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嘘、それだけ2 - 1

嗅ぎ慣れない匂いが鼻をくすぐって陽太は目を開けた。 夢の続きかと思ったが、どうやら現実らしい。 手元のスマホを確認すると、寝室に入ってからまだ二時間ほどしか経っていない。 にもかかわらず、妙にすっきりと目が覚めてしまった。 甚一のベッドは広い。 二階にある陽太が使わせてもらっているベッドも大きいが、甚一のベッドは男の自分が大の字に寝ても充分にあり余るほどだ。 甚一の、寝床は広い方が良い、というまるで子供のような持論には、なるほどと頷かざるを得ない。 それから、甚一の部屋の匂いも安眠を誘う。 線香の白檀の香りが微かに染み込むその空気が深い眠りに導いているのだと思う。 そんな中に差し込んできたバジルの鮮烈な香りは、寝起きの内臓までをもはっきりと覚醒させた。 くぅと腹の虫が鳴き、陽太はもぞもぞと上半身を起こす。 じんちゃん、と甚一を呼ぶように呟いて襖を開けリビングへ移動すると、台所には甚一と見慣れない男の姿があった。 寝起きの陽太に気づいた甚一は「あ、起きた」と言って陽太を見た。その目は細められ、どこか楽しげだ。 台所に立つ四十代後半、もしかしたら五十代に入ったかもしれない中肉中背の男が、くるりと陽太に振り返った。 渋い色が重なるチェック柄のネルシャツにデニム、少し強面のその男は、陽太を見るや目尻をこれ以上なく下げて「君が斎藤くん?」と笑った。 男はエプロンで手を拭きながら「はじめまして、菊池です」と右手を差し出した。 状況がまだ掴めない陽太を見た菊池は「先に連絡した方がよかったね」と気まずそうに甚一と陽太を交互に見て、短く揃えられた頭を掻く。 「あ、いや、ぼ、僕がこんな時間に寝てて…、あ、僕二階にいるんで、」 初対面の客人を前にだらしなく伸びた家着のTシャツと今にも擦り切れそうなスウェット姿を晒した恥ずかしさに、陽太は逃げるように階段へ向かおうとするが、菊池は構わず続けた。 「看護師さんなんだもんね。夜勤明けだったんでしょ?大変だよね。こちらこそ急にごめんね。これ、奥さんから。あとで甚くんと食べてください」 そう言って、菊池はマイペースに、おそらく自分のデイパックから包みを取り出し陽太に手渡す。 「あ、ありがとうございます……」 先程から二人の様子を眺めつつフライパンを振る甚一が、「そういうのいいっつってんのに」と横槍を入れた。 「あ、甚くんそれくらいで良いよ。オリーブオイルかけて」 すん、と鼻を鳴らしフライパンを覗いた菊池がそう言うと「っす」と短い返事をした甚一が言われた通りにオイルを回しかける。 「うわあ、良い匂いしてる!」楽しそうな菊池は「斎藤くんもどう?甚くんと共同開発のイカスミのジェノベーゼ」と陽太に振り返った。 「ええっ、何それ、めっちゃ美味しそう!」 店に行かなければ食べる事ができないような料理名に、陽太は目を輝かせる。 台所には食欲を刺激するスパイスとオリーブオイルの香りが充満していた。 鳴いた胃袋が、まだかまだかと待ち侘びているようだ。 「まだ試作品。毒味」 無愛想なままそっけなく言った甚一に「美味しくない事はないと思うんだけどね」と菊池が助け舟を出した。 甚一がガスコンロの火を止めると、菊池は今し方フライパンの中でソースと絡まったパスタを一本箸でつまみ、手のひらに乗せてそのままつるると啜った。あんまりわかんないや、と甚一を見て笑う。 「甚くんに聞いてた?うちのペンションのランチ出したいんだけどなかなか上手くいかないんだこれが。あ、パンもあるし、ワイン…はやめといた方がいいかな」 菊池が夜勤明けで寝起きの陽太の様子を伺うように目配せしたが「え、飲みたいです!全然大丈夫だし!」と陽太は思わず声を張り上げた。 「あ、斎藤くん結構好きな感じだ?」 菊池が眉を上げ破顔する。 甚一は「わかったからまず着替えて来いって」と呆れたように失笑するのだった。 陽太は、自分に充てがわれている二階右手の部屋に入った。 ファイルに入って放置されている書類や甚一の寝室から借りた漫画の本が床に積み重なって、物が無い分散らかっているとまではいかないが、整理されていないのは一目瞭然だ。 一昨日あたりから、起きたその時のままになっているセミダブルのベッドに家着を放り投げ、甚八が着ていたという衣類が詰まった衣装ケースの中身を引っ張り出した。 セーターもポロシャツもトレーナーも、流行り廃りがないものが多く、チノパンもデニムも若干サイズは大きめだが、普段着としては何の問題もない。 全て金に替え、着古したスウェットしか持っていなかった陽太からすれば充分過ぎるほどだった。 