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第10話 加賀美の過去②
「彩真くん、やっぱり自分の過去を話さないままは卑怯だと思うから、聞いてくれる?」
「加賀美さんが話したくないことまでは聞こうと思っていません。話せるところだけでいいので、聞かせてくれるのは嬉しいですけど」
加賀美は決して明るくはない経験を、彩真にも背負わせるのはどうしても躊躇いがあるようだった。彩真はこのまま話すのをやめてしまっても良いやと思っていた。
彼にどんな大きな傷があったとしても、自分の気持ちが変わる要因にはならない気がした。真実の全てを知った時、自分が癒してあげられれば良いのにとは思う。
加賀美はしばらく思い詰めている様子だったが、彩真の髪を掬いながら、過去経験したことを話し始めた。
「昔……二十代の頃かな。相当クズだったよ。自分で言うのもなんだけどモテたし、来る物拒まず去る者追わずでね。しかも男でも女でも手当たり次第手を出してた」
彩真は加賀美が話し始めた内容に、驚きはしなかった。彼の立ち振る舞いは落ち着いているとはいえ、やはり慣れている。人の扱い方が、そこらの人とは桁違いに上手いと思っていた。
「でも……」と続ける。
「一人だけ、本気で好きになった人がいた。大学で出会ってしばらくはただの友達だったんだけど、俺がどんな状況でもあいつだけは離れないでいてくれた。別に人恋しさなんて、新しい誰かに求めればいいとしか思ってなかったのに、その人だけは俺を叱ってくれたし、諦めないでいてくれた。もう二十五歳も過ぎたんだから落ち着けって言われて、冗談まじりに『じゃあ、お前がこのまま俺の隣でいてよ』って言うとさ、急に顔真っ赤にして……。本当は大学生の頃から好きだったって言われて、マジかって……。でもそれ以来、遊びは一切やめて、人生で初めて真剣に恋愛した」
過去に忘れられない人がいると分かっていたが、やはり本人の口から聞くとショックは大きかった。
その人は報われないと知りながら、それでも五年以上も加賀美を一筋に想っていたのだ。自分にそこまでの覚悟があるかと聞かれると、自信はない。今日フラれたら諦めようと覚悟していたくらいだ。
加賀美の細胞の一部を占領するには、自分はあまりにちっぽけな気がした。
彩真は黙って加賀美の言葉に耳を傾ける。
二人の交際は決して順調ではなかったと言う。加賀美のそれまでの行動が原因していたようだ。一方的に捨てられた人たちが、加賀美の恋人に嫉妬の矛先を向けたことも珍しくなくあったようだ。
加賀美は恋人を守ろうと必死だった。恋人も酷かった頃の加賀美を見てきたから割り切ってくれていたが、中には警察沙汰になりかねない事件もあった。全てを収束させるのに、結構な時間を要したと加賀美は言った。
「ようやくひと段落ついて、俺は真面目に働くためにこのバーをやることにした。恋人は俺とゆっくり過ごす時間を作りたいと言っていたが、俺たちは三十目前だったし、周りに認めてもらいたくて必死だった。タクシーの運転手はその頃からやってたバイトでね。昼はタクシーのって、夜は店の開店に向けて無我夢中で働いた。恋人を養いたいのもあったから、どれも捨てられなかった。でも……」
そこで言葉を詰まらせた。
ふぅっとため息を吐き、遠い目をしてあの頃を振り返る。
「恋人の様子がおかしくなっていることに気づいてやれなかったんだ。あいつは俺のために我慢するやつだって知ってたのに、店が軌道に乗れば楽してやれるって、そればっかり思ってた。ずっと、二人でゆっくりしたいって言ってたのに。あれが、あいつからのSOSだったなんて、完全に壊れるまで気付かなかった」
恋人への嫌がらせは、終わっていなかったのだ。恋人は鬱になり、どんどん塞ぎ込んでいった。
加賀美は励ましていたが、それが逆効果だったとは後になって知った。頑張らないといけないと思い込んだ恋人は、心の懊悩に蝕まれ、遂に入院を余儀なくされた。
「恋人の母親から罵倒されてね。『お前は人の人生を奪った』って怒鳴られて、自分の愚かさにようやく気付いた。遊んでしかこなかったやつが、誰かを幸せにしようなんて無謀だったんだって。母親から、もう会いに来ないでくれって言われて、面会拒否された。
その人とはそれっきり。退院後は田舎に連れて帰られたって噂で聞いた。バーを辞めなかったのは、俺に守れるものが店だけだったから」
それ以来、恋人は作らないと加賀美は決めた。
「今でも、その人が好きなんですね」
彩真は自然に訊いてしまったが、加賀美は緩く左右に首を振る。
「幸せにしてやれなかったことを後悔しているし、未練より懺悔の気持ちの方が強いかな。あの頃の俺は非力だったし、どんな状況だったとしても別れる運命だったんだろうなって思う。
もう恋愛はしないと決めてからも、心揺らいだことがないと言えば嘘になる。でも、一歩距離を縮める勇気は持てなかった。また傷つけてしまったらって思うと、怖かった。恋をしなければ穏やかに過ごせる。
なのに、なんの前触れもなく君が、現れたんだ」
加賀美の視線が、真っ直ぐに彩真を貫いた。
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