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第7話

(じん)が、衛兵によって連れていかれる。 その襖が閉まると、部屋には暁斗(あきと)と、石動(いするぎ)、そして朝倉(あさくら)の三人と、重い静寂だけが残された。部屋の中央には、あの白檀の菩薩像が、場違いなほど清らかな香りを放っている。暁斗の友を奪われた悲しみと、石動への声にならない反発の全てが、彼の小さな身体から、冷たい神気となって発せられていた。 「石動」 静かな声で、彼は傅役の名を呼んだ。 「なぜ、迅を咎めるのか。あれは、余のために、彼が捧げてくれたものだ。それの何が悪いのだ」 その、あまりにも純粋な問いに、石動は思わず天を仰ぎたくなった。 しかし彼は、ゆっくりと、そして諭すように、幼い主君に向き直る。 「若。…よいですか。世の中の『物』には、全て『持ち主』というものがおりまする」 「あの菩薩像は、観音寺のものが『持ち主』で、あの者は『持ち主』ではございませぬ」 暁斗は、不思議そうに首を傾げた。 「だが、迅がここへ持ってきた。そして、我にくれた。ならば、今は我のものであろう?」 彼の世界では、献上されたものは、受け取った者のものになる。それが全てだった。 石動は、深い溜息をついた。この若君に、どこから説明すればよいのか。 「若。あの者は、『持ち主』である寺から『盗んだ』のです。『持ち主』の許しなく、無断で己が物とする。それは、この国では『罪』とされる、最も卑しき行いの一つ」 「つみ…?」 初めて聞く言葉のように、暁斗はそれを繰り返した。 「なぜ、罪なのだ。迅は、我を喜ばせようとしただけだ。そこに、何の悪意もない」 「若!」 石動の声が、少しだけ強くなる。 「動機に悪意がなくとも、行いが法を外れておれば、それは罪でございます! 喜ばせようとしたなどという個人の『情』で、国の『法』を曲げることなど、決してあってはなりませぬ! それが、この国を治める者の、第一の心得にございますぞ!」 石動の、悲痛なまでの言葉。 暁斗は、初めて、自分の知る世界と、石動たちが生きる世界の理に、大きな隔たりがあることを、ぼんやりと感じ始めていた。 暁斗はいつでも献上される側だった。 この城にやって来た者が、暁斗へ物を差し出したら、受け取るのが礼儀だと教えられてきた。 だから迅が持ってきた仏像も、自分のために持ってこられたものだと受け取った。そうだというのに、石動の言うことは、自分が知る理とは違う「法」の存在を示し、それによって迅が罪を犯したというのだ。 自分の知らない判断基準に対して、暁斗は、何も答えられなかった。 ただ、目の前の美しい菩薩像が、なぜかとても汚れたもののように見えて、そっと視線を逸らすことしか、できなかった。 石動は、暁斗がまだ納得していないこと、そして、その心の天秤が、まだ、あの悪童(あくどう)の方へと傾いていることを、痛いほどに感じていた。 (―――これでは、だめだ) 彼は、最後の手段に出ることを決意した。 この、あまりにも純粋な若君に、あの少年がいかに「人間」の(ことわり)から外れた、危険な存在であるかを、直接、分からせるしかない、と。 「…よろしい。若は、まだ、あの者の異常性が、お分かりにならぬご様子」 石動は、静かに立ち上がると、衛兵に命じた。 「―――岩田迅を、反省を促すため、手と首に鎖を繋いで隣の間へ連れてくるよう」 暁斗が、驚いて顔を上げた。 衛兵が、一礼して部屋を出ていく。 石動は、暁斗の前に戻り、再び膝をつくと、先ほどの襖を、指一本分だけ、そっと開けた。 「若。ここから、静かにお聞き届けください。あれが、人の子ではないという、証拠を、お聞かせいたします」 そう言い残すと、石動は、立ち上がり、その襖をくぐって、隣の間へと入っていった。 襖が指一本分の隙間を残して、静かに閉められる。 やがて、隣の間から、迅が連れて来られた気配と、石動の、冷たい尋問の声が聞こえ始めた。その物音は、普通の足音ではない。鉄が擦れる、重く、引きずるような音だった。 隣の間では、迅が、首と両手首に、錆びた鉄の枷をはめられ、衛兵に引き据えられていた。これは、石動が「反省を促す」という名目で、独断で手配させたものだった。 部屋には、暁斗と、朝倉の二人が残されていた。 暁斗は、息を殺して、その襖の隙間に、耳を澄ませている。 その、あまりにも幼く、そして、あまりにも重い宿命を背負った主君の、小さな後ろ姿をみながら、朝倉は、この事態に、石動の尋常ならざる執着を感じて、胃の腑が掴まれるような嫌悪感を覚えていた。しかし、何も言わずに、ただ見つめているよりほかにない。 彼は、理解していた。 先ほど城への出入りを禁じたことで岩田迅への神凪家の沙汰は終わっているということを。今、隣の部屋で、長年の同志であったはずの石動が、感情的になっていて、その忠義の仮面の下で、狂気の淵に立っているのだということを。そして、その狂気が、この幼い主君の魂に、取り返しのつかない傷を刻みつけている、まさにその瞬間なのだということを。 