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第16話

八月十七日。 城に連れ込まれた(じん)の意識が朦朧(もうろう)としていた頃。 朱鷺田(ときた)は、主君である暁斗(あきと)の私室に呼ばれた。伽羅(きゃら)()が静かに漂う、だだっ広い部屋。その最奥に置かれた寝台に、例の少年――岩田迅が、まだ痛々しい包帯姿で横たわっていた。 そして、その傍らに、暁斗は座っていた。 まるで、そこが玉座であるかのように。 朱鷺田は、礼を尽くして控える。 彼が、軍師として暁斗に仕え始めたのは、三年前。暁斗がまだ十二歳の時だった。石動たち譜代の家臣からは、没落貴族という、後ろ盾や身元の保証のない出自の不確かさから強い反対があったが、暁斗は、彼の怜悧な頭脳と、何にも縛られぬ自由な精神を見抜き、自らの判断で家臣団の末席に加えた。 朱鷺田の忠誠は、神凪家ではなく、暁斗という個人に捧げられている。そのことを、暁斗は誰よりも理解していた。 彼は、眠る迅から一度も視線を外さぬまま、静かに口を開いた。 「朱鷺田。そなたに、頼みがある」 「―――はっ。なんなりと」 この数日、暁斗は政務の最低限の裁可を除き、ほとんどの時間をこうして過ごしていた。筆頭家老である石動が苦言を呈しても、全く意に介さずに。その異常なまでの執着の理由を、朱鷺田は測りかねていた。 「岩田迅。……この者の、ここ七年のことを調べろ」 「……御意」 やはり来たか、と朱鷺田は内心で頷く。 「私が彼と会わなくなった七年前の正月から、今日までの全てをだ。どこで、誰と、何をしていたのか。些細なこと一つ、聞き漏らすな」 その声は、王の命令として、どこまでも冷静だった。 だが、その奥に、七年という空白を埋めたいと渇望する、一個人の切実な響きを朱鷺田は聞き逃さなかった。暁斗は、自らがつきっきりで看病しているため、自分で調べることができない。だから、最も信頼する腹心である自分に、その役目を託したのだ。 (これが、あなたの弱みか、それとも―――) 「調べ上げた内容は、すべて、私とそなたで共有する。石動たちには、まだ知らせるな」 「承知いたしました」 暁斗は、そこで初めて、眠る迅の銀髪を、そっと指で梳いた。 その仕草は、まるで壊れ物を扱うように、ひどく優しかった。 朱鷺田は、静かに一礼すると、部屋を退出した。 扉が閉まる直前、彼の目に映ったのは、眠る少年にだけ向けられた、王の、あまりにも柔らかで、そして底知れない独占欲を孕んだ横顔だった。 (哀れなものだ) 退出した自室で、朱鷺田は一人、先ほどの光景を反芻していた。 寝台に横たわる、痛々しい包帯姿の少年。謀反の炎に焼かれた、ただの街の子供。 御耀(みかが)が、過去の(えにし)を頼りに執着するのも、無理からぬことかもしれぬ。 (問題は、この少年ではない。―――あの御方だ) あれほどの理性の塊であった御方が、この少年ひとりのために、政務を滞らせ、石動殿の諫言にも耳を貸さない。 迅を失ったと思って一度は完全に断ち切ったはずの「情」というものが、これほどまでに、あの御方を揺るがすとは。 実に、厄介なものだ。 (この少年自身に罪はない。だが、その存在が、御耀の唯一にして最大の『瑕瑾(かきん)』となっている) 王の弱みは、国の弱み。 石動殿や長谷部殿は、この少年を危険視し、排除しようとするだろう。だが、御耀はこの少年にやけどを負わせた罪悪感からこのように連れ込んだのだ。今、この状態で引き離せばそれは火に油を注ぐだけだ。 今は、静観するしかない。嵐が過ぎるのを待つように。 この少年が回復し、御耀の熱が冷めたとき、どう処するのが最も得策か。 ……いずれにせよ、ただの年少の者だ。 扱いようは、いくらでもある。 朱鷺田は、そう結論付けた。 