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嘘、それだけ2 - 7

玄関の開く音がして、すぐにドスドスと階段を登る足音が部屋に届きなんとなくタオルケットの中に隠れた。 襖がボスボスとノックされるが、入って来る気配は無かった。 「おい、寝てんのか」と廊下から聞こえる声になんと返事をしようかと数秒悩んでみたが、結局は顔を合わせるのだから仕方がないと諦め、タオルケットを被ったまま自分から襖を開けた。 「起きてる…」 一言そう言った陽太を見て、甚一は噴き出して「ごめん」と言ってから、堪えきれないように声を出して笑った。 おそらく陽太の顔が夕べの酒でこれ以上もなく浮腫んでいたからだろう。 全身に纏う強い磯の匂いの中に、僅かに汗の匂いを感じる。 陽太の胸が、何かに締め上げられたように、ギュ、となった。 昨夜、帰って来てから一人で呑んだ酒は思いの他進んでしまった。 「飯食わない?」 あと少しで朝の防災放送が流れる時間だった。 いつもと同じ態度の甚一と目が合う。 そう言われ、無言で頷き一階へ降りる。 台所へ下げただけの空き缶の量に自分でも改めて驚いた。 そりゃあ顔も浮腫むわけだ。 冷蔵庫の缶チューハイを一本残らず飲み干してしまったのだから。 ハハハ、呑んじゃった、と誤魔化して空き缶をダストボックスへ潰して入れる。 「ちゃんと買い直しとくので…」と言い訳をすると「別にいいって」と更に笑われた。 居間のテーブルに移動させてそのままだった甚八の骨箱も「すみません」と言いながらそそくさと仏間の定位置に戻す。 陽太は、甚一がシャワーに入っている間に、甚一にとっては夕食、陽太にとっては朝食を作り、海水を浴び潮をたっぷりと吸った甚一の作業着を洗濯機に放った。 防水の繋ぎは庭の物干し竿へ。 まだ朝も早いのに気温が高い。 手の平で目元に日陰を作り空を見上げる。 雲ひとつない快晴だというのに、昨夜の出来事がため息になって溢れそうになる。 陽太は、ため息を深呼吸に切り替えて、ふう、と大袈裟に息を吐く。 暑い暑い、と独り言を言って冷房を付けた部屋へ戻る前に、洗い上がりでさっぱりした甚一がまだ水滴の残る髪を拭きながら居間の大窓から顔を出した。 「悪い」と一言言った口にはアイスを咥えている。 「ご飯の前なのに」 陽太が、文句を言うと「食えるから大丈夫」と子供の言い訳の様な事を言って顔を引っ込めたのだった。 「お前後で風呂浸かるか走りに行くかしろよ。顔パンパンだって」 テーブルで向かい合ってからも、甚一の笑いは止まらなかった。小刻みに肩を揺らす甚一に「わかってるよ」と不貞腐れた返事を返す。 重い瞼をグリグリと揉み、陽太は諦めのため息をついて手を合わせた。 視界がいつもの半分ほどしか開かない。 甚一がトーストに目玉焼きとベーコン、ブロッコリーを無造作に乗せて齧り付いた。黄身を零さない角度は相変わらず器用だ。 「小林さんが港まで来たから、オンカジで捕まったのかと思った」 ようやく最初の一口を飲み込んだ甚一が、揶揄うような言い方で「殴り合いの喧嘩じゃなかったんだ」と再び喉を鳴らした。 昨夜の騒動は、既に彼の耳に届いているようだった。 「しないよそんな事。一応大会とか出てたし。ボクシング」 拗ねて尖らせた口を笑われ、陽太はさらに頬を膨らませる。 「マジかよ」 甚一が眉を寄せる。信じていないというよりは今の陽太からは想像もつかないといった顔だ。 「結構強かったの。これでも」 陽太は甚一の真似をして、トーストにブロッコリーと庭で採れたミニトマトを並べた。 色鮮やかなミニトマトは菊池のペンションの庭で採れたものだ。噛みしめると、夏らしい濃い甘みが口に広がる。 「自分で言うか」 甚一は笑いを含ませながらそう言って、口角の黄身を拭った。そのまま数秒、黙って陽太を見つめていた。 陽太が居心地の悪さに根を上げるのを待っているような、探るような視線とぶつかる。 「……なに?」 