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第6話
扉の外から聞こえてきたのは、侍祭である紅葉 の、緊張に満ちた声だった。
「――若。石動 様が、お見えにございます」
その声に、二人だけの部屋の、温かい空気は一瞬で凍りついた。
迅 は、弾かれたように立ち上がり、いつでも逃げられるよう身構える。暁斗 は、その小さな背中で迅をかばうように、静かに扉を見据えた。
やがて、許可もなく開け放たれた障子の向こうに、鬼の形相をした石動が立っていた。彼の視線は、部屋の中央に置かれた、あの白檀 の菩薩像に釘付けになっている。
「……若。その仏像は、どこで手に入れられましたか」
その問いは、怒りを通り越して、もはや冷たい響きを帯びていた。
「我が、迅に頼んだのだ」
暁斗は、咄嗟に嘘をついた。それが、友を守るための、彼にできる唯一の自己犠牲であり、支配者としての当然のことだったからだ。しかし、石動は騙されない。
「では、お伺いいたします。なぜ、城の西にある観音寺 の本尊が、若の私室にございますのか!」
その言葉に、暁斗は息をのむ。
彼には、それがそれほどまでに重要なものであったとは、知る由もなかった。
石動の視線が、初めて迅を捉える。
その瞳には、侮蔑と、害虫でも見るかのような、無機質な殺意だけがあった。
「――この大罪人めが!」
石動が腰の刀に手をかけた、まさにその時。
「待て!」
暁斗は、叫んでいた。そして、彼自身も思いがけない言葉を、口走っていた。
「俺が頼んだのだ! 俺が、迅に持ってこさせた! 斬るというなら、まず俺を斬るのが筋であろう!」
その場にいた誰もが、凍りついた。
暁斗が『俺』という一人称を使ったことに。
石動の顔が、怒りで真っ赤に染まる。
「若…! その言葉遣い! やはり、この悪童 が唆 したか!」
「お待ちくだされ、石動殿」
その張り詰めた空気を破ったのは、石動の後ろに控えていた、内政官僚の朝倉 文吾 だった。彼は、いつものように眉間に皺を寄せ、冷静な声で言った。
「お気持ちは分かります。ですが、ここで事を荒立てるのは得策ではありますまい。それに…」
朝倉は、ちらりと迅の父親が担当している、修復途中の城壁の方角を見た。
「この者の父である石工の腕は確かです。今、ここで彼の一族を追放すれば、城の守りに支障が出ますぞ」
それは、あまりにも現実的で、血の通わない、しかし誰も反論できない「道理」だった。
石動は、怒りに震えながらも、刀から手を離した。そして、朝倉に促されるまま、この場の落としどころを探る。
彼は、改めて暁斗の前に向き直ると、深々と頭を下げた。
「…若のご決断、あまりにも浅はかにございます。なれど、若がそこまでこの者を庇うのであれば、致し方ありませぬ」
その言葉に、暁斗の顔が、ほんの少しだけ和らぐ。
しかし、石動が次に口にした言葉は、二人にとって、死刑宣告よりも残酷なものだった。
「――これより後、石工・岩田家の者が城に出入りする際は、その息子、迅を伴うことを、金輪際 、固く禁ずる!」
それは、筆頭家老として下された、絶対の命令だった。
暁斗は、自分の力が、家臣団の、そしてこの国の「道理」という名の刃の前では、まだあまりにも無力であることを、思い知らされた。
迅は、暁人に会うための、唯一の公的な繋がりを、完全に断ち切られた。
石動は、容赦なく、そして流れるように素早い動きで、迅の目の前に踏み込んでいた。
「やめろ! 我のだ!」
暁斗が叫んだときには石動は、立ったままの迅の、十二歳の軽い身体を、抱きかかえるように、しかし力強く、持ち上げる。
――それは、暴力だった。
だが、それは殴られるのとは違う、粘ついて生々しく、しっとりとした熱だった。
自分の尻に、重心を持ち上げるためというには、あまりにも不必要に、そして長く当てられた、大きな手の感触。
そして、間近で見た、石動の瞳の奥に、ただの怒りではない、仄暗い、かつて都で、自分を品定めした男たちのそれと、よく似た「熱」が宿っているのを。
迅の全身に、どうしようもないほどの、鳥肌が立った。
「石動! 迅に触るなと申しておる!」
石動の腹や胸に無理やり身体を押し付けられたまま持ち上げられて、そのまま引きずられて部屋から追い出された迅は、衛兵たちに両腕をつかまれて歩かされる。その最後に一度だけ暁斗を振り返った。
その瞳には、怒りでも、悲しみでもない。ただ、「必ず、この障壁を乗り越えて、また会いに来る」という、静かで、しかし揺るぎない、炎のような決意だけが宿っていた。
その日を境に、二人の関係は、「公に禁じられた、秘密の関係」へと、その性質を完全に変えたのだった。
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