17 / 45
第17話
盟契
八月二十三日
ふ、と意識が浮上した。
ずっしりと重い瞼をこじ開けると、見慣れない天井がぼんやりと滲む。伽羅の香が静かに漂い、衣擦れの音だけがやけに大きく聞こえた。
「……気がついたか、迅」
すぐ傍から聞こえた声に視線を動かすと、そこに暁斗がいた。日に透けるような白い着物を纏い、ただ静かにこちらを見下ろしている。その玻璃の如き瞳は、安堵の色とも、何か別の烈しい感情ともつかぬ光を宿していた。
「あき…と……?」
掠れた声しか出ない。
「へへ、生きてるみてえだな…夢じゃなかった」
身体を起こそうとするが、ぴくりとも動かなかった。まるで自分のものではないような、奇妙な感覚。脳裏を焼けた梁の落ちる音と、熱風の記憶がよぎり、迅は喘いだ。
「う、ぁ……っ」
「動くな。まだ傷が深い」
そっと肩を押さえる暁斗の手はひやりと冷たい。だが、その手が触れた場所から、不思議と身体の強張りが和らいでいく。迅はされるがままに、再び枕へと頭を沈めた。
「俺は……。そうだ、火が……」
「お前は七日七夜、生死の境を彷徨った」
暁斗は淡々と告げる。
「だが、俺が繋ぎ止めた」
その言葉には、一切の揺らぎがなかった。まるで天地の理を覆すことすら当然であるかのように。迅は琥珀の瞳を瞬かせ、ただ目の前のうつくしい少年を見つめた。
迅は自分を道具だと思って生きる時間が長かった。
死んでも誰も悲しまないと思っていた。それなのに、この国の若き王は、自分のためにこれほどまでに心を砕いてくれたのか。
そう思うと、胸の奥から、じんわりと温かいものが込み上げてくる。
「……ありがとう、暁斗。お前はもう君主様なのに、俺みたいなもんのために」
「お前は『みたいなもん』ではない」
暁斗は迅の言葉を遮り、その頬にそっと手を添えた。
「お前は私の宝だ。……だが、迅。お前の命はまだ、嵐の中の灯火のように脆く、危うい。いつ消えてもおかしくはない」
真剣な眼差しに、迅は息を呑む。
「城下の火事は、あれは、俺が、父の妾だった女に情を出し石動のいう仕来りを無視させたことで、あの女が謀反を起こし、火を放ったのだ。あの火事でお蓮さんは、お前の母上は亡くなっていた。お前を救うのが精いっぱいだった」
「火を放ったやつが悪いんだ。お前のせいじゃねえ。お蓮さんだって、そういうだろう。それに、あの人は、俺の母親じゃねえよ」
「知っている。町のあちこちが焼かれて、石工の岩田の家も、家族は皆、火事で亡くなったそうだ。だが、俺はお蓮がお前の母親だったと、今でも思っている。そして、お前はあの大火で一人になってしまったんだ」
「……」
「すまない。……俺の情が、お前をこんな目に……」
彼は、心からの後悔を、言葉にしようとした。
しかし、迅は首を横に振った。
「違う……若様……あんたは悪くない。あんたが助けてくれたから、今、俺はここにいる。あんたのおかげだ」
そのまっすぐな言葉に、暁斗は涙が出そうになる。
この声を、その瞳を、迅という存在そのものを、自分がどれほど欲していたのか。また、ふたたび手放すなで、そんなことができるないことを、暁斗は思い知らされる。
迅に、話してしまおうと、暁斗が口を開こうとした。
その時、襖が静かに開いた。
「失礼いたします。午後のお薬をお持ちしました」
暁斗の侍祭、紅葉 が、薬湯の盆を手に、静かに部屋へ入ってきた。
暁斗は口をつぐみ、迅が薬を飲むために上半身を起こすのを手伝い、体を支える。
火傷は左肩から背中、大腿の裏にかけて、お蓮が庇いきれなかった左背面側の大きな範囲に及ぶ。ほぼ全身を白い帯で覆っているが、暁斗はなるべく右側に手を添えて迅の身体を支えた。
「午後のお薬のお時間でございます」
静かに迅の寝台の脇に薬湯の椀を差し出す。侍医が調合したという、焦げ茶色の液体は、鼻をつくほどの苦味を放っている。
「迅様、こちらを」
迅は、何も言わずに受け取り、けろっと一息に飲み干した。
紅葉 は無言でその様子を見ていた。迅は薬湯を飲み干すと、苦そうな匂いはしているのに、舌にはただ粉っぽい液体がふれ、のどを通って行っただけで温度と触感があるけだった。苦みも、甘みも、塩気も、何も感じない。
(……味が、ねえのか?)
(……熱のせい?)
