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第一章 狂犬との出会い-3

 兄が言っていた「友好的な獣人が多い」とは、一体なんだったのか。  ユリウスはリベルを買った経緯を思い出しながら、馬車に揺られていた。隣に座るリベルは、あの店を出てから一切言葉を発していない。ユリウスはちらちらと彼の様子を窺っていたが、馬車がフリートウッド家の前に到着したのを見て、ここぞとばかりに声をかけた。 「リベル、着いたぞ。ここが俺の家だ」  リベルはユリウスと目も合わせず黙ったまま、馬車を降りた。 (まあ、最初はこんなものだよな。いきなり初対面の人間の家に来て、友好的に話すなんて無理がある。まずは警戒心を解いてもらえるようにしよう)  ユリウスはそう意気込んで、沈黙するリベルとともに屋敷のエントランスを通り、自室へと案内した。 「リベル。今服を用意するから待っててくれ。……いや、その前に君の傷の手当をしないとだな」  部屋に入るやいなや、ユリウスはリベルにぎこちなく笑いかけた。  リベルの肌にはところどころ切り傷や打撲痕があり、茶色い服は布きれのようにボロボロだったからだ。ユリウスはなるべく穏やかな口調を心がけたつもりだったが、リベルは主人を無視して部屋の奥へと入ると、どかっとソファに座った。 (さっきから一言も口を利いてくれないな。でも、怪我を放置して膿んだりしたら大変だし……)  ユリウスは無遠慮な態度を咎めることはせず、チェストから塗り薬と包帯を取り出し、衣装部屋からは大きめのシャツと黒いズボンを持ってきた。 「君の身体、切り傷がたくさんあっただろ。薬を持ってきたから、これを塗ればよくなると思う。自由に使ってくれ」 「必要ない」 「でも、そのままにしたら危ないだろ?」  ユリウスが薬と衣服を手渡そうとするが、全く受け取ってくれない。それどころか、リベルは頬杖をついて、はっ、と馬鹿にするように口角をつり上げた。 「なんで僕が人間の言うことを聞かなきゃいけないんだよ。そんなに言うなら、お前が脱がせて塗れば?」  獣人が主人である貴族に向かってこんなことを言うなんて、通常ではありえない。リベルはおそらくそれをわかっていて、挑発しているように思えた。 (これは、試されているのか?)  ユリウスは、はあ、とため息を漏らしたあと、リベルの布きれのような服のボタンに手を伸ばした。 「わかったよ」  リベルは驚いたように耳を立てて、一瞬身体を引いた。ユリウスは彼の反応をよそに、茶色いシャツのボタンを外していく。 「へえ、本当にやるんだ? 貴族のくせに使用人みたいだね」  リベルは嘲笑したが、ユリウスは「そうかもな」と軽く笑って受け流す。それが予想外の反応だったのか、リベルはむっとしたような表情を浮かべた。  シャツを脱がされたリベルは、檻に閉じ込められていたとは思えないくらい筋肉質で均整の取れた身体をしていた。ユリウスは枷が擦れてしまったような傷や、脇腹につけられた切り傷に薬を塗り込んでいく。 「痛いんだけど」 「薬だから滲みるのは仕方ないだろ? 我慢してくれ」  背中の傷跡に薬を塗るために後ろを向かされたリベルは、怒ったように尻尾をユリウスの腕に当ててきた。塗りづらいうえに、容赦なく当ててくるので腕が痛い。なんとか薬を塗り終わったユリウスは、リベルに声をかけた。 「塗り終わったぞ。あと、服はそこに置いておくから。俺の服だからちょっと窮屈かもしれないが、また今度、君専用の服を買っておくよ」  ユリウスが薬の蓋を閉めながら言うと、リベルが少しだけ振り向いた。 「お前、わざとらしく媚びるなんて、よっぽど僕の力がほしいみたいだね」  リベルはぎろりと紅い瞳を向ける。その視線には、警戒心や不信感が露わになっていた。 「怪我の手当をしただけで、媚びたつもりはないんだけど……。でも、そうだな。さっきも言ったけど、君には協力してほしいことがあって──」 「別にお前の話を聞くとは言ってない」  ユリウスは自らの事情を説明しようとしたが、話を遮られてしまった。 (まだ話を聞いてくれそうにはないな)  ユリウスはそう判断して口を噤む。するとリベルは薄笑いを浮かべて、小さな声でぽつりと呟いた。 「どうせ人間なんて、みんな卑劣なやつだからね。話を聞く価値もないよ」  彼の言葉に、ユリウスは思わず顔を強張らせた。リベルの人間に対する拒否感は、たんに警戒心が強いというだけではない気がした。 (一人だけ反抗的で檻に閉じ込められていたことといい、リベルにはなにか人間を信じられなくなったきっかけでもあったのだろうか)  ユリウスはそれ以上問いかけることはせず、彼の背中をじっと見つめていた。 「はあ、しょうがないから着るか」  ユリウスが黙ったことで気が収まったのか、リベルは独り言のように呟くと、近くにあった服を着始めた。