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第18話

八月晦日。 新月の闇が、城を深い沈黙に包んでいた。 (じん)の傷は、この半月で奇跡的ともいえる回復を見せていた。暁斗(あきと)の神氣が注がれ続けた肉体は、もはや寝台に縛り付けられてはいない。だが、その心は、未だ癒えぬ傷と、先の見えぬ不安に縛られたままだった。 その夜、迅は暁斗の私室に呼ばれた。 いつもと違う、張り詰めた空気。焚かれた伽羅(きゃら)の香りが、やけに濃く感じられる。 暁斗は、寝台の前に迅を立たせると、静かに、しかし有無を言わさぬ響きで告げた。 「迅」 暁斗は、静かに、しかし、真剣な声で語り始めた。 「―――今宵(こよい)、儀式を()り行う」 その言葉に、迅は息を呑む。八月二十三日、まだ意識もはっきりしない中で交わした「盟約」。その仕上げだと、暁斗は言った。 「明日、お前は私の臣下として、家臣たちの前に立つ。だが、彼らはお前を認めないだろう。だからこそ、この儀式が必要だ。お前の魂に、私の神氣(かむけ)を直接刻みつけ、誰にも引き離せぬよう、完全に、俺のものとする」 その紫の玻璃(はり)の瞳は、狂おしいほどの独占欲に燃えていた。 迅は、ただ頷く。 「ああ。暁斗の傍にいるために、俺は何でもする」 命の恩人。自分を「宝」だと言ってくれた、唯一の主君。この人に求められるのなら、自分に否やはない。たとえ、それがどのような行為であっても。 暁斗は、迅の衣の帯に、そっと手をかけた。 びくり、と迅の肩が震える。火傷の痕がまだ生々しく残る肌が、夜の冷気に晒される。 「恐れるな」 暁斗の声は、囁くように甘い。 だが、それは慰めではなかった。逃れることを許さぬ、呪縛の響き。 暁斗は、迅をゆっくりと寝台に押し倒す。 (?!) 迅は驚いたが、暁斗がどうするのか黙って身を任せた。 迅の寝間着の合わせに、暁斗が手をかけた。 「……」 迅は厳しい視線をその手に送る。 暁斗は自分より少しだけ背の高い、しなやかな迅の身体の上に、迅よりも小柄な体を覆いかぶさるように重ねて、顔を寄せてきた。 「―――おい?」 たまらずに出た迅の声には、戸惑いの色が浮かんでいた。 暁斗の手が、包帯がない迅の右わき腹から腰を撫でる。 「…ちょっと、ちょっと待て。暁斗」 迅は、暁斗の肩を手を挙げて押さえた。 「なんで、こんなことすんだよ…?」 暁斗は、その、燃えるような瞳で、じっと、迅を見下ろしたまま、答えた。その声は、子供のそれではなく、冷徹な君主の響きを持っていた。 「言っただろう。お前を家臣にするためだ。だが、石動たちが反対している。だから俺は、誰もお前が俺のものだと否定できぬように、先に、お前と俺でこの儀式を済ませてしまう必要があるのだ」 暁斗が明言する。その必死さから、その言葉は嘘ではないと迅も思う。暁斗が言った通りなのだろう。 「それは、わかった。……、でも、その、儀式ってのは、つまり、……(ねんご)ろになるってことか?」 「そうだ。心配するな。迅は俺に任せればよい」 「待て、って」 「これは、お前を俺の臣鬼(しんき)にするためだ」 「ああ、わかった。これが、臣鬼(しんき)になるのに必要なのは、分かった」 「では、よいな」 「待て、待て、待てよ。だってなんでだ……?」 「なんでとはなんだ?」 迅は、言葉を詰まらせる。 「……なんで、その、お前と俺の、役割が、逆なんだよ」 それは、彼にとって、あまりにも当然の疑問だった。 男同士で肌を合わせる役割は、年長の者が下の者と、あるいは体や力の大きいほうが小さいほうを抱くもんだ。それが迅が生きてきた世界の常識で、その逆なんてありえない。 ほっそりとした菩薩みたいな暁斗と自分となら、迅が暁斗を抱く側だ。 