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第10話

暁斗は、着物の鈴を綿入り巾着で包むと、隠しておいた麻の着物を上から纏い、音のない足取りで、城外の闇へと踏み出した。 彼は、書庫の地図で暗記した裏門の経路を、夜の闇の中でも迷うことなく進んだ。城を抜け出し、雪解け前の冷たい夜風の中を歩く。 夜明けが近づく頃、彼は城から遠い町外れの厩舎(きゅうしゃ)を見つけた。(わら)の匂いと、獣の生々しい熱気が充満する場所。 彼は、厩舎の戸を静かに開けると、暗闇の中で息を潜めていた馬たちに、不遜な笑みを向けた。 「――宿を借りるぞ。静かにしていろ」 馬たちは、その清浄な神氣に一瞬いなないたが、暁斗が彼らの体温に近い場所に、粗く敷かれた藁に身を沈めると、すぐに静かになった。 暁斗は、泥と獣の熱が混じる中で、麻の着物にくるまり、生まれて初めて固くて寒い場所で夜を過ごした。冷たい土から上がってくる夜気と、遠くの月の光だけが彼の孤独を知っていた。 日が昇ると、城下町の喧騒が彼を包んだ。 彼は、汚れた麻の着物に身を包み、市井の子供たちに紛れ込もうとしたが、その立ち居振る舞いと、夜の間に身に染み付いた神氣の清浄さは、彼が異物であることを雄弁に語っていた。 最初の二日間、彼は緻密に暗記した地図を頭の中で広げ、迅の家があるはずの石工の集落と、あの川原を行き来した。 しかし、迅の姿はどこにもない。 (あの清らかな光は、どこへ行った? なぜ、この町の地図に、迅の居場所が記されていない!) 彼の渇望は、焦燥へと変わっていった。城での一人で食す膳の記憶が、石動の冷たい制裁の恐怖と結びつき、彼を追い詰めた。 彼は、冷たい銭で買った握り飯を、無味のまま飲み込んだ。 誰とも話さない。誰も、彼に話しかけない。仕来りだの、どこに行ってはだめだの、時間が定められていてなにかに夢中になることもできない城とは違う。 暁斗は自由だった。 そして、その自由な世界には、暁斗のほかには誰もいないのだと知った。 厩舎に隠れて三日目。街を歩き回ったがどこもかしこも混沌とした生きた空気に満ちていた。 どこを探しても迅がみつからない。 夕方。 暁斗は、もはや空腹や不潔さには慣れていたが、無力感に苛まれていた。あの緻密な地図も、着替えも、銭も、迅という唯一の目標を連れてくることはなかった。 (このままでは、また城に戻り、父上と石動の冷たい視線に耐えるしかないのか…) 彼は、厩舎の影からこっそりと外へ出て、町の中へ紛れ込もうとした。諦めるべきか、もう一度だけ探すべきか、葛藤が彼の冷たい頭脳を巡っていた。 迅に初めて会ったあの瞬間のことを思い出す。 城を抜け出して最初に見た山の中は、生と死の空気が生々しい場所だった。結界の外は清浄な城や神殿の中よりもずっと混とんとしているのだと母の記録にもあった通りだった。 でもあの時、暁斗はみつけたのだ。 田んぼのあぜ道を歩いていたら、周囲の混沌のなかそこだけが光っているかのように見えた川辺に子供たちがいた。 彼らが立っている小川一帯の空気が、澄んでいた。結界の外は、本来、人の欲や不安、そしてそれに引き寄せられた魂氣(こんき)が微かに澱む場所であるのだ。城から離れたこの川原も、例外ではないはずだった。 だが、あの川辺で出会った、光り輝く髪と瞳を持った少年――迅の周りは、暗い影の中で陽光がその場所だけを照らし出したかのように清らかで、淀みがなかった。 それは、暁斗自身の神氣が放つ、周囲の邪気を焼き尽くす冷たい光とは違うものだった。 迅の持つ力は、暁斗の神氣よりももっと温かく、おおらかで、ただ「生」の力だけで、周囲の「死」や「穢れ」を自然と押し返しているようだった。 だから町に出てもすぐに見つけられると思ったのだ。 それなのに暁斗があるくどこもかしこも混沌だらけ。自分が歩くとそこは滅するが、暁斗の神氣による浄化は迅の穏やかなものとは違う、のだ。 あの太陽の息吹を持つ、迅に会いたい。 会えないのか。 城に戻るべきか。 その時だった。城下の最も賑やかな一角、曲がり角を曲がった場所で、二人の少年が立ち話をしているのが見えた。 一人は、大きくがっしりとした熊樫(くまかし)。