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嘘、それだけ2 - 3

少し酔った、と言って酒の続きを断り、喧騒から逃れるように漁港の端へ歩いた。 スピーカーからは再び始まったカラオケの酔いが混じる歌声が聞こえている。 祭りの灯りの届かない場所を見つけ、海に足を下ろして座った。 埋め立てのコンクリートはひんやりと冷たい。 さらに奥では、中学生くらいの男女が並んで同じように足を垂らしていた。 その微笑ましさに自然と口の端が上がった。 「疲れたかい?」 声をかけられて振り向くと、ノンアルコールビールを片手にした菊池が立っていた。 彼は陽太の隣にしゃがみ込み、足を折って腰を落とす。 「ちょっと酔っちゃった」 舌を出すと、菊池は「いい、いい。適度適度」と笑い、はーあ、と背を伸ばして深呼吸をする。 「甚くん、かっこよかったねえ」 菊池のしみじみとした声に、陽太は頷く。 「なんか俺、感動しちゃって泣いちゃった」 「甚くん顔良いもんね。なんかずるいよね」 菊池が口を尖らせるので、陽太はつい吹き出してしまった。 「あ、斎藤くんもかっこいいよ」 「そんなとってつけたように言わなくてもいいです」 「いや、本当だって」 二人はクククと笑い、賑やかな音を背に静かな海を眺めた。ときおり波がコンクリートに触れ、チャポン、とやわらかい音を立てる。 「僕と奥さん、昔は東京のホテルで働いてたんだ。結構良いホテル。コロナの時に大量リストラのニュース見た時背筋凍ったけどね」 参ったという表情の菊池は、そのままゆっくりと話しはじめる。 「夢だったんだよね。小さい島とか、人里離れた山奥とか。自分たちの手の届く範囲でおもてなしをしたいねって。子どももできなかったしね。このままずっと東京にいるのかって話になって」 菊池はビールの缶を見つめながら、昔話をするように言葉をつないでいった。 「十五年くらい前かな。インターネットでここを見つけたんだ。何度か遊びに来るうちにこのお祭りを偶然見てさ。震災のことも、なんとなくは知ってたけど……」 今夜の波は酷く優しい。 かつて島と人を飲み込んだ迫る壁のような波を作ったとは、俄かには信じられないほどに。 「こっちに移住して次の年だったかなぁ。甚八さんの船に乗らないかって近所の人に言われて。初めはその年だけのつもりだったけどね。今は外から結構来てる人がいるだろ?でもその時は本当に人手不足でさ。家族全員でできればいいけど。ほら。甚くんもいなくて甚八さん一人だったから」 陽太は寄せては返していく波のような菊池の言葉を逃すまいと、頷きながら耳を傾ける。 「ちゃんとした水産会社じゃないと若い人も来ないのさ」 菊池は缶に口をつけ、思い切り空気を吸って鼻から息を吐き、唇を一瞬噛み締める。 「こんなに穏やかなのに」 どこか寂しげな菊池の眼差しは、変わらず水平線を見つめていたが、ふ、と笑みを作り視線を外した。 「うちのカミさん、初めて見た時泣いちゃってさ。斎藤くんと同じ。今でもこの日の為に一年頑張ってるよ」 菊池は缶を傾け、中身を喉に流し込むと、満たされたように空を仰ぎ「星、凄っ」と笑いを挟む。 「また一年つつがなくってね」 潮の音と匂い、初夏の風の温度、そして遠くで響く人々の賑やかな声を全身で噛み締めるように、菊池はそっと目を閉じ、大きく息を吐いた。 その静かな熱に当てられ、陽太は自分自身に対して少しばかりの恥ずかしさを感じていた。 陽太がこの島に来たのは自業自得の借金返済のため。そして、自分を蔑ろにした男への復讐の為だ。 もとより、本気で復讐など考えていた訳ではなかった。 一発お見舞いしてやりかった反面、現に会えないとわかって安心した気持ちもどこかにあるのだ。 いきおいとヤケクソな気持ちが入り混じっていた春のあの日に甚一に話した理由を、すっかり落ち着いて暮らしている今、この場で菊池に言うのはそぐわしくないと感じる。 