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第14話

時は流れ、暁斗が十五になった年の八月。 父が静かに息を引き取った。 その喪が明けた頃、筆頭家老である石動(いするぎ)は、しきたりに従い、父の(めかけ)に自害を命じた。 「御身は先代の君主に仕えられた身。君主亡き今、共に冥土へ旅立たれるのが、神凪家代々の習わしにございます」 石動の声は静かだったが、その命令は、冷たい(やいば)のように、暁斗の心を凍り付かせた。 (毎年、父上との食事を楽しみにしてた。この人は、父上と一緒に来てくれた。私にとって…唯一の家族なのだ!) 彼は、頭の中で鳴り響く警告を無視して、反射的に叫んだ。 「やめよ、石動! この者は、余にとって、身内なのだ!」 「しきたりには理由があります」 「でも、余が当主だ。その余が辞めよ申しておる」 彼の叫びに、妾は驚いたように顔を上げた。その瞳には、安堵と、戸惑いが混じっているように見えた。 石動が、時間をおいてまた話あうとして、その場を収めた。だから暁斗は安堵したのだ。 妾が下がると、石動が諭すように言った。 「我が君。神凪の王に説明なく、あの者に話した私が誤っておりました。しかしながら、神凪家の言葉には一貫性がなければなりません。先のように、意を伝える相手の前で、別の意を唱えることは信用にかかわります。今後、異論があった場合は、先のように相手の目の前で意見が分かれるところを見せずに、席を離れて意識を一致させるべきです。それに、妾の処遇について、なぜそのようなしきたりがあるのかはを『皇之暦書(るめらぎのれきしょ)』にてご自身でお探しください。そのうえで再び、沙汰いたしましょう」 暁斗の理解を得てから二対び、同じ沙汰を下すつもりで石動はその日の決議を先送りにして、妾は拘束するのみとした。 暁斗は書物を紐解くと、側室の子を擁して謀反を興す記録がいくつかあって、掟がつくられるに至ったことが知れた。 でも暁斗は、父や弟へ笑いかけるあの女性が、そのような真似をするとは思えなかった。知っている人間が死を命じられる恐怖。 その切実な情は、悲劇的な事態を招くことになる。 妾は捕らえられた日の夜に、何者かの手引きで城を抜けた。 その数日後、妾は弟を連れて、家臣団に刃を向けた。彼女の背後には、父の死後、不遇をかこっていた者たちが、武装して控えていた。 「我が子こそが、この家の正当な世継ぎである!」 妾がそう叫んだ。その声が、孤独に育てられているがために私怨(しえん)を向けられたことがいまだかつてなかった暁斗の耳に届いたとき、なぜそうなるのか、その動機は彼の理解の範疇を超えていた。 謀反は、石動が率いる神凪家の精鋭部隊によって、わずか一日で鎮圧された。妾に加担した者たちは悉く捕縛され、彼らの拠点であった城下の一角は、炎に包まれた。その炎は、一晩のうちに、暁斗の唯一の友である(じん)の家も、温かく迎えてくれた女将の店も、すべて灰燼(かいじん)に帰した。 炎が収まり、翌日の朝。暁斗は、護衛として付き従う長谷部(はせべ)と共に、燃え尽きた街を歩いた。 焦げ付く匂いが、彼の鼻腔を突き刺す。熱を失った空気は、冷たく、重く、彼の心を締め付けた。ひしゃげた屋根瓦、黒く煤けた柱、そして無惨に散乱した人々の暮らしの痕跡。その中で目が留まったのは、子を抱く母が寄り添いあったまま黒焦げになっていた姿…。 (俺の情が…) (俺の過ちが…) 彼の、たった一つの、甘い判断が、この全てを、灰にした。 石動が説いた、あの、冷徹な「仕来り(しきたり)」の意味。歴史が、血で記した「掟」の重さ。 城主たるもの、情を挟んではならない場面があることを、彼は、この、おびただしい死の数をもって、初めて、その魂に刻みつけた。 そして、その、罪悪感に(さいな)まれる彼の脳裏に、一つの、最も、大切な記憶が、蘇(よみが)る。 迅と笑いあった、あの、川原の風景。女将(迅の母上)が、差し出してくれた、温かい握り飯の、湯気。 (迅は? どこだ?) 彼の、その、個人的な、あまりにも個人的な「情」が、王としての、全ての絶望を、上回った。 彼は、燃え尽きた街の中に、自らの、唯一の「光」を探し始めた。 焼け野原と化した城下町の一角。 そこはかつて迅たちと過ごした女将の店があるあたりだった。 「若様! これ以上は、危険にございます!」 護衛として付き従う長谷部(はせべ)の、悲痛な制止の声も、もはや、暁斗の耳には届いていなかった。 