思ったとおり袖が短く、サイズが全く合っていない。 (やっぱり服も用意しないと。いや、そもそもベッドとか家具も必要だよな? これからはこの部屋で過ごすことになるだろうし)  ユリウスのだだっ広い部屋の中は、ほぼ使っていないスペースで占められていた。すぐに彼専用の家具を手配して、ベッドが用意できるまでの数日間は、自分がソファで寝ることにしよう。  ユリウスはそんなことを考えながら、もう一度リベルに声をかけようとしたが── 「リベル?」  ユリウスは驚いて素っ頓狂な声を出してしまった。リベルは無言で立ち上がり、部屋から出ようとしていたからだ。 「どこに行くんだ?」 「別に、その辺ふらふらしようと思っただけ。お前と一緒にいたくないから」  リベルは主人を一瞥すると、冷たく言い放った。 「嫌なら『命令』でもして、僕を部屋に縛りつければ?」 「いや……縛りつけたいとか、そういうわけじゃ」 「ふーん、どうだか」  その場で固まったユリウスをよそに、リベルは部屋から出て行ってしまった。  たしかに彼の言うとおり、「命令」をすれば身勝手な行動をしないように縛りつけることはできるだろうが、それをする気にはなれなかった。 (やっぱりリベルの人間に対しての嫌悪感は、普通じゃないよなあ)  ユリウスはそう思いながら、リベルが着ていた血の滲んだシャツを拾った。  夜になっても、リベルは部屋に戻ってこなかった。  窓の外は灰色の分厚い雲がかかり、激しい雨音が部屋の中まで響いていた。何気なく外を眺めていると、雷鳴まで聞こえてきて、ひゅっと息が詰まった。 (雷か……)  ユリウスは咄嗟にカーテンを閉めて、ソファに横たわり毛布に包まった。  光が当たらず暗い部屋の中で、急激に孤独感が這い上がってくる。いつもはなんとも思わない独りきりの空間が、雷の音を聞く度に、恐ろしいものへと変わっていく。  ──母が帰ってこなかったのも、こんな嵐の日だった。  十三年前、いつもは寝室に来て本を読み聞かせてくれた母が、その日はなかなか姿を現さなかった。  元々晩餐会があると聞いていたから、帰りが遅くなるのは知っていたが、それにしても明らかに遅すぎる。そして深夜二時を回り、寝つけずにいたユリウスの部屋にやってきたのは──母ではなく、母の死を知らせにきた従者だった。  あの日以来、ユリウスは独りになった。ユリウスは雷の音を聞くたびに、母を亡くした日のことを思い出して、意図せず身体が震えるようになってしまった。 (全然寝れない……)  早く寝てしまいたいと思うのに、雷鳴によって精神が不安定になっているからだろうか、あれこれと悲観的なことを考えてしまう。  ついに「継承の儀」も始まってしまった。リベルを「買った」はいいものの、全く信頼はされていない。  自分には味方になってくれる親も、兄妹も、獣人もいない。唯一カインとレオだけは気にかけてくれているが、同じ後継者争いをしている立場で、彼らとだっていつ戦うことになってもおかしくない状況だ。 (俺って、生き残れるのかな。もしかしてこのまま一人で死んでいく? それとも誰かに服従させられて、自由を奪われて終わるのかな)  考え事をしている間にも、雷鳴が激しさを増していく。部屋の中では閃光が走り、余計に恐怖を駆り立てられた。  ユリウスがぎゅっと目を瞑り、身体を縮こまらせていた、そのとき──  雷の音の合間に、キィ、と扉が開く音がした。 「なにしてんの?」  恐る恐る毛布から顔を出すと、そこには不思議そうな顔でユリウスを見下ろすリベルがいた。 「あ……。帰ってきたんだな……」  ユリウスはなんとか絞り出すように声を出した。リベルは訝し気な表情をしている。どうしてお前がソファにいるんだ、とでも言いたげだった。 「あの、今日はリベルが、ベッドのほう使っていいから。俺はソファで寝るよ」  なんとなく彼の心境を察して言うと、リベルは無言でベッドのほうに向かっていった。どうやらあながち間違ってもいなかったらしい。  腰を上げてリベルの様子を確認すると、彼はベッドに横たわり瞼を閉じていた。しかし寝てはいないようで、何度も落ち着かない様子で寝返りを打っていた。 (……あれ? 震えが収まってる)  しばらくリベルを観察したあと、ユリウスは身体の震えが収まっていることに気がついた。  リベルが帰ってきて余計な思考に歯止めが利いたからなのか、それとも部屋の中に一人きりではなくなったからなのかはわからない。けれど、同じ空間に彼がいてくれることが、妙に心強く感じた。 (今はまだ信用してもらってないけど、徐々にでも心を開いてくれるといいなあ)  ユリウスはそう思いながら、再び毛布に包まって横たわる。先ほどよりはずっと落ちついていて、自然と深い眠りについていった。

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