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第13話

長谷部の籠が城へ戻り、暁斗が城を出ないと約束した、その日の翌朝。 夜明け前。飲み屋**『お漣』**の裏手の洗い場は、昨夜の喧騒が嘘のように静まり返っていた。お漣は、既に(かまど)に火を入れ、静かに仕込みを始めていた。 「――女将さん、水汲んでくるぜ」 迅の声は、いつものように明るく、昨夜の別れや左手の屈辱のことなど、一瞬たりとも忘れたように響いた。彼は、左手に巻かれた手拭いを気にしながらも、桶を担ぎ、意気揚々と水汲みに出かけていく。その陽光のような足音は、すぐに石畳の奥へと遠ざかっていった。 お漣は、「あいよ」と短く返し、店の戸を閉め、誰もいない厨房の奥で、次の日の仕込みのため、包丁を研ぎ始めた。 その時だった。 店先の戸が、静かに開く、重い音がした。 「いらっしゃい――」と顔を上げたお漣の視界に飛び込んできたのは、城の家臣が着る、寸分の乱れもない、清浄な装束だった。 そこに立っていたのは、筆頭家老、石動(いするぎ)。彼は、家臣を伴わず、独りで、暗くなり始めた店の奥を、感情のない、冷たい瞳で見据えていた。 その背後の闇の中を、迅の陽光のような足音が、完全に消えていくのが、かろうじて聞こえた。 石動は、お漣に一瞥をくれると、口を開くこともなく、その戸をくぐり、店の中へと、静かに踏み込んだ。 そして、戸が、重い音を立てて、閉ざされ、一瞬の静寂の後、カチャリと、微かな金属音が響いた。 迅は毎朝、お(れん)のために、城のある山を登った。町中の井戸よりも清涼な水が、お蓮の作る季節の料理を、この上なく美味しくする。 厨房では、墨の入った左手を隠さずにいられる。その感謝の印に、彼は、毎日、この山まで水を汲みに来ることに決めていた。 昨夜は、雨が降ったからだろうか。清水が溜まる(くぼ)は、微かに濁っていた。 迅は、水を汲みやすいように誰かが通した竹筒(たけづつ)の、仕掛けられた網のゴミをそっと取り除く。そして、竹筒に両手を当て、静かに祈りを捧げた。 (この山の神様、俺は甚八(じんぱち)でございます) 彼は、心の中で沢山の神に名乗る。 (今日も、お恵みを、ありがとうございます) 感謝の言葉が、清らかな水面を、揺らす。 そして、その祈りが届いたかのように、濁りのあった水は、みるみるうちに、透明な輝きを取り戻した。 (今日も、俺に汲まれてくれて、ありがとう) 迅は、静かに、(おけ)に、その水を汲んだ。 彼の心は、その水のように、澄み切っていた。

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