに着地する。
女とも付き合っていたという話には多少の驚きはあったのだが。
陽太は、卑下するように自分を馬鹿だと言ったりちゃらんぽらんだとよく言うが、甚一は果たしてそうだろうかと思う。
陽太はおそらく良い意味でも悪い意味でも裏表がないのだ。
バカなギャンブルは本当にもうやっていないようだ。
必要以上の開示には反応に困ることも多々あるが、それも陽太の自分なりのケジメなのかもしれないと思うようになった。
陽太がいない家の中は静かだが物足りなくもある。
四十九日も過ぎて落ち着き、差し入れも度を越さなくなってきたように思って安堵している。
仏壇の花が変えられ、焼き菓子が一箱添えられていた。
太田の家は同じ集落で何かと気にかけてくれる昔馴染みの家だ。もっとも付き合いがあったのは祖父の代で、甚一自身の付き合いがある訳ではない。
明日にでも礼に行こうと考える。
甚一は、仏壇の前に座り蝋燭に火を灯す。
祖父の骨箱は相変わらず仏壇の前に置いてある。
陽太がたまに声をかけているのを、なんとも言えない気持ちで見る。そこにはもう聞こえないのにという呆れも少なからず混じる。
線香を立て、深い呼吸を二、三回繰り返し並ぶ写真を眺めた。
細く長い煙が天井に吸い込まれ、白檀の香りが家中に充満していく。
今年もまた夏が来る。
人の出入りで島は活気付いて、海に漁火が連なる。まるで、波に揺れる灯籠のように。
「あれ?甚ちゃん仕事は?」
玄関の引き戸が空いた音で夜勤明けの陽太の帰りを知った。
甚一は、まだ起きたままの格好でソファへ沈み朝から配信映画を眺めていた。
「今日夜出るから」
と言う甚一に「そうなんだ」と返事をして、ボディバッグも肩に下げたままへろへろとソファの隙間に倒れ込む陽太に「おつかれ」と声をかけた。
むずがる子供のようにクッションに顔を突っ込んで額を擦り付ける。
「忙しかった?」
「朝方瀬戸のばあちゃんがすってんころりんでさぁ。まぁ何もなかったから良かったけど」
「瀬戸の婆さんまだ元気なんだ」
甚一が病院に出入りし始めた時には既に入院していた高齢の患者だ。
こちらは深刻な話をしているのにもかかわらず、病棟のスタッフとの頓珍漢な会話が聞こえてきて、失礼だとわかりつつも内心笑ってしまった事が何度かあった。
「元気元気。参った参った」
ソファでころりと身体の向きを変え甚一を見上げた陽太は眉を寄せたが、本気でそう思っているというよりも憎らしくも可愛いという表情で、仕事中の陽太を想像させた。
「家すぐそこだよ。今誰もいないけど」
「ええ⁉︎そうなの⁉︎甚ちゃん知ってる人⁉︎」
「まぁ知ってるっちゃ知ってる。集落一緒の人は大体。付き合いない人もいるけど」
「俺びっくりしちゃったもん。家鍵かけないし、なんか皆玄関普通に開けるし。裸だったら通報されちゃうじゃん、俺」
「なんで裸なんだよ」
「いや。風呂上がりとかさ」
「裸で歩くなよ。つか、ヤナギのおじさんとか婦長さんは勝手に入ってくるし。最近忙しくて来ないけど菊池さんとか」
「婦長さんてうちの師長?もしかして遠い親戚的な?」
「違うけど。まぁ、でもそんなもん」
「菊池さんて誰?」
「爺さんの時から漁手伝ってくれてる人。家にお前いるけど気にしないでって言ってる。空港の近くでペンションやってて。逆にこっちがバイトみたいな感じ。なんか飯美味いって結構人気らしいよ」
「え、行ってみたい」
「今度な」
「ん」
陽太はさらに身体の向きを変えてテレビを眺め始めた。
この俳優さんちょっと甚ちゃんに似てない?と言われ、似てないだろ、と笑う。
人心地ついたようにゆっくりと深呼吸をした陽太に「寝たら?」と声をかける。
「…甚ちゃんとこで寝る」
テレビ画面を眺めたまま小さく囁かれた返事に「シャワー入ってからにして。飯は?」となんでもないように言った。
「いらない」
自分の体に擦り寄ってきそうなほど近くにある頭を撫でそうになって、すんでのところで手を止めた。
「なんか作るからシャワー入って来い」
誤魔化したように陽太の頭を軽く叩くと「はあい」と間延びした返事が返ってくる。
陽太は仏壇に帰宅の挨拶をして台所を通り過ぎ風呂場へと入って行った。
脱いだものを洗濯機に放って回す。
面倒くさくて昨夜から乾燥機に入れっぱなしにしていた陽太の寝巻きを脱衣所に置いておいた。
簡単に食事を済ませて歯磨きをした陽太が、おやすみ、と言ってようやく寝室に入る。
洗濯が終わったアラームが鳴って、そのまま乾燥機に入れ替える。
できるだけ音を立てないように台所を片付けた。
遮光カーテンと襖を閉めると、寝室は夜の帳と変わらない。
自分のベッドで眠る陽太が深い呼吸になった事を確認して、端に腰掛けた。
いけない事だと思いつつ甚一は、その髪に指先だけで優しく触れた。
ともだちにシェアしよう!

