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第19話
その日の評定の間は、嵐の前の静けさに、満ちていた。
玉座の脇に控える迅の心は、不思議な高揚感と、そして、かすかな連帯感に満ちていた。
彼は、まだ、信じ込んでいたのだ。
自分が、昨夜、暁斗 と交わした、あの、あまりにも親密な儀式は、神凪家 の、特別な家臣となるための、正式な作法なのだ、と。
(……石動 の爺 も、昔、先代と、同じようなことをしたのだろうか)
そう思うと、あの、忌 まわしいはずの筆頭家老にすら、ほんの僅かな、仲間意識のようなものを、感じていた。
玉座に座る、若き城主・暁斗が、静かに、口を開いた。
「―――岩田迅を、我が、正式な家臣として、懐刀 とする」
その、あまりにも唐突な宣言に、場が、凍りついた。
最初に、その沈黙を破ったのは、やはり、石動 だった。
「若様! ご冗談を! あの岩田の小僧は、罪人の烙印 を押された、元チンピラの頭目 ! そのような者を、御側 に置くなど、神凪家 の名折 にございます!」
その言葉を皮切りに、長谷部 や、朝倉 からも、次々と、反対の声が上がる。
「なりませぬ!」
「お考え直しを!」
しかし、暁斗は、その、嵐のような反対の声を、ただ、静かな瞳で、見つめているだけだった。
(―――来るぞ)
迅は、心の中で、身構えた。
(今だ、暁斗。あの儀式のことを、皆に、宣言してやれ)
暁斗は、ゆっくりと、しかし、その場の全ての音を、支配するような、声で、言った。
「…石動。考え直しなど、もはやその段階ではない」
「…は?」
暁斗は、静かに、立ち上がった。
そして、その場の、全ての家臣を見渡し、宣告する。
「―――盟約の儀式は、もう、済んだ」
その、たった一言が、雷鳴のように、評定の間に響き渡った。 石動の顔から、血の気が引いていく。
「…まさか、若…。古式に則 った、『血の盃 』を、すでに…」
その、石動の言葉。
それを聞いた瞬間、迅の、心臓が、凍りついた。
(―――血の、盃…?)
(なんだ、それは。俺が、昨夜、受けたものとは、違う…)
その、混乱の極みにある迅の耳に、暁斗の、あまりにも無邪気で、そして、誇らしげな言葉が、突き刺さる。
「違う」
暁斗は、きっぱりと言い放った。
「迅は、特別だ。彼と我が交わすのは、血ではない。魂だ」
「―――昨夜、我は、我が身の、その魂の全てをもって、彼と、直接、交わった」
それは、あまりにも衝撃的で、そして、背徳的な告白だった。
暁斗 の、その、あまりにも衝撃的な告白。 その言葉を最後に、評定の間は、墓所のような、完璧な沈黙に、支配された。 誰もが、うつむき、言葉を失っている。
しかし、その沈黙の中、三人の男の魂だけが、激しく、動いていた。
石動の口から、声にならない、呻 きが漏れる。
評定の間の空気が凍り付いている。
迅は、その瞬間、全てを、理解してしまった。
―――ああ、そうか。昨日のあれは、俺だけだったのか。
彼は、ゆっくりと、周りを見渡した。
石動、長谷部 、朝倉 …。
全ての、譜代の家臣たちが、自分を、信じられないという目で、汚らわしいものを見る目で、そして、侮蔑 に満ちた目で、見ている。
(―――さらし者、ってわけか)
一瞬、彼の心に、屈辱の炎が、燃え盛った。
しかし、次の瞬間。彼の脳裏に、昨夜の、あの光景が、鮮烈に蘇 る。
あの、王の仮面をかなぐり捨てた、ただの、不器用で、必死な、子供のような暁斗の姿。
迅の口元に、ふっと、誰にも、その意味が分からない、絶対的な、そして、どこまでも優しい、笑みが浮かんだ。
(―――なるほど)
(あいつは、俺を晒そうと思ったわけじゃない。ただ、誇らしかっただけだ。俺と『交わった』ことを)