耐えかねて目を逸らすと、甚一は座卓に置いたコップに手を添えたまま、ぽつりと落とした。 「なんか言われたか? うちの事とか」 諦めの笑みが、その声には混じっていた。 甚一は強引なところもあるが、基本的には他人に踏み込まず、押しつけもしない人間だ。それでも家族のことを語らないのは、震災で受けた高田の家の本当の轍を知られたくないからなのだろう。 「……別に、何も」 誤魔化しは無駄だと、すぐに悟った。 「いいよ。本当の事だし」 「別に悪いことしてる訳じゃないじゃん」 「でも悪に感じる人はいるんだ」 悪、という単語に、陽太の意識が向く。 「おかしいよ。そう思う方がおかしいって」 「おかしくない。昔から言われてた。皆平等に不幸を味わったのに、入る金は平等じゃないって」 甚一の何気ない一言に、陽太のつま先から鋭い寒気が駆け上がる。 「俺はそんなもんあるわけないって思ってたけど。あったんだ。爺さんがもう回復しないって聞いて、いろいろ片付けてる時に知った」 口を挟む余裕など消えていた。目は合わないのに、逸らすこともできない。 「一円も使ってなかった。阿保くさい。少し楽すればよかったのに。全部使ってればこそこそ言われなくて済んだ」 上がった口角は笑いに変わった。 心から可笑しそうに、甚一は笑顔を見せる。 陽太の好きな、眉を下げたあの笑い方で。 「お前の借金が一千万でも五千万でも、払うって言ってたよ」 爽やかなその締めくくりに、陽太は無意識に口を覆った。寒さに耐えるように、指先と唇が震える。 「よ、よかっ……俺、払ってもらわなくて……」 自分を落ち着かせるように、長く細く息を吐いた。 「バ、バカじゃないの、甚ちゃん。そんなお金、俺のくだらない借金なんかに使っちゃダメだよ」 絞り出した言葉は、かえって甚一を冷めさせた。 「いいだろ別に。もういないんだし。何に使おうが」 そう言って残りのパンを頬張り、麦茶で無理やり流し込んだ甚一は、そのまま陽太を無視するように皿を重ねて腰を上げた。 「甚一。それ本気で言ってるなら怒るよ」 「オンカジやってたやつに言われてもな」 わざとらしい軽薄な言葉を背中で聞きながら、陽太は残りのミニトマトを胃に落とした。 隣に並んで、皿を洗う。 皿が三枚。コップが二つ。 水音だけが響く時間はすぐに終わった。 甚一が換気扇の下で一服している間に歯磨きを済ませ、少しでも浮腫みを取りたくて顔を洗う。洗濯を終えた衣類を、そのまま乾燥機に放り込んだ。 「寝る」と言って先に寝室へ入った甚一の背中に、陽太は吸い寄せられるように引っ付いた。 できてんじゃねえの、という外野の陰口を首を振って追い出す。 近くなりすぎたこの距離だけが甚一を知る唯一の方法なのだと自分に言い聞かせるように。 「なに」 「おれも寝る」 「走りにでも行けよ」 「気分じゃない」 お好きにどうぞ、と甚一がベッドに倒れ込んだ。 陽太はその端にそっと滑り込み、少しずつ距離を詰めた。 壁を向いた甚一の背中に額をぴたりと付ける。 「夜勤だろ」 甚一が声を出すと、その背中から微かな振動が額に伝わった。 うん、と頷くだけの返事をする。 「甚ちゃんは? お盆、仕事どうなるの?」 「初盆だしな。出ないよ。坊さんも来るし」 先程二人の間に流れた空気などなかったような、緩慢にまどろむ声が耳に届く。 遮光カーテンの隙間からは、真夏日を予感させる日差しが漏れていた。冷房の効いた室内では、甚一の背中の温もりだけが確かで、心細さが拭えなかった。 「甚ちゃん」 「ん」 「……俺、甚ちゃんから聞きたかった。家族のこと」 家中に、わずかに線香の香りが沈殿している。まるで甚一の家族の面影が漂うように。 「誰から聞いても同じだって」 「違うよ。全然違う」 投げやりな言い方を嗜めるように、陽太はさらに身を寄せた。 「全部知りたい。甚ちゃんのこと、全部」 甚一はしばらく天井を眺めていたが「全部」と呟いて「それはまた難しい事を」と小さく笑ってから、やがて朧げな記憶を辿るように口を開いた。 「ほんとに覚えてないんだ。親のことも、震災のことも。