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第11話
お漣は、手当を終えると、城の絹の衣の上に麻の着物を纏った暁斗を一瞥し、鼻を鳴らした。
「あんたは育ちのいいとこの坊ちゃんなのかもしれないけど、あたしはそんなこと知らないよ」
お漣は、裏社会に生きる者特有の、率直で強い瞳で暁斗を見据えた。
「ここは、ただ町の連中が飯を食う場所だ。あんたをただの小僧として扱うから、そのつもりでいな。それで、あんた、泥臭いよ。その麻の着物は脱いじまいな。迅、あんたは今日は客人の相手だ。茶の用意するからこっちきな」
暁斗は、言われた通り麻の着物を脱ぐと、お漣がさっさと取り上げた。茶が出されることに安堵していた。だが、自分に対して一切の敬意がない言葉に、不遜な表情で黙っていた。それを見てとった迅が暁斗に諭すように声をかけた。
「おい、暁斗」
迅が、手拭いを巻かれた左手を、大事そうに胸に抱えながら、そっと声をかけた。
「黙ってるんじゃねえよ。ここの主は女将さんだ。俺とお前が一緒に居られるように便宜はかってもらえるんだから感謝を込めて『ありがとう』って言わなきゃダメだろ」
「…あり、がとう」
暁斗は、生まれて初めて、身分でも金銭でもない、純粋な好意に対して、心から感謝の言葉を口にした。その言葉は、まるで喉から絞り出されたように、ぎこちなかった。
お漣は、満足そうに笑うと、夜の仕込みに戻った。しかし、すぐに湯気が立つ蒸し菓子と、温かい茶を盆に載せて戻ってきた。
「はい、おあがり。あんたたち、こんな時間まで騒いで」
お漣は、熊樫と巴、そして手当を終えた迅に、平等に茶菓子を差し出した。熊樫と巴は、目を輝かせ、おずおずと手を伸ばす。迅は、遠慮なく一つを手に取った。
そして、お漣が、麻の着物に白い肌が覗く暁斗の前に、茶菓子を差し出した。
暁斗は、城での「礼儀」に従い、静かに頭を下げた。
「いえいえ。我は結構でございます」
城での慣例では、高貴な者は一度「いえいえ」と遠慮するのが作法であり、二度勧められて初めて手を出すものだった。
しかし、お漣は暁斗の言葉を聞くと、「そうかい」とだけ言い、その茶菓子をさっと迅の方へ持っていってしまった。
「迅。あんた、二つ食べな」
「やった! ありがとな、暁斗」
迅は遠慮なく二つ目の茶菓子を受け取り、頬張った。
暁斗は、「え?」と口を半開きにして、迅の口へ消えていく茶菓子を、驚きに見つめた。
別にそれほど欲しかったわけではないが、作法ではないのか。
なぜ、二度勧めない?
彼の頭脳は、今起こった現象を解析できずに混乱した。
お漣は、そんな暁斗をまっすぐ見据え、口の端を吊り上げた。
「あんた、まだそんな面倒な作法で生きてるのかい」
彼女は、裏社会の厳しさと、生きる智慧を知る女の目で、暁斗に教え諭した。
「いいかい。子供なんだから、遠慮なんざ必要ない。うちの店で、くれると言われたら素直にもらえばいいんだよ。欲しくないなら、『要らない』ってハッキリ言えばいい」
お漣は、茶を一口飲み、鋭く畳みかけた。
「欲しいなら、欲しいって言いな。誰かに渡っちまってから、欲しがったって、あんたの欲は満たされねえんだよ」
それは、石動の「法と義務」の帝王学とは全く違う、「生」という名の支配と本能的な欲求を肯定する、裏社会の、そして人間としての最初の教えだった。
暁斗は、その言葉を、目の前の茶菓子と、迅の満たされた笑顔と共に、その幼い頭脳に、深く刻み込んだ。
お漣は、満足そうに笑うと、仕込みの準備に戻った。
夕餉だとお漣が、店の一番奥の、油の匂いが染み付いた板の間に子供たちを呼んだ。
その日の主役は、炭火で焼かれたホッケ。脂がのった魚の匂いは、城の形式的な料理にはない、生命の熱を放っていた。
食事が進む。
しかし、暁斗は箸を動かさない。
彼は、給仕する者も傅役もいない、隣に迅がいるという状況に舞い上がり、目の前の料理に意識が向かなかった。
迅は、自身の皿からホッケの身を崩し、暁斗の皿に乗せた。
「食えよ、暁斗。お腹が空いてるだろ。……うまいか?」
その問いかけは、城の食卓ではあり得なかった。
いつも一人きりだし、父は暁斗に食事の味など尋ねない。
暁斗は、迅の顔を見た。琥珀色の瞳は、心底からの喜びと、期待に満ちている。
暁斗は、先ほどの教訓を思い出し、「欲しいものは掴め」というお漣の教えに従うために、迷いを振り切った。 彼は、ホッケの身を一切れ口に運んだ。
城で食すいつも冷めた義務的な料理と違い、それは焼きたての温かさと、強い塩気に満ちていた。
そして、迅の幸福な笑顔に導かれ、暁斗の唇は、心からの笑みを象って開いた。
「――うまい! こんな温かい飯は、初めて食った」
暁斗は、生まれて初めて、心から笑った。その鈴が鳴るような笑い声を聞いた迅の全身に、歓喜の衝撃が走る。
「だろ! お漣の飯は日本一だ! ほら、熊樫、お前も食えよ!」