「歳だって、俺のほうが上だ。身体も力も、俺のほうが大きい。俺が、抱かれる側だなんて、そんなみっともないまねできるかよ。懇ろになるってんなら、俺がお前を抱くほうだろう」 迅はそう主張した。 しかし、暁斗は、静かに、そして、きっぱりと、首を横に振った。 「それは違う。これは神氣(かむけ)を授ける儀式なのだ。迅を臣鬼にするには、お前が、俺の神氣(かむけ)を、その身で受け取らなければならない。それに、迅の理屈なら、俺が(あるじ)で迅が家臣なのだから、お前が俺を受けいれるんだ」 その、神の託宣(たくせん)のような、絶対的な言葉。 そして、彼は、続ける。その声には、僅かな、しかし、確かな、痛みの色が滲んでいた。 「……いやか?」 「い、いやかって……儀式がそんなことだったなんて、俺、聞いてねえし……」 迅は、悪態をつく。 王である暁斗のほうが迅よりも立場が強い。それは理解した。でも納得できていない。したくない。 暁斗は、静かに、しかし、容赦なく、その言葉を(さえぎ)った。 「この前もさっきも、『なんでもする』と、言ったではないか」 「……そりゃ、そうだが…お前は儀式としか言ってなかった。これは、こんなのは、騙し討ちだぞ……」 「俺は騙してない。説明もした。書物もみせた。お前は承知した。それに質問しなかったのは迅ではないか!」 「質問って、こんなことするなんて思わねえよ」 その、迅の、子供のような抵抗。 それを見て、暁斗は、初めて、ほんの少しだけ、その表情を緩めた。 そして、彼の、全ての理屈を、吹き飛ばす、たった一言を、告げるのだ。 それは、王の命令ではなく、ただの、一人の少年の、どうしようもない「本音」だった。 「――でも、俺は、迅と、こうしたい」 その、あまりにも真っ直ぐで、そして、あまりにも身勝手な、しかし、嘘のない言葉。 迅は、もう、何も言えなかった。 彼は、ただ、黙って、目の前の、この、あまりにも純粋で、そして、恐るべき神の子を、見つめていた。 その、凪(な)いだような表情の下で。 彼の魂は、最後の、そして、最も激しい戦いを、繰り広げていた。 (――どう考えても、役割が、逆だ…) 彼の、裏社会で、その身に刻み込まれた、絶対的な法則が、叫んでいた。 (男同士なら、強い方が、デカい方が、相手を、支配する。それが、この世の、決まりだろうが…) 彼の脳裏に、(よみがえ)る。 あの、地獄のような日々。 (……こいつと別れた後、散々、やらされてきた) (好きでもねえ、相手に、媚びを売っておべっか使って体をむさぼらせてきた。俺は春を売る相手を選べなかった。だから相手を選んで夢中にさせ、金を巻き上げてやった。そのあとも、結局は情報を得るため。舎弟(しゃてい)を守るため。自分の身体を、切り売りするしか、生きる(すべ)がなかった) (だから下剋上で頭の地位を奪ってやったんだ) (俺はもう、二度と、誰かの下に組み敷かれて、あんな、みっともない真似は、しないと、誓ったんだ……!) でも。 彼は、目の前の、暁斗の顔を見る。 その、紫の玻璃の瞳の奥に燃える、ただ、純粋なだけの、自分への「欲」。 そこには、あの、自分を「道具」としてしか見なかった、大人たちの、汚らわしい光は、なかった。 (……こいつは、違う) (こいつは、俺を、ただ、欲しがっている。他の、誰でもない、この、俺を) (…あの、爺どもとは、違う。こいつの、この、どうしようもない『欲』は、汚くねえ) (――ああ、もう、どうでもいい) (こいつが、そうしたい、って言うのなら) (俺の、こんな、汚れた身体で、こいつの、気が済むのなら) (――くれてやる) (そもそも、今更、かまととぶってなんになるんだ。