(だとしたら、俺を辱めているのは、あいつじゃない。こいつらだ)
彼の、全ての屈辱は、その瞬間、究極の「優越感」へと、変わっていった。
(哀れな、奴らだ。こいつらは、誰も、知らないのだな)
(若の、あの、気高く、そして、孤独な仮面の下にある、本当の、そして、あまりにも、『かわいい』素顔を)
(―――あれを、知っているのは、この世で、俺だけだ)
彼は、もはや、家臣たちの、侮蔑の視線など、気にもならなかった。 彼は、その視線を、まるで、王が、物乞いを見るかのような、憐 れみの目で見返してやった。
石動は、その顔を、ゆっくりと、上げた。
その、能面のような仮面は、すでに、剥 がれ落ちていた。
彼の顔に浮かんでいたのは、もはや、怒りですらない。
それは、「嫉妬」と「憎悪」と、そして、心の内より沸きあがってくるどうしようもない怒張の熱が、ぐちゃぐちゃに混ざり合った、まさしく、鬼の形相だった。
その、血走った目が、真っ直ぐに、まだ、玉座の脇に、静かにひざまずいている、迅を、射抜く。
その目線は、もはや、言葉を発してはいなかった。
それは、ただ、純粋な、そして、絶対的な「殺意」そのものだった。
(―――許さぬ)
(あの、我が君を、誑 かした、穢 らわしい、妖 めが)
(この、わしだけの、神聖な庭を、荒らした、罪。その身をもって、償 わせてくれる…!)
暁斗は、その、石動の、恐るべき形相には、気づいていない。
彼の、その、紫水晶の瞳は、ただ、ひたすらに、目の前で、自分にひざまずく、たった一人の男――迅――にだけ、注がれていたからだ。
彼は、自らの、その、あまりにも大きな「勝利」に、酔いしれていた。
迅は、石動の方を見てはいなかった。
しかし、彼は、その背中に、まるで、氷の刃 を、突き立てられたかのような、絶対的な「殺意」を、感じていた。
彼の、その、獣のような勘が、告げていたのだ。
(―――あの爺(じじい)。今、俺を、殺そうとしたな)
しかし、今の彼に、もはや、恐怖はなかった。
むしろ、その、分かりやすい殺意が、心地よいとすら、感じていた。
なぜなら、それは、自分が、暁斗にとって、それほどまでに、「特別」な存在であることの、何よりの証明だったのだから。
朱鷺田 は、見ていた。
その、あまりにも人間的で、そして、あまりにも、危険な、石動の、魂の剥き出しの姿。
それを、ただ一人、冷静に、そして、完璧に、観察していたのが、朱鷺田だった。
(―――石動殿のあの形相は……)
(そういうことか)
彼は、その瞬間に、石動の、迅への、その、常軌を逸した執着の、本当の「正体」を、見抜いてしまった。
そして、彼は、理解したのだ。
(この二人は、いずれ、必ず、喰 らい合う。そして、その時こそ…)
彼は、その、新しい情報を、自らの、恐るべき計略の、最も重要なピースとして、その、怜悧 な頭脳の中に、静かに、収めた。
暁斗は、その、完全に沈黙した家臣たちを、見下ろした。
そして、王として、その、絶対的な決定を、告げる。
「迅は、もはや、ただの罪人ではない。この我の、神氣(しんき)を、その身に受け継いだ、我の半身だ」
「この男を否定することは、我自身を、そして、神凪家の血そのものを、否定することと、同じであると知れ」
そして、彼は、最後の、そして、最も神聖な「宣言」を、付け加えた。
「―――よって、『岩田』の姓は、今日、この時をもって、廃名とし、それをもって彼奴 は、その過去に縛られぬ。これからは我が半身として、新しい名を名乗るであろう」
暁斗は、そこで、一度、言葉を切り、部屋の隅で、静かに自分を見つめている迅へと、その視線を向けた。
その瞳には、絶対的な、そして、どうしようもないほどの、独占欲が、宿っていた。
「…その名は、『神月 』」
「神の子である、この俺、の対つなる、月」