調査の結果が、その認識を根底から覆すものになるとも知らずに。 朱鷺田は涼しい顔をして、自分にあてがわれた東の間に足を進めるのだった。 天井が、崩れ落ちてくる。 俺は、燃え盛る(はり)の下で、女将(おかみ)を抱きかかえていた。熱い。焼ける匂いがする。でもそれは、俺の身体からではない。助けなければ。助けなければならない。そう思った、その時だった。 天井が、音を立てて落ちてきた。 俺はお蓮さんを抱えたまま背で天井を受けた。 でもそのときお蓮さんが俺をひっぱって転ばせた。 ああ、駄目だ。そんなのだめだ。 やり返そうとしたが、間に合わない。 俺は、何も、守れない。 お蓮さんを通して感じる焼けた屋根の重み。 無力感と絶望が、全身を飲み込む。 熱と煙に包まれ、俺の意識は、ぷつりと途切れた。 次に目が覚めた時、あたりは真っ暗で煌々と行燈に火が灯る部屋にいた。 誰かが俺の手をを腹をなでる。 そしてその次に、俺は柔らかな布団の上にいた。 今も、布団にいるようだ。 身体が重い。熱い。肩が燃えるように痛い。だけどそれは肩だけだ。 煙も煤の匂いも、背に受けたはずの燃えるような痛みも、屋根の重みも、お蓮さんの気配もない。 ぼんやりと目を開ける。 ぼやけた視界の中に、会いたくて何度も何度も思い出し、焦がれた顔があった。 その顔は、涙でぐしゃぐしゃだった。でも、俺を呼ぶその声は、確かに、あの鈴のような声だ。 「……暁斗(あきと)…?」 俺は、死んだのか。 ここは、天国なのか。 そうだ、天国だ。 そうでなければ、ここに暁斗がいるはずがない。 (でも……) (それじゃあ、暁斗も死んじまったってことか?) (そんなバカなことあってたまるか) そんなのだめだ。そんなの、絶対だめだ。 俺は、自分の命と引き換えに、暁斗が生きるのを見たかったのに。 いやだ。 俺は、がむしゃらに起き上がろうとした。 「…っ!」 全身に、焼けるような激痛が走る。声も出ない。喉から漏れたのは、ただの、情けないうめき声だった。 「迅! よかった…!」 暁斗が、俺の名を呼び、声を上げて泣きながら、俺の頬にそっと触れた。 彼の涙が、俺の火照った肌を冷やしていく。 その熱を持った(しずく)に、俺は、これは夢なのだと悟った。 (なんだ、そうか) (これは、夢か……) 少しだけ、安堵した。 目を瞑っているのか開いているのかがよくわからない。 めまいもする。 全身が暁斗の存在を感じてる。 でも、暁斗が俺を見ているのが見える。 (なんか、背が伸びたな…) 繰り返し思い出していたのは十歳の秋から冬にかけて一緒に過ごした時間ばかりだった。だから七年の時を経た暁斗の姿を夢で見たのは初めてだ。 (夢なのに、よくできてやがる…) そう思ったところで、俺の意識は、再び深い闇へと沈んでいった。 八月十九日。 主君の命を受け、朱鷺田が迅の身辺調査を命じてから、数日が経っていた。 彼は、封をされたままの報告書を携え、暁斗の私室へと進み出る。伽羅の香が静かに漂う部屋の最奥、天蓋付きの寝台に、神月迅がまだ静かな寝息を立てていた。 暁斗は、その傍らの椅子に座り、眠る迅から一度も視線を外さぬまま、静かに口を開いた。 「読め」 その一言だけだった。朱鷺田は恭しく封を解くと、乾いた紙の擦れる音を立てて、書状を広げる。そして、そこに記された事実を、淡々とした声で読み上げ始めた。 「―――岩田迅、またの名を甚八」 朱鷺田の声だけが、広い部屋に響く。 暁斗は、能面のような無表情で、ただ耳を傾けている。 「……十歳の師走下旬、市中の商家白銀屋(しろがねや)の長男貞勝(さだかつ)に半死半生の傷を負わせた罪により、刺青刑に処される」 その一文を読み上げた瞬間、朱鷺田は、己の声が僅かに揺らぐのを感じた。 (十歳。