陽太は、以前から目をつけていたシャツを目の前に広げると、やっと着れる、とひとり小さく微笑んだ。 身なりを整えて二階から降りてきた陽太を見た二人が「あ」と言って目を丸くしたのは、懐かしさからかもしれない。 どうだと言わんばかりに陽太が腰に手を添えて胸を張ると、途端に菊池は口を大きく開けて笑い出した。 「ははは!斎藤くん、それ甚八さんのアロハシャツじゃない!最高!」 「甚ちゃんが捨てるっていうから」 菊池は感慨深そうに、陽太が袖を通したシャツの裾を優しく引っ張る。 「うわぁ。いいなぁ。若者が着るとまた違うねえ。甚八さんも似合ってたけど、斎藤くんも似合ってる。すっごく」 そう言った菊池は甚一に振り返り「なんだか嬉しいよ」と言ってから一度鼻を啜って咳払いをすると、場面を変えるように大きく手を鳴らした。 「さ、食べよう。甚くん盛り付け頼むよ」 甚一は陽太に、皿運んでと頼み、陽太が甚一に目を合わせると、甚一は困り笑いのように何度か頷いた。 陽太が台所と居間を往復してい途中で「レコードかけて良い?」と菊池が甚一の寝室にあるレコードの棚を眺め始めた。 棚を指先で軽く叩き、お目当てのものを見つけたのか、下がった目尻を更に下げる。 満足気に、機嫌の良さをありありと示す笑みだった。 居間のテーブルには、湯気をわずかに上げるイカスミのジェノベーゼのパスタ、バターが香るガーリックトースト、色鮮やかなサーモンのカルパッチョが並んだ。 ワイングラスはないので、透明な冷酒用のグラスを並べる。 甚一が手慣れた動作でコルクを開けた。パン、と乾いた音が室内に響く。 セッティングを甚一に任せた菊池は、勝手知ったるというようにレコードの棚を物色していた。 その姿はまるで自分の家のようだ。 気にしていたつもりはないが、無意識に目で追っていたのか「あの人はまぁ、あんま気にしないで良いから」と甚一に視線を合わせずに言われ、「…そ、うなんだ」と曖昧に瞬きをしながら答える。 「甚くん、前から言ってるけどこれ、レコード、リビングに移してよ。流石に僕も人の寝室に入るのは遠慮するって。今は斎藤くんいるんだしさ」 寝室から放られた少しばかり拗ねたような抗議に、陽太の背筋が無意識に伸びた。 甚一の寝室から出てきたところを見られているのだ。大の男が同じベッドで寝るなんて不自然だろう。 菊池にどう弁解すればいいのか、瞬時に頭を巡らせる。 「あ、あの、俺、二階行くのめんどくて、俺がわがまま言って寝てるだけっていうか…」 自分はどう言われても構わないが、甚一が気まずい思いをするのではと思えば、やはり良い気持ちはしない。 慌てて意味のわからない言い訳を並べた陽太に、菊池はレコードのジャケットから目を離さず、「そりゃこんな寝心地よさそうなベッドあったら誰でも寝たくなるって。僕だって寝てみたいよ」とあっけらかんとそう言って再び熱心にレコードを眺め始めた。 「一回してみたいんだよね。ダイブ」 「ほんとやめて?迷惑だって」 「レコードの棚作る?DIYってやつ?」 「あ、それ良い。でも買った方が絶対安い」 「確かに」 寝室の話題などさらりと流しとんとん進む二人の軽口になんとなく蚊帳の外にいる気分で、テーブルに向かい正座をする。 菊池がレコードの針を落とすと、ヂ…、という小さな音と共に、ゆっくりと音楽が流れ出し、心地よい低音が居間を満たし始めた。 聞き覚えのあるメロディに「あ、聞いたことある」と陽太が無意識に反応する。 「何年か前に紅茶かなんかのCMで流れたよね?」 「いやわかんない」 目の前の二人の会話が親子のようにも兄弟のようにも友達のようにも見えて、陽太はクスクスと笑ってしまった。 「いいねえ、ばっちりだね」 手をさすって菊池は甚一の隣に腰を下ろしあぐらをかく。 甚一が盛り付けたパスタのプレートは、普段は絶対にしないような洒落たものだ。 まるでグルメ雑誌に出てくるようなメニューと見栄えに、陽太はテーブルを見つめ口を尖らせた。 渋い家具がそろう部屋の雰囲気と相まって、まるで古民家で営むカフェのようなのだ。 「こういうの出てきた事ない…」 「毎日毎日こんな事してられないって」 甚一は少し不機嫌そうに、パスタを指差す。 「うちもテキトーだよ?カミさんと食べる時なんて。タッパどーん、大皿どーん、洗い物出すなーって言われておかずとかご飯に乗っけて食べる」 菊池が面白おかしそうに肩を震わせながら言い、陽太と甚一の冷酒グラスにワインを注いでいく。 自分にはノンアルコールのスパークリングの白ワイン。 「菊池さん呑まないんですか?」 「これから運転しないとだし」 「痛風で禁酒してる」 横から揶揄う甚一が、ククク、と笑った。 