もう一人は、好奇心いっぱいの目を持つ(ともえ)という名の少年だった。彼らは、土と草の匂いが染み付いた、明らかに体に合わない粗末な麻の着物を着た、こぎれいな子供を偶然見つけた。 熊樫は、警戒心からその少年を睨みつけた。だが、巴が、その白い肌と見慣れぬ着物の下に覗く絹を見て、はっと息をのんだ。 「――熊樫、あれ、ひょっとして…若様じゃねえか?」 熊樫が目を凝らす。間違いない。それは、あの夏の川原で出会った「天人」だった。 再会。それは、暁斗の探索と二人の少年の偶然が交錯した、運命の瞬間だった。 熊樫と巴は、戸惑いながらも、暁斗に駆け寄った。 「若宮様! あんた、こんな薄汚い場所で何やってんだ!」 熊樫の乱暴な声に、暁斗は初めて孤独の結界が破られたのを感じた。 「……迅は、どこだ」 彼の口から、渇望した名前が漏れる。でも熊樫は自分たちへの挨拶もない態度が面白くなかった。 「ああ、迅か。……あいつは今頃、忙しいんだ」 つっけんどんに言う熊樫だったが、巴は目を輝かせて言った。 「でも、若宮様が来たと言えば、迅は飛びついて喜ぶ! 連れてってやろうぜ、熊!」 巴のその様子に、暁斗を理由にすれば迅が自分たちを無下に扱ったりはしないという期待をみてとって、熊樫は、不満そうに鼻を鳴らした。だが、迅に会えることを期待したのは熊樫も同じだ。巴に押し切られる形で、暁斗を連れて、迅が働く飲み屋へと向かった。 暁斗は、熊樫と巴に連れられ、城下町の最も賑やかな一角にある「お(れん)」という名前の飲み屋にやってきた。 熊樫が店先から裏手にまわり窓を覗くと、洗い場から、ぶつぶつと不機嫌な声が聞こえてきた。 「んだよ、熊樫。この時間忙しいって言っただろ、皿洗いが終わらねえんだよ」 「甚八(じんぱち)!いいからこっち見ろ」 熊樫が、あえてお漣がつけた迅の呼び名を叫んだ。 洗い場の水蒸気と、醤油と出汁の生々しい匂いが混じる中、水桶から顔を上げたのは、迅だった。袖をまくり、洗い物に追われていたのだろう、彼の肌は湯気でわずかに赤くなっていた。 その瞳が、熊樫の横に立つ泥まみれの暁斗を捉えた瞬間、時間が止まった。 驚愕、そして、抑えきれない歓喜。迅の表情は一変し、そのまま無防備に暁斗へ駆け寄ろうとした。 しかし、その両腕を広げた直後、彼の動きは、電撃を浴びたようにぴたりと止まった。 (――穢れる。穢しちまう) 彼の目線が、水に濡れて光る左手首に落ちる。師走に入れられた、墨の黒い刺青。それは、迅が「穢れた存在」であるという、屈辱の印だった。 今、この清らかさそのもののような若宮様に、この穢れた己が触れたら、彼の光を汚してしまう。 迅は、広げかけた両手を、咄嗟に背中に回した。特に刺青のある左手首を、袖の奥深くへと押し隠す。その琥珀色の瞳は、歓喜の炎を失い、深い自己嫌悪と悲痛な拒絶の色を宿した。 言葉は出ない。ただ、一歩、後ずさる。 その様子を見ていた女性がいた。飲み屋の女将、お漣だ。彼女は、瞬時に、迅の不自然な拒絶と、左腕の動き、そして目の前の天人のような少年との間に流れる尋常ならざる空気を見抜いた。 お漣は、口の端を吊り上げると、奥から洗い場に出てきた。 「やだよ、この子は!」 お漣は、暁斗に目をくれることなく、大袈裟な動作で迅と客たちの間に立つと、迅が隠した左手を掴み取った。 「こんな怪我、黙っとくなんて水臭い子だね。熊樫(あの子)たちが連れてきたお貴いお客人が驚いちまうだろ。手当てしてやるから動くんじゃないよ、貸しな」 お漣は、迅が抵抗する間もなく、刺青を暁斗に見せないように、手早く手拭いをその手首に巻き付けた。 「怪我したら、こうやって覆って手当しとくもんだ。お客人方も、どうか見て見ぬふりをしてやっておくれね」 それは、暁斗だけが知らない、迅の屈辱の印を「単なる怪我」として処理し、暁斗の清浄な視界と迅の尊厳を守った、お蓮の無償の愛の庇護だった。 熊樫も、巴も、それは『傷』だが怪我じゃないことをしっていたが、何も言わなかった。 お漣の瞳の奥には、裏社会に生きる者特有の「何か」がちらついたが、今はただ、迅の新しい幸福を守りたいという情だけが勝っていた。

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