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第8話

迅が城に来て再会し、石動が尋問をした日から、すでに数ヶ月が過ぎていた。 秋に起きた事件で、また暁斗は『皇之暦書(すねらのれきしょ)』の十五日の筆写をさせられた。 国の歴史と、「法」という名の巨大な檻の存在を刻みつけたあの出来事で、石動は迅を「妖」と断じたが、彼の心は迅の「ただ喜んでほしかった」という純粋な言葉に、完全に傾いたままでいた。 (石動の言う「罪」は、迅の行いのこと。だが、迅の心は正しい。俺だけが、それを知っている) その結論に達して以来、彼の思考は一変した。 彼があの時に知った「法」と「道理」というものを学び始めた。それは迅に会うための「障害」と認識して、その原理を知らなければ対処のしようがないと考えたからだ。全てを学ぶには意味の分からない言葉も多くて時間がかかる。だから法については気長にとりかかることにしていた。 そして、実際に迅に会うために、暁斗がまず取り組んだのは、神の皇子としての生活からは、完全に欠落している「町の生活」という迅が暮らしている世界についての情報を集めることだった。 暁斗は、城の雑用を担う下働きの者たちに目を付けた。彼らは、暁斗の衣服につけられた鈴の音を聞けば、理由も知らずに土下座して退くよう命じられている者たちで、これまであまり興味を持ったことがなかったが、石動などの見えない時に話しかけてみると、ひれ伏すことのほかは厳格な教育は受けていなかったようで、存外、ちょっとした質問に答えをくれる。 好奇心が刺激されるが、我慢して、一回に聞く質問は三つ程度にして、時間や場所や相手を換えながら地道に情報と、そして銭を集めていた。 それというのも、ある夜。月が細く、石動たちの目が緩むと見た暁斗は、いつものように鈴を綿入りの小さな巾着に詰め、音を殺した。そして、城の最も下の階、蔵や厩舎に近い場所で、当直の下働きの男たちを見つけると、無表情なまま声をかけた。 「――そなたたち。外で飯を食う時、どうするのだ」 突然の王の質問に、男たちは顔を見合わせた。八歳の王のあまりにも非日常的な質問は、彼らの警戒心を解くには十分すぎるほどだった。 「へえ、若様。そりゃあ、銭(ぜに)を出して、屋台で蕎麦でも買うんです」 「銭?」 暁斗は、真新しい絹の衣の裾を気にしながら、興味津々というよりも、目の前の物体を分析するかのように、問いを重ねた。その瞳は、まるで初めて見る生き物を観察する学者のようだった。 「それは、どこで手に入れるのだ。どれくらいの数があれば、一日、外で過ごせるのだ」 「えっ、そりゃ、賃金ですよ。日雇いなら一日五文。若様なら、二文もあれば、城下で好きなだけ食えますよ」 暁斗は、男の「二文もあれば」という言葉を、記憶に深く刻んだ。 (二文というのは単位のことか? 集めたら、迅に、菓子でも買ってやれるのだな) 「ふむ。その銭というものを見てみたい。手にとって見せよ」 城の若宮様の命令に、男はすぐに懐から、汚れた、真鍮のような丸い銭貨を数枚取り出した。 暁斗は、それを小さな指でつついてみた。冷たく、硬い。そして、石動の言う「穢れ」の匂いが、微かに染み付いている気がした。 男が銭を数えるのに夢中になっている一瞬。暁斗は、その冷たい銭貨の一枚を、素早く手のひらに滑らせた。それは、まるで彼の神気が、目に見えない動きで周囲の空気を歪ませたかのようだった。男は気づかない。 暁斗は、その日を境に、この「銭をねだる」行為を、人を変え、場所を変え、密かに繰り返した。彼の行動は、王族が盗みを働くという、この世で最もあり得ない「法を犯す行為」だった。 しかし、彼の動機は、盗みへの欲望ではない。全ては、迅と等しい世界に立つため。迅が持っていて、自分に欠けている「自由」の鍵を集めるためだった。 そして数週間後。彼は、城の外で一日過ごすのに十分な金銭を、密かに懐に貯めていた。 次の問題は、衣服だった。あの絹の衣では、城下を歩けばすぐに目を引く。 ある日、暁斗は、城の裏手にある庭師たちの着替え場を見つけた。土埃と草の匂いが染み付いた、麻の作業着が、雑然と積み重ねられている。 夜、再び城を抜け出した暁斗は、そこで初めて、「穢れ」を自ら身にまとうという行為を試みた。 彼は、冷たい着替え場で、丁寧に自分の衣を脱ぎ、その清浄な裸身に、土と草の匂い、そして労働の熱が微かに残る麻の着物を纏った。袖を通した瞬間、城にはない、強く生々しい自然の匂いと、肌に張り付く粗い布地の感触が、彼の全身を覆った。 (これこそが、迅のいる世界の匂いだ。清浄ではないが、生きる熱に満ちている。) 彼は、その異物感を、まるで愛の証のように受け入れた。清浄を尊ぶ石動の教え、神凪家の「神」としての規範を、彼は今、この瞬間、迅への執着という名のナイフで、切り裂いたのだ。 服と金銭。準備は整った。あとは、城が手薄になる、「決行の日」を待つだけだった。

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