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第9話
城に年神を迎え、一年で最も清浄であるはずの元日の夕餉は、特別だった。
それは、昨年、祖父が亡くなってから、常に独りで食す暁斗にとって、年に二度だけ許された「人のぬくもり」を傍らに感じる時間であり、同時に、最も冷たく、疎外に満ちた刻 でもあった。
大広間は、雪解け前の冷たい静寂に包まれ、豪奢な食事が並ぶ。しかし、その配置こそが孤独の象徴だった。暁斗は神凪の国の王の跡取りだが、白峰城の城主であるという格式に従い、上座に座らされていた。それは父、腹違いの弟、そして妾の三人が座る席から遠く離れ、あたかも自分を穢れから遠ざける『結界』を張られたかのような、孤立した場所だった。
暁斗の父、現君主 柏木 景正 は、暁斗とは一度も目を合わせなかった。彼の視線は、結界を張る自らの「術」を讃えてくれる妾 彩葉 と、その息子で神氣を持たない弟 辰夫 との間を漂うだけだった。
弟が暁斗のことをちらりと見る。そして父に話しかけた。
「父上、大晦日にいただいた団子は誠に美味でした」
「ああ、そうだな。またそのうち一緒に食おう」
弟の話に父は答えたが、すぐに話を終えてしまった。弟は拗ねた様子で黙る。いつもなら、弟が楽しい思い出話をひけらかすようにする場面だったというのに今日は違うことに暁斗は気づいた。
「――この城と、この国を支える結界は、ひとえに亡き神凪の妻 紗雪 の神氣あってのもの。我は、その結界を繋ぎ、守りし者」
父は、妾に語りかけるという体裁で、亡き妻 の神氣を、形式的な賛辞と共に持ち出した。それは、「お前は、この神氣の恐ろしい血筋だ」と、神氣気だけで父の努力を無に帰す「化け物」である暁斗に、間接的に圧力をかける、冷酷な支配だった。
弟と妾は、父の意図も知らず、ただ「さすがでございます」と形式的な相槌を打つ。会話は、常に「神凪の義務」や「術の偉大さ」という、暁斗が口を挟めない、重苦しい話題に終始した。
(やはり、父上は口には出してはくれぬのか)
暁斗は、遠い上座で冷えた料理を見つめながら、悟った。
前年の七月十三日。盆の入りでの夕餉の席で、弟は父に楽しげなザリガニ釣りの話をしていた。
弟が、屈託のない笑顔で、父に向かって言葉を投げかけた。
「父上! この間、ザリガニ釣りに連れて行ってくださったでしょう。あいつ、後ろにしか歩かないんだ!」
「うむ、あれは面白いだろう」
父は、その時だけ、弟に向かって、優しい、穏やかな笑みを浮かべた。
その時、暁斗の胸に、冷たい鉄の塊が突き刺さったような感覚が走った。
ザリガニ釣り。
暁斗も本で読んだことがあった。しかし、それは書物の中だけの、遠い、手の届かない世界だと思っていた。それを、弟は、父と、二人きりで、体験したといったのだ。
父上は、いつも自分を遠ざけていた。
それは、自分に宿る神氣のせいだと、頭では理解していた。
しかし、弟には、惜しみない愛を注いでいる。
その事実に、暁斗の心は、激しい嫉妬と、どうしようもないほどの孤独に苛まれたのだ。
元旦と、盆の入り。この年に二度の食事だけが、暁斗が辛うじて血の繋がりのある父上と会える、特別な時間だった。それなのに父上は暁斗のことを見ない。形式的な話しかしない。その孤独が、彼の心を城の外へと向かわせたのだ。
抗いがたい衝動となり、抜け出した先の川原で、泥と汗にまみれた。そして、一筋の太陽と出会った。迅 と名乗る少年は、彼の孤独を埋める、初めての友となったのだ。
あの世俗的で「自由な愛」の象徴。あれこそが、我が手に入れ損ねた、父の温情と、自由だった。それが暁斗が城を抜け出すきっかけだったことを、父は石動から報告を受けて知っているのだ。
だからこそ、父は正月、その話題を徹底的に避け、その代わりに、食事という最も私的な場で暁斗に「神凪の世継ぎ」という重い鎖を巻きつけようとしている。
父は、母をもしのぐ強い神氣を持つ暁斗に、私的な愛情と自由を一切与えるつもりがないのだ。
