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第12話
別れの時間が近づき、一行が飲み屋へ戻ったのは、城下町の喧騒がピークを迎える夕刻だった。お漣は、既に夕餉の準備で忙しい。
暁斗は、昨夜泊めてもらった礼を述べるため、お漣の前に立った。
「迅の母上。二日間、温かい飯と場所を、ありがとう」
「あいよ」お漣は、包丁を動かしながら、一度も暁斗の顔を見なかった。
「またおいで。ただし、次は親にバレないように、もっと上手にやりな」
勘違いなど些細なこと。訂正などして水を差すのは無粋。この時間はもう終わろうとしているのだから。
その時だった。
町の一角から、規則正しい、重い馬の蹄の音が近づいてきた。その音は、瞬く間に、城下の喧騒をかき消していく。
迅が、その音に顔を曇らせ、店の戸口を睨みつけた。
「…来たか」
その言葉に、暁斗の心臓が冷えた。
城を抜けて四日目の夕方。
それは、石動たちが、厳戒態勢で捜索を行い尽くすには十分な刻が経っていた。
町の住人たちが、異様な馬の音に道を空ける。そして、飲み屋の前に止まったのは、窓に御簾(みす)がかかった、冷たい黒塗りの籠だった。
籠を引くのは、武装した護衛兵。そして、その先頭に立つのは、長谷部(はせべ)の感情のない顔だった。
長谷部は、店の戸口に立つ暁斗の、泥と草の匂いが染み付いた麻の着物姿を、無言で、しかし強烈な「無責任さ」の視線で突きつけた。
「――若。お戻りください」
長谷部の低い声が響く。
迅が、籠を睨みつける。彼は、「穢れた手」を隠しながらも、王を奪い返す「城の権威」に対して、全身で反抗の意思を示した。
しかし、暁斗は、迅に悟られないよう、静かに、長谷部の差し出す手に身体を預けた。
二度と会えなくなるかもしれないという予感。そして、石動たちが「命を懸けて」自分を待っているという、王としての義務が、彼の小さな身体を、冷たい籠の中へと引き戻した。
「迅」
籠の戸が閉じる直前、暁斗は、窓の御簾の隙間から、迅の琥珀色の瞳を、まっすぐに見つめた。
「またな」
それは、七年間の長い空白と、狂気の愛の誓いが込められた、二人の最後の約束となった。
長谷部の籠は、城下の喧騒を背に、冷たい夕暮れの道を、城へと急いだ。暁斗を待つのは、大広間に白装束で並んだ、忠義と狂気が混ざり合った家臣一同の、恐るべき制裁だった。
長谷部の籠は、城門で馬を下ろされ、護衛兵に担ぎ直された。籠はそのまま、石畳の続く屋根付きの長い廊下を運ばれていく。その廊下の先が、儀礼を行う大広間だった。
籠が、その大広間に通じる最も格式高い上段の間の前に、静かに下ろされた。
暁斗は、籠を降りた瞬間、その場の張り詰めた冷気に息をのんだ。大広間には、筆頭家老・石動を筆頭に、朝倉や長谷部を含めた家臣団全員が、白い装束を身につけ、静かに座している。その中央に、筆頭家老である石動が、潔斎を済ませた白い装束で、神前に供えるように、小刀を膝の上に置いていた。それは、切腹という、命を懸けた忠義を示す時の装束だった。
その無言の圧力は、城の外の世界で味わったどんな恐怖よりも、暁斗の心を締め付けた。
彼らは、ただ黙って、暁斗がそこに立つことを待っていた。
「…石動」
暁斗の声は、か細く震えていた。
石動は、ゆっくりと顔を上げると、その瞳に宿る悲痛な決意を、一切隠すことなく暁斗に向けた。