陽太は、これが体裁というやつか、と思う。 脳裏に甚一の顔がチラつく。 「俺は。派遣の給料が良くて。だから、菊池さんみたいな、そんな凄い理由じゃなくて」 しどろもどろになる陽太に、菊池は「ま。理由なんて人それぞれだから」と慰めるように陽太の肩を軽く叩いた。 「それより夏はイベントがいっぱいだよ。六月には島一周のマラソンで選手が出入りするし、もっと大きなお祭りはあるし。あ、神輿が回るよ。斎藤くんも担ぐかい?」 にこやかに笑う菊池に、陽太は「夜勤じゃなかったら」と笑って応える。 「あ、そっか。いやぁ大変だよな。看護師さん」 「俺は全然。言われたことやってるだけ」 「そんな事ないでしょ」 菊池は陽太の返事に特に深く突っ込むことはなく、ふと懐かしむように遠い視線を海に向けた。 「甚八さんが生きてたらきっと喜んだよ。甚一の友達だかなんだか知らねえけどガキが増えて困ってるとか言いながら」 「それ甚八さんの真似?」 「そうそう」 「いいなぁ。甚八さんの事、皆知ってるんだなぁ。俺は、亡くなった時しか知らなくて」 陽太の言葉に、菊池は少しの間沈黙してから、静かに微笑んだ。 「じゃあ。こう考えたら?俺は甚八さんの事を知ってるけど、君は甚一くんのことを誰よりも知ってる」 「……俺、甚ちゃんの事知りません。全然」 「まぁ、色々話すタイプじゃないか」 「うん。嫌いな食べ物が人参ってことくらいしか知らない」 真面目に言ったつもりだったが、そのあまりに素朴な事実に菊池は堰を切ったように笑い出した。 一見怖そうな顔の菊池の目尻には優しさと温厚さが刻まれているようだ。 菊池は、腹を抱えて声をあげて笑ってから涙を拭って「それ初めて聞いた」と言った。 菊池に連れられ漁協事務所に入ると、やっと甚一に会えたのに、まだ用事があると言った。 甚一は照れくさそうに頭を掻いて、目を合わせようとはしなかった。 酒の入った大人達の祭りはまだまだ終わりそうもない。 ひとつ欠伸をこぼしてしまった陽太に菊池は家まで乗せるよと気を遣った。 送って貰って既に寝支度を終えていた陽太が、ソワソワしながら家の中を行きつ戻りつ甚一の帰りを待っていると、甚一の部屋の窓から車のライトが差し込む。 どうもどうも、おつかれさん、せば明日な。と聞こえたが声の主はわからない。 すんません、どうも。と普段聞かない甚一の大きな声が聞こえて玄関を振り返った。 カラカラと引き戸が開き、玄関先にドサリと荷物を置く音がする。 「おかえり。すっごい荷物」 陽太が玄関の電気を付けて出迎えると、両手いっぱいの荷物と一緒に座り込む甚一の姿があった。 「こんなにどうしたの?」 陽太は、行儀悪くもちらりと袋を覗き「あ、ビールもあるじゃん」と呟く。 「屋台で余ったやつ。若いんだからっていえば許されると思ってんだよ。芋こんなにどうすんだよ」 甚一はもう一袋分のじゃがいもを見て文句をつける。 「人参入ってるし」 陽太は先程菊池と交わした会話を思い出して、クスクスと笑った。 「好き嫌いしちゃダメでーす」 「人参以外なら全部食える」 甚一の人参嫌いはここで暮らすと決めた日に知った。 随分と子供じみた好き嫌いに笑ったのも、もうだいぶ前のようだ。 疲れた、と吐き捨てるように言った甚一はスニーカーを乱暴に脱ぎ捨てドスドスと歩き冷蔵庫を開け、冷えた缶酎ハイを一気に煽ると、盛大にゲップをする。 「最低」 と陽太が揶揄っても無視である。 普段よりも粗雑な振る舞いと少しだけ大きな声に、甚一が少し酔っている事を知る。 多分本当に疲れたのだと陽太は眉を下げた。 貰った野菜を貯めてある新聞紙に包み野菜室へ片付ける。 もう一つの保冷袋には使い切らなかった中華麺、中途半端に使われてジップロックされた豚肉。食べて大丈夫か、と思いながらも明日使いますと心の中で手を合わせる。 