そんな歳で刺青刑?) (一体、何が……) 彼は、動揺を悟られぬよう、冷静に続ける。 「原因は、商家の三男坊が、城の若宮様が飽きて捨てたのだろうと、不敬にも嘲笑したため、と記録にあり」 そこから始まる数々の記録は、とても子供と呼べるものではなかった。 読み終えた後、部屋に、重い沈黙が落ちた。 (……なんだと?) 朱鷺田の脳裏で、読み上げた言葉が反響する。 (若宮様? 我が君のために?) (十歳の子供が、五つ年上の者を半殺しにし、その身に罪人の烙印を…?) (これは、忠義などという言葉で片付けられるものではない。狂信だ) (純粋で、危険な、狂信者…!) そこから裏社会に身を落とし、数々の犯罪と思しき事件への関与の噂も多く、一年前にはならず者を束ねて島を仕切るに至ったとある。 (危険すぎる) 朱鷺田が戦慄と共に隣を窺うと、暁斗は、やはり表情一つ変えずに座っていた。 しかし、その膝の上で、固く握られた拳が、白くなるほどに震えているのを、読者だけが見ている。 (――迅、お前が) 暁斗の心の中だけで、声なき声が響く。 (俺のために……刑を?) (俺が、お前に会うために城を抜け出す機会を狙っていたあの頃、そんな目に……) 脳裏に蘇るのは、九つになった年の、正月の記憶。 城を抜け出し、会いに行ったお蓮の店。迅がほぐしてくれた焼きたてのホッケ。そして、「怪我をした」と女将が言いながら、手ぬぐいにくるまれた、左手を大事そうに胸に当て、俺に「ありがとう」という言葉を教えた迅の、少し寂しそうな笑顔。 あの手ぬぐい下に隠されていたのは、ただの傷ではなかった。 (そうか、そうだったのか) (迅、あの時、お前はすでに刺青刑をうけたあとだったのだな……) (それを告げず、俺に、あのとき、笑顔だけをくれたんだな) 自分のために受けた、あまりにも痛々しい、忠誠の証だったのだ。 「……そうか」 やがて、暁斗は、ただそれだけを呟いた。 その声は、あまりに静かで、何の感情も含まれていないように聞こえた。 だが、その紫の玻璃の瞳の奥で、それまで燻っていた炎が、一瞬、星が爆ぜるように、激しく燃え上がったのを、朱鷺田は見逃さなかった。 「刺青刑の後、岩田家を追われ、裏社会の古参者に拾われる。以後、性別を問わず、身を売る『道具』としての生活を五年間継続。その間、自らを『道具』と割り切り、感情を排することで、その壮絶な境遇を生き抜いた」 報告書は、岩田(いわた) (じん)という少年の「裏切りの歴史」を詳らかにしていた。刑を受けた後、迅は生まれた「岩田」の家を飛び出し、「甚八(じんぱち)」という通り名で、朱鷺田の信じる「家」や「秩序」や「法」をことごとく裏切り、己の生存本能と欲望のみで生きてきた過去を記しているのだ。 (……下剋上により、猿飛衆というごろつきの頭領か。その魂の光彩(こうさい)と統率力は、並大抵ではあるまい。この才覚こそ、陛下が手放せぬ理由) 「理性」の仮面の下で、朱鷺田の瞳が鋭く光る。 王の行動は、論理的には「愛」ではなく「生存戦略」であると、彼は強引に結論付けた。 (王の『鍵』が、裏切りの歴史を持つ者に握られている。これは、国家存続に関わる、最大の『瑕瑾(かきん)』だ) 朱鷺田は、報告書を静かに懐に収めた。 (愛などという、曖昧な手段では、鍵は手に入らぬ。鍵を掌握するには、その過去を理で解剖し、論理的な隙を突く必要がある) (岩田迅。貴様の『生存本能』、『孤独』、そして『欲』。その全てを、この朱鷺田が、理性をもって解き明かしてやる。そして、陛下を統治する『鍵』として、私が管理する) 彼は、唇の端に、微かな笑みを浮かべた。それは、愛ではなく、勝利を確信した、冷たい軍師の笑みだった。

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