「――若。御身の、四日間にわたる不在の責め、我ら家臣一同、腹をさばいてお詫びする所存にございます」
その言葉と、家臣団が一斉に頭を垂れる音が、暁斗の小さな心臓に、鋭い刃のように突き刺さる。石動の言葉と、家臣たちの気概が伝わってくる。
暁斗は恐怖を感じた。
(命を賭して、我を城に繋ぎ止めようとしている……)
彼らは、脅迫しているのではない。心から、この行いが正しいと信じ、命を捨てる覚悟を決めているのだと理解した。
彼は、何も言えなかった。ただ、その場に立ち尽くし、全身から汗が噴き出すのを感じた。
昨日、迅と囲んだ温かい食卓の記憶が、一瞬で血と死の恐怖に塗り替えられる。
石動が、ゆっくりと小刀に手をかける。
「やめよ!」
暁斗は、悲鳴のような叫びを上げていた。
「やめてくれ…!頼むから、やめてくれ…!」
彼は、土下座するような勢いで、地面に膝と手をつき、「我のせいで死ぬな」という、純粋な恐怖と悲痛さから、その場で泣き崩れた。
「石動、やめろ! 皆を止めてくれ!」
彼は、土下座する石動の冷たい膝に縋りつき、何度も頭を下げた。
「二度と…二度と城を抜け出したりはしない…!だから…頼む…! 死ぬのはやめてくれ! お前たちをなくしたら我は、俺は、独りになってしまう! 」
彼の顔には、大粒の涙が流れ、庭の白い砂を濡らしていく。それは、彼が初めて心の底から流した、後悔と、そして愛する者たちを失うことへの恐怖の涙だった。
石動は、その涙を見て、静かに小刀から手を離した。
この時、彼は悟った。暁斗は、ただの飾り物ではない。神凪家の、そしてこの国の未来を背負うに足る、心を持った君主であると。
この日から、暁斗は、二度と城を抜け出すことはなかった。
家臣たちが退室し、大広間に石動と暁斗の二人が残された。石動は、座り込む暁斗の前に、再び静かに膝をついた。
「若…」
石動の声は、先ほどの激しい怒りとは打って変わって、まるで慈愛に満ちた祖父のようだった。暁斗は、その優しい声に、再び涙が込み上げてくるのを感じた。
「石動は知らねばなりません。なぜ、若はそれほどまでに『外の世界』に執着されるのですか。外には、穢れと悪意しかない。直接ご覧になって、なぜそれをお分かりにならないのですか」
石動の問いに、暁斗はただ涙を流す。
「迅は、穢れではない! 温かい。あいつの周りだけ、光が……そして、迅の母上は、温かい飯をくれた……」
暁斗の口から「迅の母上」という言葉が出た瞬間、石動の顔に一瞬、戦慄(せんりつ)が走った。しかし、彼はその誤解を訂正しなかった。
(…どうせ、下々の者への興味も一時的なこと)
(ここは若を城の清浄へ戻すことが最優先)
石動は、一瞬で思考を巡らせ、衝撃を飲み込むと、諦めたような疲労の色を浮かべ、静かに目を閉じ、そして、ゆっくりと語り始めた。
「あの者たちをそば近くに置いたのですね。……若。我らが、若のお傍に人を近づけないのは、外の世界の悪意から、若を護るためだけではございません」
石動は、深く息を吸った。
「若の神氣が、あまりにも強大だからです。若の強い神氣に充てられると常世の生きとし生けるものは、狂ってしまうのです。」
これまで暁斗には話さずにいた、隠してきた白峰城の、最も暗い真実を語り始めた。
「…若が、まだ赤子でいらっしゃった頃のこと。若の神気は、あまりにも強すぎました。乳母は、その神氣に当てられ、心を狂わせたのでございます」
暁斗は、息をのんだ。乳母が、自分を「夜の穢れ」から守ると言って攫おうとした、その出来事の背後にある真実を、彼は初めて知った。
