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第21話

 評定の間の翌日。  暁斗の私室とは別に迅にあてがわれた部屋は、武骨な城の中では陽当たりが良く、上等な調度品が揃えられていた。その一室で、迅と朝倉は向かい合っていた。 暁斗がいるこの城は神凪宗家、ほかに神凪分家が四家あり、朱家が神事を、玄家が内政の裁定を、蒼家が軍事を、翠家が財務と外交をそれぞれ担っている。 神凪家は、その昔、都よりこの地の大蛇退治を命ぜられし皇子が、見事大蛇を討ち取ってそのまま神凪の名を頂戴して治め始めたのが最初。 初代煌帝(きらめきのおおきみ)からの分家である……云々 「―――以上が、神凪家の成り立ちと、宗家、そして我ら分家の役割である。まずはこれを頭に叩き込むように」  分厚い書巻を広げ、朝倉は淡々と説明を終える。その口調は、昨日の評定で垣間見せた人の良さそうな雰囲気とは違い、内政官らしい四角四面なものだった。 迅は肘をつき、退屈そうな顔でその長々とした説明を聞いていた。朝倉がようやく神凪家の歴史に関する書巻を閉じ、ほっとしたのも束の間、今度は別の、さらに分厚い書巻を開いて言った。 「……さて、次は主君への拝謁の作法です。まず姿勢を正し、礼をするとき頭の角度はこのように――」 「あー、もう、つまんねえ!」 突然、椅子を蹴るような音と共に、迅の声が響いた。朝倉は、持っていた書物を落としそうになりながら、驚いて顔を上げる。 「……何かな、神月殿。今、重要な説明を…」 「だから、つまんねえって言ってんだよ!」 言うが早いか、迅は椅子から立ち上がり、大きな欠伸をしながら部屋の出口へと歩き出す。さすがの朝倉も、眉間に深い皺を寄せ、声を荒らげた。 「待ちなさい、神月殿! まだ指南の途中だ! 御君より、そなたへの指南を仰せつかった身として、このような勝手は許されん!」 「へいへい。アンタが真面目なのはわかったよ」 迅は振り返ると、悪びれもせずににやりと笑った。その顔には「説教など聞く気はない」と書いてある。 「でもよ、こんな古臭い決まり事、覚えて何になるんだ? 足の運び方だの、頭の角度だの、そんなもんが戦場で役に立つのかよ?」 「……戦場では、役に立たぬかもしれん」 朝倉は冷静に、しかし語気を強めて反論する。 「しかし、あなたは神凪輝(かんなぎのきみ)の懐刀となられたのだ。その立ち居振る舞い一つが、御君(みきみ)の威光に関わる。その威光が、戦わずして敵を屈服させる力となることを、ゆめゆめお忘れなさるな!」 「威光、ねぇ」 迅は、面白そうにその言葉を繰り返すと、悪戯っぽく目を細めた。 「だったらさ、俺が一人でこのだだっ広い城をふらついて、迷子にでもなってさ。それこそ『やんごとない』部屋――例えば、暁斗の寝所とか?――にでも迷い込んだら、どうなる?」 朝倉の顔から、さっと血の気が引いた。 「そしたら、あんたの言う『威光』とやらも、台無しじゃねえか? 侵入者一人止められない家臣団だって、笑いものだ。…そうなったら、指南役のあんただって、まずいだろ?」 それは子供の我儘のようでいて、的確に相手の弱みと、主君の逆鱗に触れかねない点を突く、狡猾な脅しだった。朝倉はこめかみを押さえ、深く、深いため息をついた。 「……よろしい。では、今日の指南は、城内の案内といたしましょう」 「おっ、話がわかるじゃねえか」 「ただし!」 朝倉は、迅の軽口を遮るように、鋭く言い放った。 「案内するのは、あくまで公的な場所のみ。そして、私の許可なく勝手な行動は絶対に慎んでいただきたい。よろしいな?」 「へーへー、わーったよ。堅物」 迅はつまらなそうに肩をすくめたが、とりあえず要求が通ったことに満足したのか、素直に頷いた。 朝倉は、その返事を聞きながら、この少年を預かった初日にして、胃の腑がずしりと重くなるのを感じていた。これは、一筋縄ではいかない。とんでもない厄介事を背負い込んでしまった、と。  結局、迅の要求を呑む形で、城の案内が始まった。  最初こそ不承不承だった朝倉だが、迅が城の構造や警備の配置について、時折鋭い質問を投げてくることに少し感心する。 「腹へったな。なあ、(くりや)はどっちだ?」  やがて、二人は城の台所へと足を踏み入れた。途端に、湯気と香ばしい匂いが二人を包む。そこは活気に満ちた、城の心臓部だった。  すると、さっきまでのふてぶてしさはどこへやら、迅は目を輝かせ、人懐こい笑みを浮かべて調理人たちに話しかけ始めた。 