俺に選択肢なんかねえ) 彼は、その、長かったはずの、魂の戦いに、ほんの数秒で、決着をつけた。 「……わかったよ」 彼は、観念(かんねん)したように、深く、息を吐いた。 「なんでも、するって、言っちまったしな、俺……」 迅は、静かに息を吐いて、そっと、その身体の力を抜いていく。 暁斗は、迅の顔を見つめながら、ゆっくりと、その唇を、重ねてきた。 重ねられた体の中心にある熱が、本当に熱を分け合うことを求めてることを知って、少し悲しかった。 (……でも、それは、当たり前だ) こいつだって川原で遊んだ頃の、あの清廉潔白な子供ではないのだと迅は理解して、その事実を受け入れた。 それは、これから始まる、あまりにも歪で、しかし、二人にとっては、絶対的な、最初の「契約」の、始まりだった。 (――ああ、変な気分だ) (まさか、あの天人を相手にこんなことになるなんて……、考えたこともなかった) (しかも、こいつに俺が体を開くだなんて……) 与えられるぬくもりが、迅を傷つけまいとするかのようにそっとなでていくのを感じながら、迅は静かに愛撫を受け入れる。 (でも、いいぜ。言ったからには耐えてやる) (あの、心を殺す、時間を、耐え抜いてやる…) 迅は、そう、覚悟した。しかし―― (……?) (……なんだ、か、?) (……こいつって、) (……へたくそ、か…?) 口吸いの唇の、角度も、息の、仕方も、何もかもが、ぎこちない。 ただ、必死なだけの、不慣れな口づけ。 迅の身体を、なぞる、その指先も、どこか、おそるおそるで、震えている。 瞳を開けたら目が合った。 恐々と迅を覗き込んでくる暁斗の目は機嫌を伺うような心配げな緊張があった。 (なんだ、そうか、暁斗、お前は……) 迅が笑いかけてやると、やっと緊張が解けたのか、目元がほころんだ。 (お前は、清らかだったんだな) (それを、……俺のために、穢れてくれようってんだな) (……この国を統べる君主様で、あれだけ、偉そうに、してたってのに……なんて初々しいんだろう) (俺は、今まで道具としてしか、受け入れたことなどなかった。感情なんて、誰からも欲しいなんて思わなかった) (なのに、この清らかな光は、俺だけを、こんなにも、必死で、不器用に、欲しがっている) (お前は俺を『宝』だなんて言ってくれた) (そうだ。こんな俺でも、この世界で、こいつにとってだけは―――誰にも代えられない『宝』なんだな) 初めて、誰かに「大切にされる」という実感が、身体の芯から迅の魂を震わせた。 その瞬間、彼の心から、長年まとっていた「道具」という鎧が、剥がれ落ちた。 愛でられることの歓喜が、自己卑下と過去の心の傷の全てを上書きしていく。 右手を伸ばして暁斗の頬を撫でてやると、迅の手にすがるようにしてほおずりしてくる。 「暁斗がやりたいようにしていい。お前は、俺になにしてもいいよ」 「迅。迅、俺…」 迅は、その、あまりにも純粋で、そして、必死な様に、思わず、笑いがこみ上げてくるのを、必死で、こらえていた。 そして、彼は、初めて、悟ったのかもしれない。 (――ああ、こいつは、ただ…) (必死なんだ) (俺なんかに、こんなに一生懸命で……) (こんなの―――なんでも許してやりたくなる、じゃねえか) (肌を重ねる相手をこんな風に思うなんて、……初めてだ) その、たった一つの、あまりにも単純な「真実」。 それが、迅の、その、固く、閉ざされていたはずの心の扉を、いとも容易く、こじ開けてしまった。 彼は、火傷の痛みに耐えながら、その、不器用な神の子の、初めての愛情表現を、ただ、静かに、そして、どこまでも、愛おしく、受け止めるのだった。

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