(父上は、それほどまでに我の神氣を憎むのか)
その冷酷な真実が、暁斗の心の中で、静かな怒りとなった。恐怖はない。
神氣は暁斗が生まれたときからその身にまとった才能で個性なのだ。父が厳しい修行で磨いた陰陽の術でようやく成したことを、我は御包みの中の赤子であったときから成してしまう。それは我の罪ではない。この生来の個性を否定し、憎む父と、我の神氣を恐れるこの城を、裏切ってやるという、強固な決意だけが残った
父が城を去り、家臣団の監視が緩んだ決行の夜。シャラシャラと控えめだが清涼な鈴の音が鳴る。
暁斗は、一人、苔むした石畳を踏みしめ、神殿の奥へと進んだ。彼が向かうのは、邪な妖を封じたと伝わる、古の蔵。重く、冷たい木戸を開けると、そこに広がるのは、無数の鬼の面をした木偶人形 が、無言で並ぶ、異様な光景だった。
暁斗が蔵に一歩足を踏み入れた途端、何者かの、邪な視線が、一斉に彼を捉える。暁斗は、その冷たい視線を感じながら、静かに目を伏せた。そして、再び、その瞳を開く。すると、視線はわずかに彼に向かって動いている。彼は、乱れぬよう、静かに呼吸を整えた。
彼は、パン、と両の手を叩いた。
その瞬間、蔵に満ちていた邪な気配は、完全に消え去った。そこに残るのは、ただ、鬼の面をした木偶人形が、無言で並ぶ、静謐な空間だけ。
暁斗は、その蔵をゆっくりと進んだ。奥にある、人の背丈ほどの大きな葛籠 を開けると、その中へ静かに身を沈める。
カタン。
葛籠の蓋が静かに閉じられた。葛籠の中は真っ暗になり、籠の底がゆっくりと抜けて足を延ばせるように空間が変化する。
(ここだ。母上が残し、我だけが知る秘密)
暁斗が足を延ばすと、着物についた鈴はシャラシャラとなるが、音は外に漏れることはない。
こここそが、都の斎王であった母の残した禁書が隠され、彼が「音を覚えて真似る魂氣」の存在を知った場所。彼はその魂氣に「鈴音 」の名を与え、従属させていた。
「鈴音、やはりここに居たか。鬼たちを祓ったから出られるぞ。これより俺の命に従え、そして俺の鈴の音を覚えろ 」
彼は、鈴音へそう命じ、葛籠の蓋を押し開けて、蔵を後にした。
暁斗は、私室に戻ると、長い線香一本を用意し、二刻 (およそ四時間)の計測に使うため、四半刻 (およそ三十分)ごとに印をつけた。そして、葛籠で鈴音に聴かせたばかりの服の鈴を、音を立てながら城内の廊下や部屋で鳴らし始めた。
彼は、この二刻の間に、城内の人間が聞き慣れた、自分の行動パターンを音として記録していく。
線香の最初の印が燃え尽きるまで、彼は四半刻、一定の速度で歩き回る音を鳴らした。
次の印までは、静かに立ち止まって鈴を微かに鳴らす音を、時折挟んだ。
そして、次の四半刻は、文机に向かって座り、書物を開く微かな音を、鈴の音に重ねた。
その音源を、鈴音に記憶させるためだった。
「鈴音。この音を今から人に聞こえぬように鳴らせ。お前が鳴らした音を、再び覚え、繰り返し再生するのだ。そして、夜明けの二刻前からは人に聞こえるようにして、昼間はそのまま城の中を徘徊するのだ。よいな」
鈴音は、再生中に、自分の鳴らした音を再び記憶し、上書きを繰り返すことで、音源が失われることなく、暁斗が城内を徘徊しているかのような音が、静まり返った夜の城に響き続ける。
夜明けまでは、音の雑音が少ない。
やがて再生が繰り返されるうちに、鈴の音には雑音が混じり、妖である鈴音は人が入れない場所に入り込んだりするだろう。しかし、これで十分だった。
(我の不在が知れるまで、少なくとも半日の猶予ができるはず。石動たちが気づいく頃には、俺はとっくに城の外だ)
神凪の血筋の「個性」である神氣を、私的な逃亡のためのアリバイ工作に利用する。それは、彼が「神凪の権威」よりも「迅への執着」を優先した、冷酷で天才的な最初の裏切りだった。
暁斗は、隠し持った麻の着物を纏い、鈴を巾着から外すと、音のない足取りで、城外の闇へと踏み出した。
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