「すげえな! いい匂いだ! おいちゃん、それ何作ってんだ?」  街の少年そのものの屈託のなさに、最初は訝しんでいた調理場の人間たちも、すぐに心を許していく。その手管に、朝倉は目を白黒させた。  やがて、迅は大きな壺を見つけ、料理長にねだった。 「なあ、これ、梅干しか? 俺、好きなんだよ。一つくんねえ?」 「坊主、こいつは特別製で、そんじょそこらのもんとは比べもんにならねえほど酸っぺえぞ。腰抜かすなよ」 「へーきへーき!」  からかうような料理長の言葉に、迅は嬉々として大粒の梅干しを受け取り、ぱくりと口に放り込んだ。  朝倉は、その様子を見ていた。  刹那。  梅干しが舌に触れた、ほんの一瞬。迅の琥珀の瞳を、深い空虚と、失望にも似た仄暗い光がよぎったのを、朝倉は見逃さなかった。  それはすぐに、少年らしい大げさな仕草に塗り替えられる。 「んんっ! すっっっぺえええええ!!」  顔をくしゃくしゃにして叫ぶ迅の姿に、調理場の皆がどっと笑う。迅もまた、楽しそうに笑っていた。  だが朝倉は、先ほどの一瞬の違和感が、胸に小さな棘のように引っかかっていた。 (……今の、は)  台所を後にし、城の案内は上階へと続く。  天守へと続く長い渡り廊下は、風が吹き抜け、神凪の領地を一望できた。 「気持ちいいな、ここ」  柵に寄りかかり、迅が遠くを眺めている。朝倉もその隣に立ち、穏やかに言った。 「ここから見る景色は、御君のお気に入りだ。東の山々、その向こうには海が……」 .説明をしていた朝倉は、迅が自分の話を聞いていないことに気づいた。迅は、東の国の国境となっている山脈の一点を、じっと見つめている。その目に、先ほどまでの快活さはない。 「おい、朝倉」 「……何かな」 「あれ、なんだよ」  迅が、細い指で真っ直ぐに指し示す。  朝倉は目を凝らした。迅が指す、遥か彼方。青い空と、緑の山々の境。  そこに、糸のように細く、しかし真っ直ぐに立ち上る、一本の黒い線が見えた。 「……狼煙?」  朝倉は呟いた。  それは、平時の連絡に使うものではない。色、そして立ち上る場所。  あの狼煙が意味するものは、一つしかなかった。  国境に、敵―――。  朝倉の背筋を、冷たい汗が伝った。  その時、まるで最初からそこにいたかのように、静かな声が背後から響いた。 「……来たか」  振り返ると、暁斗が立っていた。いつからそこにいたのか、全く気配を感じさせなかった。その紫の玻璃のような瞳は、二人と同じく、遥か東の狼煙を静かに見据えている。 「我が君!」  朝倉が慌てて跪こうとするのを、暁斗は視線だけで制した。 「朝倉、朱家には戦勝の祈祷を、玄家と蒼家には出兵の準備を、翠家には神凪家の神子を連れて都に逃れるための準備と、兵糧を集めさせろ。連絡を終えたら評定の間だ。家臣を集めろ」 「は、はい! ただちに!」  王の有無を言わさぬ声に、朝倉は一礼すると、急ぎ足でその場を去っていった。  風の音だけが吹き抜ける渡り廊下に、二人きりが残される。  暁斗は狼煙から目を離さぬまま、隣に立つ迅へと静かに告げた。 「……迅。俺は、覇道を極めて煌帝(きらめきのおおきみ)になる」  それは、唐突で、あまりにも巨大な野望の告白だった。  だが、迅は驚きもせず、ただ静かに、そのうつくしい横顔を見つめた。謀反の後、この少年が頻繁に何者かの魂氣を払っていたことを、迅は知っている。朽木が、この国が、このままでは終わらないことを、予感していた。 「そうか」  まるで明日の天気を話すような、軽やかで、しかし絶対的な信頼のこもった返事だった。 「……それじゃあ、俺が暁斗を煌帝(こうてい)にしてやるよ」  その言葉に、暁斗は初めて、心の底から安堵したような、微かな笑みを浮かべた。  迅には見えない、その紫の瞳の奥で、烈しい決意の炎が燃え盛る。  ―――煌帝になる。  朽木を討ち、国を平らげ、全ての敵を排除する。  そうしなければ、この腕の中にある宝物と、ただ穏やかに暮らすことすら叶わない。  この地獄を終わらせるために、俺は、鬼にも、神にもなろう。  暁斗は迅に向き直り、その手を取った。まだ傷の痕が残る、骨張った手。二度と離さぬと誓った、温もり。 「ああ。……そしてお前は、私の剣だ。誰にも渡さぬ、私だけのな」  それは、王の宣言であり、恋人への誓いであり、そして、逃れられぬ運命の始まりだった。

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