迅は、自分もホッケを頬張り、心底美味しそうに食事を始めた。
暁斗は、その光景を夢中で見つめた。隣の皿に手を伸ばせば届く距離。形式的な作法も、冷たい視線もない。ただ、温かいという感覚を、大切な誰かと分かち合うという、幸福な食卓の味。
暁斗は、食に興味のなかった幼い日の、全ての欠落を、この一瞬で埋め尽くしたように感じていた。
暁斗が、城の外で初めて迎えた朝は、音と匂いに満ちていた。
遠くで鳴く鶏の声。階下から聞こえる、女将 の忙しない音と、味噌汁の香ばしい匂い。
決められた時間に、侍祭 が静かに起こしに来る、あの冷たい静寂とは、何もかもが違っていた。
「よお、暁斗。おはよ」
寝癖をつけたままの迅が、にかりと笑う。
「お、はよう…?」
暁斗は、生まれて初めてその言葉を口にした。
迅は「おう!」と満足げに頷くと、女将が用意してくれた、湯気のたつ具だくさんの汁物、味噌を塗った握り飯と、塩結びを暁斗の前に置いた。
行儀作法など、誰も気にしない。
迅も、熊樫(くまかし)も、巴(ともえ)も、ただ夢中で、美味そうに飯を頬張っている。
暁斗は、恐る恐るその大きな握り飯にかぶりついた。塩と、米の甘さと、そして、誰かと共に食べる温かさ。それは、彼が城で口にする、どんな豪華な料理よりも、遥かに美味しかった。
その日一日、迅は、暁斗の専属の案内人となった。
「いいか、暁斗。こっちが鍛冶屋だ。すげえ熱いだろ!」
「こっちの布は、遠い国から来たやつなんだとさ」
「ああ、そこの爺さんには近づくんじゃねえ。ケチで有名だからな!」
迅は、自分の庭を案内するように、得意げに城下町の全てを暁斗に見せて回った。暁斗は、その全てに、雛鳥のように瞳を輝かせ、質問を重ねた。
市場の隅で、甘い醤油の匂いが漂ってくる。団子屋だった。
異母弟が自慢していた、あの「団子」。
暁斗が、じっとその店を見つめているのに気づいた迅は、ニヤリと笑った。
「食いてえのか?」
暁斗が、こくりと頷く。昨夜、女将に教わった通り、彼はもう「いえいえ」とは言わなかった。
「よし、待ってろ!」迅は、懐を探るが、金がない。彼は気まずそうに熊樫たちを見たが、彼らも首を横に振った。
「金なら、我が持っている」
暁斗は、城から「借りてきた」銭貨を懐から取り出した。その冷たい金属の感触は、城外で生きるための「力」そのものだった。
迅は、その銭を受け取ると、店の主人に団子を注文する。
「な、暁斗。お前、なんで急に団子が食いたくなったんだ?」
暁斗は、団子の串を受け取りながら、静かに、しかし誇らしげに答えた。
「…今日が、我の誕生日だからだ。今日で、九つになった」
その言葉に、迅の琥珀色の瞳が、驚きと歓喜で大きく見開かれた。
「なんだと! 誕生日かよ! おい、お前ら! 若様、今日誕生日だってよ!」
熊樫も巴も歓声を上げた。
「おめでとう、暁斗! 知らなくて悪かった!」
迅は、自分のことのように喜び、買ったばかりの団子の串を、暁斗に向かって差し出した。
「じゃあ、この団子は、お前の九歳の誕生日の団子だ! 最初に食え!」
初めて口にする、焼きたての団子の、温かくて、柔らかくて、どうしようもなく甘い味。暁斗は、あまりの美味しさに、思わず目を見開いた。
午後は、川原で、迅が手製の弾弓 の使い方を教えた。
石動に叩き込まれた、弓の作法とは全く違う。ただ、的を睨み、感覚で、弾を放つ。
最初は戸惑っていた暁斗だったが、彼が持つ、神に与えられた集中力が、ここで発揮された。彼が放った小石が、十歩先の木の実に、かん、と小気味よい音を立てて命中する。
「すげえ!」
「暁斗、やるじゃねえか!」
仲間たちの歓声の中で、迅は、自分のことのように、胸を張って笑っていた。
陽が傾き、空が茜色に染まる頃。
彼らは、城が見渡せる丘の上に、並んで座っていた。
泥だらけの服。擦りむいた膝。しかし、暁斗の心は、生まれて初めて、幸福というもので完全に満たされていた。
「…楽しいな、迅」
ぽつりと、暁斗が呟いた。
「我は、今日という日を、生涯忘れぬだろう」
「へへっ、当たり前だろ」
迅は、夕日に照らされた横顔で、悪戯っぽく笑った。
「暁斗。忘れるなよ。お前には俺がついてんだからな。お前が、この国の君主様……、じゃなくって、神凪の王になるまで、いや、なった後も、俺のとこに来たらいつだって、俺が面白いもんを見せてやるよ」
その、何の屈託もない、未来を信じて疑わない約束。
暁斗は、ただ黙って、しかし、心の底から嬉しそうに、小さく頷いた。
それは、あまりにも短く、あまりにも輝かしい、二人の、そして仲間たち全員の「黄金の時間」だった。
この幸福な記憶こそが、この先に待つ、長い、長い冬の時代を生き抜くための、彼らの、唯一の宝物となることを、まだ誰も知らなかった。
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