「そこまでじゃないから」 と言い訳をする菊池は仕切り直しというように「斎藤くんとの出会いに乾杯だね」と言ってグラスを差し出した。 「何それ」と甚一は下らなそうに鼻で笑い、陽太は反射的にグラスを手に持ち遠慮がちに小さくぶつけると、菊池はふふふと含み笑いをして「じゃ、いただこうか」と二人を交互に見た。 いただきます、と甚一が一口パスタを口に運ぶ。 続いて菊池も同じようにフォークにパスタをからめていく。 口に含んで、飲み込んで、二人揃ってかすかに顔を歪ませる。 「ちょっと生臭い?やっぱ磯臭いな…」 「全然おいひい」陽太はフォークを止めることなく、夢中で頬張る。 「お前は何食っても美味しいしか言わないだろ」 「ああ、その節はなんかありそう」菊池は楽しそうに、陽太の反応を窺う。 「だってこの世のもの全部美味しいし」 「斎藤くんどこでも生きてけるタイプだ」 急に甚一が、イ、と歯を見せるものだから、菊池が吹き出して笑う。 普段見せない無邪気な甚一に、陽太もつい、前のめりになって笑ってしまった。 「若い子は食べないかもね」 甚一の黒くなった口周りに、咳き込んで言った菊池に「見た目ね。女の人なら気にするかもしんない」と、甚一までもが自分に笑いイカ墨で色のついた口の中を流すように、グラスに注がれていたワインを一口で呑み干してしまった。 「ビールじゃないんだから」と嗜めると「ワインマジでわからん」と甚一は再び首を傾げた。 甚一のセリフに陽太は内心頷いて、グルメであろう菊池の手前、一口だけ口に含む。渋みが舌を覆った。 甚一は陽太を見て「酎ハイの方が美味いって顔に書いてる」と楽しそうに揶揄う。 「書いてない。とても美味しいワインです」 「そう?これセコマの500円のやつだよ」 フォークを握る右手で口元を隠してワインのボトルを見せながらクツクツと笑う菊池は、やはり同じようにスパークリングワインを一口だけ口に含み喉へ流すと「いいの、食事はね、良い悪いじゃなくてどんな気持ちで食べるかだからね。めんどくさい時も勿論あるしさ」そう言って、また一口パスタを頬張った。何が足りないのか、何が必要なのか確認するように眉を寄せながら。 恥ずかしさでほんの少しだけ顔を赤くした陽太が甚一に黒く染まってしまった舌を出す。 陽太に向かって「口の周り拭けよ」と笑いながら、手元のティシュの箱をテーブルの下でスライドさせた甚一は「文さんは?」と菊池へ話題を振った。 「今日は近所のママさん達と夜の準備だって。去年の残りでイカ飯作ってるよ。もう、朝から皆集まってピーチクパーチク。いやもう、本当にやかましくて逃げてきた」 菊池こそ自分の口の端を親指でサッと拭いながらそう言うと、陽太に目線を向ける。 「斎藤くんは今夜のお祭り行くんでしょ?」 「え?お祭り?」 そんな話は聞いていなかった、とばかりに目を見開いた陽太を無視するように「菊池さん!」と甚一は苛立ちを隠さず声を荒げた。 「今日お祭りなんですか?そうなの?」 何で言ってくれないんだよと目で訴える陽太に 「夜勤明けなんだから黙って寝てろ」と甚一は言い捨てる。 強い口調の素っ気ない態度の甚一を見た菊池は眉を寄せるだけの抗議をして「どうしてそう言う事いうかなぁ。せっかくの機会なのに。少しだけでも顔出したらどう?カッコいいよ。漁師さん達皆羽織もの羽織ってね、島中の烏賊釣り漁船が集まって漁火を灯すんだよ」と陽太に向かい笑顔を見せた。 「あ、あのすっごい明るいやつ?」 「そうそう」 「菊池さん余計なこと言わなくていいって」 「え、行くし。行く行く。あ、そういえば甚八さんの衣装ケースに浴衣あった!」と陽太は同意を求めるように菊池を伺う。 「浴衣はまだ寒いって。さすがに」 菊池に嗜められた陽太は「えーっ」と不満げにのけぞって、口を尖らせながら手元に置いたスマホを操作する。 陽太が開いたインスタグラムには、島の公式アカウントから、今夜の祭りの準備風景の動画がアップされたばかりだった。 「来なくていいって。つうかまたインスタ」 「出店やるじゃん!たこ焼きたべたい!」 「冷凍のたこ焼きしょっちゅう食ってるだろ。たいして美味くない。屋台のたこ焼きなんて」 「それはそれ。これはこれ。ていうか甚ちゃん達は手伝いに行かなくて良いの?」 「もう船は移動してるし、今年は甚くんは手伝わなくて良い人なの」 菊池がそう言って意味あり気に甚一を見るが、甚一は怒ったような顔をしているだけだった。 「なに?どういうこと?」 「うるさいうるさい。聞くな来るなインスタ見るな」 「二人とも子供じゃないんだから」 菊池は、二人の反応を面白がるように、しかし優しく微笑んだのだった。

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