彼は、馬から降りると、まだ、熱く、煙の燻(くすぶ)る瓦礫(がれき)の中を、まるで、夢遊病者のように、歩いていた。 あの、陽だまりのような、温かい家を探して。 しかし、そこに、もはや、家の形はなかった。 ただ、黒く炭化した、巨大な(はり)が、無惨に折り重なっているだけ。 「…迅…」 暁斗の唇から、か細い声が漏れる。 その時だった。 彼の、その魂の奥底で、何か、微かな、しかし、確かな「呼び声」が、聞こえたような気がした。 彼は、弾かれたように、顔を上げる。 そして、その、瓦礫の山の一点へと、もつれる足で、駆け出した。 めざしているその場所は、この町で焼けたものたちの恐怖や恐れをすべて飲み込んで燃えたこの町で、唯一、見覚えのある清浄さを示していた。 それは、そこに探し人が在るのだと暁斗に教えていた。 「若!」 暁斗は、その、高貴なはずの手で、まだ熱を持つ、炭化した木材を、必死で、()き分け始めた。 その、あまりにも異様な光景に、長谷部も、慌てて駆け寄り、その、巨大な腕で、道を阻む、一番大きな梁を、持ち上げる。 ―――そして、その下に、二人は、見た。 まず、目に入ったのは、黒焦げになりながらも、何かを、必死で、その身で(かば)うように、うつ伏せに倒れている、女将の亡骸(なきがら)だった。 そして、その、母のような、温かい腕の中で。 まるで、奇跡のように、その空間が、守られていた。 そこに、血と、(すす)にまみれた、一人の少年が、ぐったりと、横たわっていた。 その顔は、汚れ、傷つき、もはや、判別もつかない。 しかし、暁斗には、分かった。 煤で汚れた、その髪の間から、一筋だけ、(のぞ)く、月光の銀。 そして、その、閉じられた瞼(まぶた)が、ほんの僅かに、震え、その隙間から、一瞬だけ、見えた、太陽の琥珀(こはく)。 「―――迅…」 暁斗は、その場に、ひざまずき、震える手で、その頬に触れようとした。 しかし、長谷部が、その手を、制した。 「なりませぬ、若様! そのような、素性の知れぬ者に触れるなど…!」 その、あまりにも真っ当な、しかし、あまりにも無慈悲な言葉。 それを聞いた暁斗は、ゆっくりと、顔を上げた。 その、紫水晶の瞳の奥に、もはや、子供の光はなかった。 そこにあったのは、自らの、絶対的な意志を、邪魔する者全てを、排除する、神の、冷たい光だった。 「―――黙れ、長谷部」 「この者を、運べ。我が、私室へ!」 「これは、王の、命令である」 その、有無を言わせぬ、神の如き気迫に、長谷部は、ただ、ひれ伏すしかなかった。 彼は、震える手で、長谷部に、迅を運ばせ、医者を呼んで手当てをさせた。そして、その夜、彼は自らの心に、ある誓いを立てた。 謀反人である妾と、弟を、火刑に処すことを命じるため、彼は石動を呼んだ。 「…若、よろしいのですか」 石動の問いに、暁斗は黙って頷いた。火刑という残酷な罰を、彼はまだ知らなかった。しかし、その夜の街から聞こえてくる、かすかな呻き声と、焦げ付く匂いが、彼にこの決断の重さを告げていた。 「…この街の、死傷者の数は…」 「…百を、超えます」 長谷部の報告に、暁斗は息をのんだ。 生きたまま焼かれたであろう人々。その痛みを想像し、彼は唇を噛みしめた。彼らがどれほどの恐怖と苦痛の中で命を落としたのか。その目を、一人ひとりに合わせるように、彼は静かに祈った。 そして、その祈りの先に、彼は自らに問いかける。 (あの時、私が彼女に情をかけたから、この人々は死んだ。石動がしきたりに従って命じたのに、私が情に流されたから、この街は焼かれた) (この事態を招いた者たちは、彼らの都合で犠牲になった人々と同じ目に合わなければならない。同じ苦痛を、あの者たちにも、味わわせなければ、示しがつかない。だから、この選択は間違いなんかじゃない) 夜明け前、空が、最も深い、瑠璃色(るりいろ)に染まる頃。 処刑は、始まった。 場所は、城下の焼け落ちた町の中央。無骨な、二本の柱が立てられ、そこに、暁斗(あきと)が「家族」と思って情を掛けた、父の(めかけ)と、その息子とが、向かい合わせにそれぞれ縛り付けられていた。 暁斗は、その、少し離れた場所に、石動と長谷部を連れて、静かに、立っていた。 その身に(まろ)う、(けが)れを知らぬ、真っ白な装束が、夜明け前の、青白い光の中で、まるで、幽鬼(ゆうき)のように、浮かび上がっている。 その顔は、精巧に作られた能面のようだった。 一切の感情が、そこからは、読み取れない。 暁斗は、一段高い場所に設けられた椅子に、石動たちを伴って座っている。その顔は、まるで能面のように、一切の感情が抜け落ちている。 