つまみがわりの袋菓子、どこかの家のお供えだったのではと思われる和菓子達。 「お前いるから二倍だよ」 心遣いという名の残飯処理か、と早くも一缶空にした甚一は困ったようにそう言うと「なんか捨てれねえだろ」とため息を吐いた。 換気扇の紐を引っ張り、甚一が珍しく電子タバコを咥えた。 陽太の前では滅多に吸わない。 喫煙者でない陽太に合わせているのだろう。 別に気にしなくて良いよ、と言うつもりで甚一の隣に並ぶ。 シンクに寄りかかり、貰ったお菓子を一つ口に放った。 「明日から甚ちゃんの船も海に出るの?」 「んだな」 酔っている証拠のような無意識の方言につい吹き出して、タバコを吸い終えた甚一をシャワーへと急かした。 お背中流しましょうか、と言うと、結構ですと断られてしまった。 「甚ちゃん、電気消すよ?」 髪を乾かすのもめんどくさいというように、ベッドに倒れ込んだ甚一に声をかけるが、待っても返事がない。 もう寝入ってしまったのかと思いリビングの電気を消すと、甚一がゆるりと身体を動かしベッドの端へ寄って右側にスペースを作ったのがわかった。 「もう寝ちゃったの?」 甚一の顔を覗き込もうと近づくと、ぼんやりと鈍く光る枕元のライトの中、半分だけ開いたその目と視線がぶつかる。 「起きてるじゃん」 思わず笑いが漏れたが、疲労のせいか最後に一気に煽った酎ハイのせいか、甚一の瞼はひどく重そうだった。 「おやすみ」 と、言った陽太に甚一は上目遣いというよりは、射抜くような視線を向ける。 もの言いたげな甚一に陽太は一瞬たじろぐ。 「二階で寝る、俺。なんか距離感バグってたけど。やっぱ変かなって思うし、思われる。多分…」 もごもごと口籠った陽太から甚一は頑として視線を外さない。 これは、ここで寝ろ、という無言の指示だろうと陽太は察する。 甚八が死んで初めて迎える漁の時期、賑やかだった祭りの後で、甚一だって思うところがあるだろう。 急に寂しさを感じてもおかしな事ではないが「ていうか」と言いかけた途端「なに?」と低い唸り声が返ってきた。 酔っている甚一を初めて見た陽太は、これは酔わせたら手に負えないタイプかと思い「だから甘やかしすぎって言われるの。俺に」と小さくつぶやき、ため息を一つついた。 そして観念したようにベッドへそっと滑り込んだ。 陽太がベッドへ入ってもスペースを開けてくれない甚一に「もーっ」と怒り、甚一の足元から空いている方へ移動したが、今度はこちらへ甚一は距離を詰めてきた。 なんだよ。近いよ。と言う文句は酔っ払いに聞き入れてもらえる訳もない。 いとも簡単に抱き枕にされてしまった陽太は、髪に埋められる額と鼻先がなんだか妙におかしく、明日どんな言葉で甚一を揶揄ってやろうかと、目を閉じる。 「甚ちゃん、かっこよかった」 囁きが、甚一に届いたのか陽太にはわからない。 もっと小さくしなやかで柔らかい身体があれば、甚一を癒せるのだろうか。 こんな硬い身体で申し訳ないと思いながら、それでも身体に回された腕の重さに、たまらない心地よさを感じた。 ※※※ 防災放送が朝を告げる。 ぼんやりと目を開けると、甚一が枕に顔を埋めてクスクスと笑っているのだ。 まだ酔っているのかと思い、なに、と首を傾げると「枕くっせえ」と言いながら肩を揺らしている。 そんな甚一に、陽太は悪戯心が芽生えてしまった。 にじり寄り、はー、と口を寄せ顔の近くで息を吐けば、くっせえ、と言って甚一は更に笑う。 「お前も臭いんだぞ!嗅がせろ!」 甚一の身体に全体重をかけて乗りあがる。 やめろと笑って嫌がり、顔を背ける甚一に再び息を吹きかけた。 良い大人二人が朝一番に何をしているのかと自分達でも呆れてしまう。 やめろ、臭い、と言い合いながら横になったまま蹴り合って、腹が鳴くまでそうしていた。

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