避難所みたいなところにいたの、なんとなく記憶にあるくらいで」 陽太が肩に頬を擦り寄せると、甚一は一度避けるように腕を広げる。 甚一の顔を伺うと、甚一の伏し目がこちらを見ていた。 そこへ収まれと言っている気がして、陽太は素直にその腕の中に頭を乗せる。 回された反対の腕が、陽太の身体を包む。 甚一が全ての害悪から切り離してくれたような気分になって、呼吸が深くなり、自然と瞼が落ちた。 「はっきり覚えてんのは、爺さんと周りが言い合ってたことだけ。多分、ずっと後の話だけど。弔慰金だか何だか受け取る受け取らないって」 自嘲を混ぜた言葉が、陽太の心の奥深くに沈み込む。 気付けば、甚一のTシャツを指が白くなるほど握りしめていた。 「そんなの……好き勝手に他人が言っていいことじゃないよ」 理由のわからない悔しさが涙になる。 それを見られないよう、彼の胸に額を押し付ける。 「親がどっちも見つかってないんだ。父親の兄貴と、その嫁さん。仏壇の写真がそう」 甚一に纏わりつく死の気配は、あまりにも身近だ。 衰弱した年寄りとも、病に冒された病人とも違う。 隙間なく働く甚一の生活は、生への執着の無さの裏返しのようにも思えた。 甚一が明日突然、何も言わずににあちら側へ逝ってしまいそうな感覚が陽太を襲う。 陽太の手に、更に力が入った。 「あと、ひいじいさん?なんかそんときはもう寝たきりだったらしいけど。よく知らない」 甚一の腕が陽太の頭に回されて、ゆっくりと撫でられる。 じんちゃん、と漏れた声は、まるで親を呼ぶ子供のようになってしまった。 「俺は別に。これが普通だったし。覚えてないから。でもあの人にとっては、育てた息子と、育ててもらった親、全員死んだのかって。今更だけどそれ最近気付いた」 囁くような甚一の声が、一層優しくなった。 優しくて、どこまでも無慈悲だ。 かける言葉など、この世のどこにもありはしない。 「お前が教えろって言ったんだろ。泣くなよ」 「泣いてない」 そう言いながら、ぐずぐずと鼻を啜り甚一の首元に額を埋める。 初夏に短くした毛先が甚一の顎に触れたのだろう。 甚一の、くすぐったい、という小さな含み笑いが届く。 伸びかけた髪に、甚一が頬を埋めたのがわかった。 どちらからともなく昼過ぎに起きて、寝過ぎで余計に浮腫んだ顔を笑われた。 炊飯器に残っていたご飯で適当に腹を満たし、甚一はまた家を出ていった。 玄関から見送り、土間に立ち家の中へ振り返る。 手洗いの脇にある階段を見上げる。 どたどたと足音を立てて降りてくる子供の姿が浮かび、陽太は瞬きを二度していないはずの子供の背中をおった。 二階の二部屋は、甚一と、産まれてくるはずだった子供が使う為の部屋だったのかもしれない。 弟だったら、きっと時に喧嘩はするだろうが、可愛がりいつも一緒にいる兄弟だったかもしれない。 妹だったら、どんな時でも守り抜き、きっと大切にしただろう。 玄関からすぐ見える台所に、女性が立っている光景を思う。 気兼ねなく開けられる玄関に嫌な顔ひとつせず人を迎え入れ、世間話に声を弾ませる。 居間では、漁を終えた男たちが、まだ明るいうちから食卓を囲んでいる。 笑い声が飽和した家に満ちる空気を、陽太は一巡り想像する。 ただの想像だ。 目の縁に水気が溜まる。 手の甲でそれを拭い、仏壇の前に座る。 写真を眺め、甚八の骨箱を抱く。 この家は、甚八が老後を自由に過ごすために整えた甚八の為の家だと思っていた。 けれど本当は、家族の思い出を閉じ込める為の家だったのではないか。 都会的だと感心したこの造りも、行方の知れない息子夫婦がいつ戻ってきてもいいように、彼らが生きていた頃そのままに維持してきた家なのではないのか。 甚八はきっと、誰がいつ帰ってきてもいいように、生活を整え、革張りのソファに身を沈め、できるだけここで過ごすことを選んで生きたのだ。 息子夫婦はもう二度と帰ってこないと知りながら。

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