「火をつけよ」 彼の、子供とは思えぬほど低く、冷たい声が響く。 やがて、松明(たいまつ)が、その、乾いた(まき)へと、投げ入れられる。 轟音(ごうおん)と共に、炎が、天を()めるように、燃え上がった。 ―――ぎゃあああああああああ! 耳を(つんざ)くような、絶叫。焼ける肉の、おぞましい匂い。 暁斗は、その、地獄の全てを、五感で、受け止めていた。吐き気が、込み上げてくる。足が、震える。 見物している者たちの中には、顔を背けたり、気分を悪くしたりする者もいる。 しかし、暁斗だけは、その地獄絵図から決して目を逸らさない。 (―――目を、背けるな、暁斗) 彼は、(おのれ)に、そう強く命じ、従った。 彼の脳裏に、あの、焼け野原に転がっていた、名もなき、母子の亡骸(なきがら)が、(よみがえ)る。 炭になりながらも、なお、その腕で、我が子を、(かば)い続けていた、母親の姿。 (母が、父が、子を庇う。その、あまりにも当然の、小さな祈りすら、戦の火は、無残に食い尽くす) 目隠しなどさせない。 お前たちが放った火に、成すすべも持たず、焼かれたものたちと同じだ。 目の前で焼かれる母を見ろ。 目の前で焼かれる子を見るがいい。 これが街を焼いたお前らのしたことだ。 その、燃え盛る炎の中に、彼は、見ていた。 (じん)と笑いあった、あの、川辺の風景。 彼の、その、あまりにも優しかった、そして、あまりにも、無力だった、子供時代。 (見ろ。お前たちの、その、ちっぽけな欲望が、この街を、そして、あの母子を、俺の、あの、宝物のような時間すらも、全て、焼き尽くしたのだ) やがて、絶叫は、途絶えた。 後に残されたのは、ただ、(まき)が、ぱちぱちと、()ぜる音と、そして、どうしようもないほどの、静寂だけだった。 東の空から、新しい、一日の、最初の、美しい光が、差し込んでくる。 暁斗は、ゆっくりと、その、焼死体と化した、かつての「家族」に、背を向けた。 彼の、その、紫水晶の瞳からは、もはや、昨夜までの、子供の、か細い光は、完全に、消え去っていた。 「……この火刑を、俺は生涯、胸に刻んで生きると誓う」 彼は、静かに、(つぶや)いた。 その声は、まだ若いが、その響きは、もはや、何者にも、揺るがされることのない、王の、それだった。 (―――二度と、間違うまい) (俺が、護るべきが、誰なのかを) (そして、焼かれるべきが、誰なのかを)  側に控える石動(いするぎ)長谷部(はせべ)も、言葉を発することができなかった。目の前の光景のあまりのおぞましさと、そして、それを命じたのが、まだ十にも満たぬ己の主君であるという、信じがたい現実に。  その、重い沈黙を破ったのは、暁斗の、子供とは思えぬほど低く、冷たい声だった。 「……長谷部」  彼は、燃え尽きた骸から視線を外さぬまま、静かに命じる。 「東の国境の警備を、今より倍にしろ。怪しまれぬよう、静かにだ」 「は……。はっ!」  長谷部は、即座に意図を理解できず、ただ反射的に応えるのが精一杯だった。 (なぜ、国内の謀反の鎮圧の直後に、国境の警備を?)  暁斗は、そんな家臣の戸惑いなど意にも介さず、続ける。 「石動」 「……はっ」 「東側の白鷺(しらさぎ)街道を塞げ。山間部を土砂崩れに見せかるのがよかろう。復旧準備を進めてもよいが、着工は可能な限り遅らせよ」  その言葉に、石動は息を呑んだ。  国境警備の強化。そして、主要街道の封鎖。それは、あまりにも的確な、来るべき戦への備えだった。 (なぜ) (なぜこの御方は、今この瞬間に、遥か東の国からの脅威を予見できるのか)  石動が驚愕に目を見開く先で、暁斗は、初めて、ゆっくりと顔を上げた。  その紫の玻璃の瞳が、朝焼けの光を受けて、妖しいまでに煌めく。 「結界が、揺らいでいるのだ。この謀反のせいで、結界の補強が間に合わない」  ぽつりと、暁斗は呟いた。 「……蟲どもが、来る」  その声には、何の感情もなかった。まるで、明日、雨が降ることを告げるように。  ただ、絶対的な事実として。 「叔父上を城に呼べ。(あやかし)への備えの相談をせねばならない」  そう告げると、暁斗は静かに立ち上がり、一度も、黒い骸を振り返ることなく、その場を去っていった。  残された老練な家臣二人は、夜明けの光の中、灰燼と、そして、底知れない畏怖と共に、ただ立ち尽くすしかなかった。  この日、神凪の国から、一人の心優しい少年が消えた。  そして、一人の冷徹な王が、産声を上げた。

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