「神氣を纏うのは神凪の家が、代々皇や斎王を輩出してきた神聖な血族である証でございます。しかし、神氣というものは、神の子の氣。訓練も心得もない人の子に、若がむやみに触れれば、その者の魂を狂わせ、本来の生を歪めてしまう。それが、若が生まれた時からお持ちになられた、神氣のお力なのです」
石動は、自分の手を見つめながら続けた。
「我ら譜代の家臣どもは、先代君主、遥月様と血の盃を交わし、神氣をこの身に賜り、それを御す術を学んでおります。それでも、時に力を暴走させ、己を失いかけることもございます。若の神氣は…」
石動は、言葉を選びながら、絞り出すように言った。
「…神凪家、代々の当主が持っていた神気の中でも、最も強いものでございます。事実上、存在しないほどに…。もし若より勝る神氣をお持ちの先祖があるのであれば、それは初代煌帝(きらめきのおおきみ)となられた天元日月大神(あめはじめひづきのおおかみ
)のほかございません」
「若の母上である紗雪 様も、強い神氣をお持ちでした。それゆえに都の斎王として呼ばれ、事実上の隔離がなされたのですが、それでも、若ほどの強い神氣ではございませんでした」
石動の眼はここではない遠くを見ていた。
「若の祖父である先代当主遥月 様は、乳母の事件をうけて、若を孤独に、城の結界の中で跡取りとして育てるよりほか、道がないとおっしゃったのです。そして、父君へ神凪の王(かんなぎのきみ)を譲りになり、自ら若とこの城に結界を貼ってお住まいになられました」
暁斗の紫の瞳を正面から見上げて、石動は一字一句刻むかのように言った。
「今、若を孤独にさせている『神凪 の規範』は、この石動が先代遥月様とともに定めた鉄壁の籠にございます」
暁斗はすべて得心がいった。
暁斗が袖を通すすべての衣には清らの鈴がついていて、その居場所を鈴の音が教えるのも。
祖父の血の盃をうけた臣鬼である譜代の家臣たちですら、暁斗と対面する際には三歩の距離を保つのも。
それ以外の者は鈴の音を聞けば、暁斗が通る中央を開け、端にひれ伏するのも。
年に回の食事で、暁斗だけが離れた場所に膳をおかれるのも。
すべてが暁斗の神氣に充てられぬよう、長くこの城に仕えても、平穏な暮らしができるよう、そのように現在の仕組みを整えられていたのだ。
「若が孤独をお感じになられることは私も重々承知しております。しかし、それが、若と、若の周りの人間を護る、唯一の術であると信じて、定めたもの。それ故、その責を負えというのであれば、この老いぼれ、いかなる沙汰もお請け致します。ですが、どうか、若君には『孤独である』そのことを受け入れて、良き君主として国を治めていただきたいのでございます」
それは、暁斗の「孤独」が、自分の神氣によって引き起こされたという、残酷な事実だった。
石動は、深々と頭を下げて「神凪の規範」という名の重い鎖を、幼い主君の心に、再び巻きつけた。
暁斗の心の中で、温かい食卓の記憶と、石動の告白が、激しく衝突した。
(迅と、迅の母上は……大丈夫だっただろうか)
迅には、そこにいるだけで周りに陽光のような清らかさを伴う光で照らす力がある。穏やかに自然の氣が清浄化するのだ。もかしたら、暁斗の神気を中和してくれたかもしれない。
だが、もし、暁斗の神氣が、迅の心に「狂気」を植え付けてしまっていたら?
そして、あの温かい迅の母上にも、狂気を及ぼしてしまったら?