朝倉は、枷につながれた迅の姿が、石動の抑えきれない歪んだ欲の象徴であることに気づき、一刻も早くこの場が終わることを、ただただ願っていた。 襖の向こうから、迅の鎖が引っ張られたのか、ジャラリという音と共に、床に尻もちをついたような物音がした。やがて、石動の、低く、湿った声が、障子の隙間から漏れ始める。 「――お前は、岩田迅と申すのだな?」 襖の隙間から鎖が引かれる音がする。 「そうだよ!── ッ、 これ外せよ。さっき俺を追い出して終わっただろ。何回同じこと聞きゃ気が済むんだよ」 「お前はなぜ弥勒菩薩像を盗んだのだ?」 「さっき若様が言ったろ。俺は若様から、頼まれて土産を持ってきた。そんだけだ」 迅は、十歳なりに精一杯、強がった声で応じた。 「土産……。ふん、盗品であろう」 石動は、嘲るように言った。 「寺の本尊を、土産と嘯(うそぶ)くか。この期に及んで、悪びれもせぬ。よほど肝が据わっているか、それとも、人の心が無い妖かだな」 「なんで悪びれなきゃならねえんだ? 若様があんなに喜んでくださった。その笑顔を見られたんだ。それで十分だろ」 迅の声には、一切の迷いがない。それは、善悪の概念ではなく、愛憎だけで生きる者の純粋な言葉だった。 「岩田迅。お前は法を犯したのだぞ。お前のような身分の者が、本来ならば、斬られて当然の罪を犯したのだ。わかっていないようだな」 石動の声の調子が、少し上がって、痛めつけようとする意図が滲んでいた。 ジャラジャラと金属の音がして、板張りの床をとたとたと鳴らし、足元がおぼつかないような音が続いた。 「…ッに、すん ──ッ」 「若様は、お前を庇(かば)われた。お前の罪を、ご自分でお引き受けになろうとした。その温情を前にして、なぜ、頭を垂れぬ!?」 迅は、短く答えた。 「ッ、俺、は、若様を喜ばせようとしただけだ。罪だなんだと、そんなの知ったことか」 「知らぬだと?」石動は、吐き捨てるように、冷たい息を漏らした。「己の欲望のために、お前は神凪の跡取りを欺き、その清らかな御心を汚したのだ。反省の念は、一片もないのか? 罰を恐れぬのか?」 石動が鎖を引くと、「グッ」と迅の短い息が漏れ、その後「ジャラリ」と重い鎖が床を滑る音がする。ギリギリと固いものがこすれる音が続く。暁斗は、襖の隙間に顔を寄せ、迅が怯える声、助けを求める声を待っていた。 やがて、迅は、吐き出すように言った。 「寺の本尊盗んだって、寺に怒られるならわかる。でもあんたの怒りなんて、俺が知るかよ。この城で俺が欲しいのは、若様の笑顔だけだ。俺のしたことは、間違っていない。ただ、若様に喜んでほしかった。それだけだ」 石動の声が、粘つくような、個人的な感情を帯び始めた。まるで、迅の身体を、目を閉じて撫で回しているかのような、ねちねちとした響きだった。 「…そうか。若様の、清らかな笑顔だけが、お前の望みか。罪も、法も、そして罰すらも恐れぬ、その強情な心根は、どこから来る? 己の存在価値を、お前如きが会うこともなかった高貴な方の喜びにだけ見出そうとする、その異常な執着。普通の人の子であれば、そうはならぬ。人の心があるのならば、己が犯した罪の重さに、震え、涙を流すものだ」 隣室で、枷が微かに鳴る音が響いた。 暁斗は、その音を聞き逃さなかった。 石動は、ゆっくりと、確信を込めた低い声で、宣告した。 「―――人であれば、罪を犯せば、恐怖を知るもの。…あの者は、人の心を持っておりませぬ。まごうことなき『妖(あやかし)』にございます」 石動は、迅に、反省を期待し、人の子としての反応を試す。 しかし、襖の向こうから聞こえてくるのは、一切悪びれることもなく、ただ「若様をお喜ばせしたかった」と、純粋な、しかし、どこか狂気じみた言葉を繰り返す、迅の声。 そして、ついに、石動の、あの恐るべき「診断」が、暁斗の耳に届く。 「―――人の子であれば、罪を犯せば、恐怖を知るもの。…あの者は、人の心を持っておりませぬ。まごうことなき『妖』にございます」 その言葉を聞いた瞬間、暁斗の心の中で、何かが、はっきりと決まった。 (―――違う) 彼の脳裏に、川辺で笑った、あの迅の顔が蘇る。 自分に「ありがとう」を教えてくれた、あの優しい手が蘇る。 (妖…? 怪物…? 違う。あいつは、ただ、俺のために…) (石動は、何も分かっていない。誰も、迅の、あの純粋な心を、分かってやしない) (罪というならそれは行いのこと。あいつの心は違う) (そうだ。分かってやれるのは、この世で、俺だけなのだ。迅は、俺が絶対的に必要としている『宝』なのだ) 暁斗の心に生まれたのは、恐怖や迷いではなかった。それは、「自分だけが、彼の唯一の理解者なのだ」という、強烈な使命と、彼を、その孤独と誤解から「永遠に俺の庇護下へと救い出してやりたい」という、気高い庇護欲だった。 石動の尋問が終わった後。 部屋に戻った暁斗の心は、決まっていた。 「――迅。必ず、また会いに行く。そして、俺が、お前は間違っていないと、伝えてやる」と。

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