「―――神月 迅 であると、心得よ」
そして、最後の一言。
「―――異論は、認めぬ」
その、あまりにも美しい、命名の儀式に、その場は、嵐のようなどよめきに包まれた。
譜代の重臣である石動は、その皺の深い顔に、分かりやすい怒りと、そして、それ以上に深い警戒の色を浮かべた。手に刺青まである裏社会のゴロツキ風情が、「神月 」の姓を名乗る。それは、彼にとって許しがたい屈辱だった。
その隣で、朱鷺田は、冷静さを保ちながらも、その瞳の奥に、嫉妬という、彼らしくない感情を灯していた。自身が血の盃を交わすまでに費やした長い年月。譜代の家臣たちからの強い反対を乗り越え、多大な貢献を示してきた努力の結晶。その、主君からの特別な承認を、この出自不明の若造が、たった一夜で手に入れたのだ。
迅は、その家臣団の視線を一身に浴びた。彼らにとって、自分は「主の寵愛を受けた、出所の知れない寵童 」でしかない。その蔑みと、警戒の眼差しを、迅は全身で受け止め、心の中で毒を吐いた。
その時、迅の視線が、ふと、朱鷺田の顔に留まった。
(……この、顔)
雷に打たれたような、瞬間的な、感情の爆発が、迅の胸を貫いた。 顔の輪郭、知的な目の奥に潜む冷酷さ。それは、かつて自分を裏切り、売り飛ばそうとした、あの男――実の父に、よく似ていた。 迅の、心の奥底に抑圧していたはずの記憶と憎悪が、理性を飛び越えて、沸騰し始める。
この空気の悪化を敏感に察知した朱鷺田は、すぐに前に進み出た。
「陛下。この者の素性、武術は承知しておりますが、この重要な時期に、いきなり重職を担わせるのはいささか早計かと。まずは、家臣団から指南役をつけ、礼節と規範を教え込むのが宜しいかと」
一見、最も合理的で、穏便な提案。しかし、それは暁斗と迅を離間させるための、朱鷺田の最初で最後の試みだった。
朱鷺田の言葉を聞き終える前に、迅が爆発した。
「誰が、お前なんかに、そんなこと指図されなきゃなんねえんだ? そもそも、なんでお前がここにいるんだ、この野郎」
家臣団の空気が、一気に凍りつく。それは、主君の前での、あまりにも露骨な、家臣への反抗だった。
この好機を逃すまいと、石動が、待ってましたとばかりに一歩前に出る。
「我が君! 朱鷺田殿の言う通りでございます。この無法者には、厳格な規範が必要!この石動が、指南役を名乗り出ます」
石動の、迅を自らの監視下に置こうという魂胆は明らかだった。しかし、この石動の提案に乗れば、朱鷺田の面目は丸潰れになる。
暁斗は、朱鷺田への配慮と、石動への警戒から、別の答えを選んだ。
「…指南役の提言は朱鷺田の言う通りだが、石動には別の重責を担ってもらう。朝倉(あさくら)、そなたに頼む」
朝倉の名が呼ばれ、その場はひとまず表面上の収拾を見た。 しかし、迅の全身からは、未だ怒りの火花が散っているようだった。彼は、侮蔑と好奇と嫉妬が入り混じった家臣たちの視線に晒されながら、ギリ、と奥歯を噛みしめる。朱鷺田への憎悪、石動への警戒、そして、この息の詰まるような空気。その全てが、彼の限界を超えさせていた。
「……御耀、すまねぇ。具合が悪い」
迅は、もはや礼儀を取り繕う気力もなく、それだけ言い捨てると、まるでその場の空気に耐えられないかのように、誰の許可も待たずに、評定の間を飛び出した。 その背中には、有無を言わせぬ拒絶の意思が満ちていた。
顔色も紙のように白く誰も咎める者はいなかった。
後に残されたのは、重苦しい沈黙と、それぞれの胸に秘められた、複雑な思惑だけだった。 暁斗は、玉座から、迅が消えた扉を、ただ静かに見つめていた。その瞳の奥の色は、誰にも読み取らせなかった。 嵐は、まだ始まったばかりだった。
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