その恐怖は、暁斗の「愛」を、「自己犠牲」という形に変えた。
彼は、涙を拭い、静かに立ち上がった。
「……わかった。我は、もう城を抜け出したりはせぬ。この城で、良き君主となることで、我の友である、迅が住むこの国を護る」
石動は、安堵したように頭を垂れた。
暁斗は思い出す。
暁斗が、まだ五つの頃。彼の世界は、ひどく狭く、そして、完璧なまでに満ち足りていた。
彼の神氣は、生まれながらにしてあまりに強すぎた。乳母は、その清浄すぎる気に当てられ、心を狂わせた。父である神凪の王は、神氣を持たぬがゆえに、息子に近づくことすら恐れた。傅役 である石動たちもまた、常に三歩の距離を保ち、決して彼に触れようとはしなかった。
そんな暁斗の世界で、唯一の例外があった。
祖父、遥月 。
乳母の事件をきっかけに王の座を退いた彼は、自ら、この恐るべき孫の養育係となったという祖父も神氣をその身に宿す神子(みこ)だった。
だから祖父だけは、何の隔てもなく、暁斗の傍にいることができた唯一の人間だったのだ。
「―――暁斗。今日は、城の外の話をしてやろうか」
隠居した祖父の部屋は、暁斗にとって、世界でただ一つの「天国」だった。
祖父は、書物を読む合間に、穏やかな声で、外の世界の物語を語ってくれた。祭りの夜の賑わい。子供たちが興じるという、ザリガニ釣りという奇妙な遊び。父が知らない、母の、都での思い出。
暁斗は、その話に、夢中になって耳を傾けた。祖父の温かい膝の上で、彼の語る言葉の一つ一つが、暁斗の心に、きらきらと輝く宝物のように積もっていった。
それは、誰にも脅かされず、ただ一人、自分を理解してくれる存在と過ごした、完璧な時間。
彼にとっての「幸福」とは、「安全な場所で、大切な人と、二人きりでいること」だと、この時に、その魂に深く刻まれたのだ。
しかし、その「天国」は、彼が七つになった冬、あまりにも突然に、終わりを告げる。
祖父が、静かに息を引き取ったのだ。
祖父の亡骸が冷たくなっていく傍らで、暁斗は、一粒の涙も流さなかった。ただ、自らの世界から、全ての「音」と「温もり」が消え去っていくのを、呆然と感じていた。
祖父は、逝く前に、石動と共に、一つの仕組みを作り上げていた。自らの死後、この強大すぎる孫が誰かを傷つけたり、誰かに傷つけられたりしないように、彼を完全に隔離するための、冷徹な「鳥かご」を。
祖父の最後の愛情は、皮肉にも、暁斗を完全な沈黙と孤独の世界に、閉じ込めた。
父との、年に二度の、冷たい食事。
石動が施す、心を殺すための教育。
彼の世界から、対話は消えた。
八つになった年の、夏。盆の入りの夕餉の席で、彼は、父と異母弟が、楽しげに語り合うのを聞いた。
「―――父上! この間、ザリガニ釣りに連れて行ってくださったでしょう!」
その、何でもない一言が、暁斗の心に突き刺さった。
ザリガニ釣り。
それは、かつて祖父が語ってくれた、失われた「天国」のかけら。
一年間、沈黙の鳥かごの中で、彼が焦がれ続けた、外の世界の、具体的な一片。
(―――見たい)
その、あまりにも純粋な衝動が、初めて、彼を、鳥かごの外へと突き動かした。
祖父が遺した、最後の愛情である「鳥かご」を、自らの意志で食い破り、失われた光を探しにいく。
それが、彼が初めて犯した「裏切り」であり、そして、運命の相手と出会うための、最初の咆哮だった。
祖父が亡くなって二年になる。
あこがれたザリガニ釣りを教えてくれた迅を、自分のわがままで狂わせたくないと心から思った。迅を守りたい。その気持ちがあって初めて、暁斗は祖父のいない孤独を受け入れることができた。
その瞳は、未来の「王」の冷徹さを持っていた。
「城の外は悪意と穢れで確かに混とんとしている世界であった。我は、良き君主となって、この国を護り、そして、迅がその身に晒されている全ての悪意から、護ってやる。迅を狂わせることのないよう、もう、会わぬ。我の宝が我の治世で笑って暮らしていけるように、そうする」
暁斗は、迅を護るために、迅に会わないという、自己犠牲と誓いを立てたのだった。
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