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第5話

城の書庫で地図を読み解くことに没頭する日々が、数週間続いた。 暁斗(あきと)は、もはや城下の地理を、誰よりも正確に把握していた。 しかし、知識は、彼を川辺へは連れて行ってはくれない。 正確には、あの川辺に行くことはできた。でも、石動(いするぎ)たちの監視が、あのザリガニ釣りの『大事件』以来、異常なほど厳しくなっていて、抜け出せるのは夜だけなのだった。 暁斗は、夜に川辺に着いて待っていても誰も来ないのだと知った。 そして、城の外にはいくつもの光る野生動物の目がいたり、城ではみかけない妖たちが自分を見てることに気が付いた。 神凪(かんなぎ)家は(すめらぎ)を輩出する四君(よんくん)王家のひとつだ。 皇の位をいただく証である「神氣(かみき)」は、動物はもとより妖たちの興味を惹くのだと、母の書庫にあった本に書いてあった。 なるほど、連中はこちらをみたままのものもいれば近づこうとする者もある。 近づきすぎる者は勝手に消えるし、暁斗が「来るな」と強く念じると引き返すから、なにも怖くないのだが、神氣があっても何の役にも立たない。 一向に目的が果たせないことに焦りを感じる。 朝夕の気温が冷えて、鈴虫が鳴き、夜が長くなってきたころ、暁斗は、迅(じん)に会えない寂しさを募らせていた。 その日の午後。 城の奥にある神殿での清めの儀式を終えて私室に戻って、侍祭の紅葉(かえで)が下がった後、一人で地図を広げていた暁斗の耳に、庭の木々が揺れる、微かな物音が届いた。 警戒して障子窓に目をやると、その向こうに、何度も繰り返し思い出すことですっかり見慣れてしまっていた悪戯っぽい笑顔があった。 「――迅!」 暁斗は、思わず声を上げた。迅は、唇の前に人差し指を立てて「しーっ」という仕草をすると、慣れた手つきで音もなく縁側から部屋に滑り込んできた。彼の腕には、麻布に包まれた、ずしりと重そうな何かがあった。 「お前、どうやって…」 「親父の仕事についてきたんだ。お前こそ、元気だったかよ、暁斗」 久しぶりに会う友の姿に、暁斗の心が浮き立つ。迅は、得意げな顔で、麻布の包みを彼の前に置いた。 「ほらよ。お前への、土産だ」 布が解かれると、中から現れたのは、掌に乗るほどの大きさの、しかし驚くほど精巧に彫られた、白檀(びゃくだん)の菩薩像だった。その柔和な微笑みは、どこか暁斗自身の面影に似ていた。 「…美しい。これは、我のために?」 「おう。こいつを見て、すぐにお前の顔が浮かんだんだ。お前にこそ、ふさわしいと思ってな」 暁斗は、その像を、まるで宝物のように、そっと両手で包み込んだ。迅が自分のために、家臣たちに不審者として捕まるかもしれない危険を冒して、これを持ってきてくれた。その事実が、彼の胸を温かいもので満たしていく。 今なら、言えるかもしれない。ずっと言いたかった、あの言葉を。 「…迅」 改まったような暁斗の声に、迅が不思議そうに顔を向ける。暁斗は、少しだけ頬を赤らめ、意を決したように、しかし高揚した声で言った。 「あのな、―― 俺、」 その一言を聞いた瞬間、迅の目が、大きく見開かれた。 「俺 は、これが、とても嬉しい。迅が、俺 のためにこれを持ってきてくれたことが」 一度口にしてしまえば、もう恥ずかしさはなかった。暁斗は、覚えたての言葉を使いたがる子供のように、何度も、何度も「俺」という一人称を繰り返した。 その姿を、迅は、ただ呆然と、しかし、どうしようもなく愛おしそうな目で見つめていた。 (―― なんだ、こいつ。…心底、かわいいじゃねえか) 自分の真似をして、得意げに「俺」と語る、年下の天人。その健気さに、迅の心は、完全に射抜かれてしまった。 暁斗が、菩薩像を文机の、一番よく見える場所に飾る。 二人だけの部屋。二人だけの秘密の宝物。 それは、彼らの子供時代における、最も幸福で、最も無垢な時間の頂点だった。 ――扉の外に、侍祭である紅葉(かえで)の、近づいてくる足音が響くまで。

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