迅が紅葉(かえで)の差し出す盆に椀を返す。紅葉 は、迅の表情を見て、ほんの一瞬だけ眉をひそめた。その目には、何かを察した者だけが持つ、静かな憂いが宿っていた。だが、何も言わなかった。
「……お口に合いましたか」
「ああ。……ありがとな」
迅は、笑ってみせた。 紅葉 は、深く頭を下げると、静かに部屋を辞した。その背中には、何かを抱え込んだ者だけが持つ、沈黙の重みがあった。
紅葉 の背が襖の向こうに消えたあとも、暁斗はじっと迅を見つめていた。
迅が何も言わず、笑って薬湯を飲み干したその姿に、暁斗は、言いようのない胸の痛みを覚えた。それは、迅が無理をしているように見えたからでも、何かを隠しているように感じたからでもない。ただ、暁斗自身が――まだ言えていないことを抱えたまま、迅の笑顔を見てしまったからだった。
(迅……お前のことは、俺が守る)
(早く……俺の傍に置きたい)
(石動の、あの頑なさは、道理だけでは決して動かせぬ)
(あの固い心を、屈服させる方法。 それは、もはや、一つしか残されていない)
かつて、孤独な日々に、母の秘密の書庫の奥で見つけ出した、禁忌の儀式。 言葉ではなく、この身で、肉で、血で、魂で、決して覆すことのできない「既成事実」を作るのだ。
彼は、その、あまりにも冷徹で、そして、あまりにも危険な決意を、その、菩薩のような顔の下に隠し、静かに、迅に語り始めた。
「迅」
暁斗は、静かに、しかし、真剣な声で語り始めた。
「俺はお前が欲しい」
暁斗が唐突に放った、しかし、真剣なその言葉に、迅は面食らった。
「俺は…、我は、お前を家臣にしようと思う。だから我の言葉をよく聞き、そのうえで、聞かせてくれ。お前の覚悟を」
紫水晶の瞳が迅を見下ろす。
迅はゆっくりうなずいた。暁斗の家臣となる。それは、甘い誘いだった。
「我は、神凪 の神子 だ。煌帝 と同じ神の血を継ぎ、神の氣 を纏 うもの。神氣 は、人の魂 の在り方を激しくする。お前の中に狂氣 の種があるのなら、それはより強くなってお前の心を狂わせるかもしれない。我の神氣 は強い。我に長く触れることで、お前の心は歪み、元に戻れなくなるかもしれない。だから、…この儀式も、お前の心を…狂わせるかもしれない」
暁斗は、懐から書物を取り出した。
「だが、ここに書き記された、盟約の儀式をすれば、お前は、俺……天瑞煌国 神凪領 を治める、神凪耀 から直接、神氣 を賜った特別な家臣『臣鬼 』となる。そうなれば、もう、誰も…お前を俺から引き離すことはできなくなる」
迅には、暁斗が言う『神氣 』がよくわからない。でも、呪いか何かのたぐいだと解釈した。
そして、懸命に説明する暁斗の瞳の奥にはっきりと燃え盛っている、暁斗の覚悟を、ただ見ていた。
「……お前は俺の傍にいたいか? たとえ狂鬼 と化したとしても、俺にお前のすべてを捧げ、俺とともに在ることを誓えるか?」
迅は、暁斗の言葉をすべて理解したわけではない。
でも、彼の瞳に宿る真剣な光と、その震える声を、すべて信じることにした。迅は彼が悟ったのはただ一つ。
(この人は…、暁斗は、俺を必要としてる…)
迅は、火傷の激しい痛みに耐えながら、笑顔を浮かべた。その笑顔は、かつて暁斗に「俺だけの宝物」と思わせた、あの輝きを宿していた。
「へへ……お前と共にいるためなら、どんな道だろうと…地獄の底だろうと、喜んで付き合ってやるよ、若様」
「もう若ではない。俺はこの国の王、神凪輝 となった。だが、お前は俺とふたりだけのとき、俺のことを暁斗と呼ぶのだ。よいな」
「……わかった、暁斗」
その言葉に、暁斗は涙を流した。しかし、それは悲しみの涙ではない。
それは、初めて、自分と宿命を共有してくれる相手を見つけた、安堵の涙だった。
そして、それは二人の間に、言葉ではない、絶対の信頼が、深く結ばれたと暁斗が信じた涙だった。
そして、彼は、覚悟を決めた。
「迅」
暁斗は、静かに、しかし、真剣な声で語り始めた。
「お前を、俺の、正式な家臣として、迎え入れる。だから、お前が回復し次第、儀式を行う。誰にも、覆すことのできない、絶対の盟約の儀を完成させる。よいか?」
迅 は、まだ熱のある頭で、その言葉の意味を、必死で理解しようとしていた。
(儀式……? 俺が、暁斗の、家臣…? 本当に?)
それはあまりに甘美な響きを持っていた。
その日一日を生きることに明け暮れた日々だった迅にとって、その言葉は陽光そのものだった。
なぜそこまで求めてくれるのかはわからない。
けれど、暁斗は迅を宝と呼んで、これほどまでに「必要」だと伝えられた。命の恩人である暁斗の役に立てるのなら理由などいらない。そう思った。
「……わかった。あんたがそう言うなら、俺は、何でもする」
「その言葉、しかと聞いたぞ。お前を俺の宝とする」
迅が頷くのを見て、暁斗の唇に、初めて微かな笑みが浮かんだ。それは、ようやく欲しかったものを手に入れた子供のような、純粋で、そして底知れない独占欲を孕んだ笑みだった。
ともだちにシェアしよう!

