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第22話

警鐘(けいしょう)が、狂ったように鳴り響く中、白鷺城(しらさぎじょう)評定(ひょうじょう)の間には、全ての家臣たちが、(よろい)()れる音をさせながら、駆け込んでくる。 その顔には、一様に、混乱と、信じられないという、恐怖の色が浮かんでいた。 「敵は、どこから来たのだ!」 「数は! 旗印は、分からぬのか!」 怒号と、問いかけが、飛び交う。 その、混乱の、ただ中に。 玉座に座る、若き城主・神凪(かんなぎ)暁斗(あきと)だけが、まるで、嵐の中の灯台のように、静まり返っていた。 そして、その、玉座の、斜め後ろ。 家臣たちが座る、どの席よりも、一段、高く。しかし、誰の視線からも、巧妙に外れる、その影の中。 神月(みかげ)(じん)は、壁に寄りかかるように、ただ、静かに、立っていた。 彼の、その琥珀(こはく)色の瞳だけが、この、地獄の(かま)の底のような部屋の中の、全ての人間を、値踏(ねぶ)みするように、観察していた。 (…一番、偉そうなのが、あの爺さんか…) 彼の視線が、暁斗の、最も近くに座る、石動(いするぎ)(とら)える。 (そして、あの、涼しい顔した狐が、仕切ってやがる…) 迅の視線が、朱鷺田(ときた)へと移る。 「―――お静まりくだされ! 皆様方!」 その、張り詰めた空気を、切り裂いたのは、朱鷺田の、冷静で、しかし、よく通る声だった。 彼は、まず、暁斗の前に、深々とひざまずくと、その、許しを得てから、立ち上がった。 (…こいつが、一番、厄介だな) 迅は、心の中で、結論づけた。 朱鷺田は、混乱する家臣たちを、その、理知的な瞳で見渡した。 「慌てては、事を仕損(しそん)じまする。まず、我らが、知るべきは、三つ」 彼は、指を、一本、立てた。 「―――第一に、その軍が、どこの軍なのか」 「―――第二に、その軍が、なにをしに来たのか」 そして、最後の、三本目の指。 「―――そして、第三に、我らが、本当に、標的なのかどうか」 その、あまりにも冷静で、的確な状況分析。 家臣たちの、熱狂した頭が、少しずつ、冷やされていく。 しかし、評定の間は、鉄と墨の匂いで満ちていた。  狼煙が上がってから、丸一日。家臣団は不眠不休で軍議を続けているが、議論は堂々巡りを繰り返していた。 「―――やはり、敵本隊は白鷺(しらさぎ)街道を進軍してくるはず。ここに全兵力を集中させ、迎え撃つべきかと!」 「いや、それでは間道を使われた際に側面を突かれる! 半数を犬吠(いぬぼえ)峠に割くべきだ!」  巨大な地図を前に、宿老たちが声を荒げる。  迅は、末席に置かれた椅子から、黙ってその光景を眺めていた。傍付きとはいえ、何の役目も持たぬ彼に、発言権はない。 (……分かってはいる)  迅とて、彼らが街道にこだわる理由は理解していた。二万という大軍を動かし、食料や武具を運ぶには、広く整備された街道が不可欠だ。机上の理屈としては、彼らの議論は決して間違ってはいない。敵の本隊は、間違いなくその道を通る。  だが。  迅の胸の内では、理屈では説明のつかない焦燥感が、黒い染みのように広がっていた。  このままでは、駄目だ。  何か、致命的なことを見落としている。そんな焦りだけが、肌を粟立たせる。  視線を、再び地図へと落とす。  街道を示す太い線、城や砦を示す駒。家臣たちの指がなぞるのは、常にその上だけだ。  しかし、迅の目には、別の場所が映っていた。  まるで、そこだけが淡く光を放つかのように、意識に飛び込んでくる。  名もなき集落。忘れ去られた古道。誰も気にも留めない、深い森。  思考ではない。彼の内に宿る「太陽の息吹」が、敵の放つ魂氣の澱みを無意識に感じ取り、叫んでいるのだ。  ―――本当に危険なのは、そっちだ、と。  軍議は二日目に入っても、昨日と寸分違わぬ内容で空転していた。 (……埒が明かねえ)  迅は静かに席を立った。相手に聞かなければ分からないことを、こちら側だけでああでもないこうでもないと話し合っていても、答えなど出るはずがない。  迅は誰にも気づかれぬよう城を抜け出した。  雨が降っていた。  迅が向かったのは、焼け落ちた城下の町。かつて、お蓮の店があった場所だった。  黒く炭化した柱が、墓標のように、夜空へと突き出ている。 彼は、瓦礫(がれき)の山を、慣れた様子で()き分け、厨房(ちゅうぼう)の奥、かつて(かまど)があった場所の、一枚だけ色の違う敷石に、指をかける。 そこには、お蓮が、万が一のために隠していた、小さな木箱があった。 中には、数本の、硝子(ガラス)の小瓶。無味無臭の、速効性の毒。 女将が、自らの身を守るために持っていた、最後の(きば)。 (お蓮さん、あんたが用意してくれたこのお守りが、俺を今日まで生かしてくれた) (このお守りを、俺と暁斗のお守りとして継がしてもらう) (これがこうして残ってて、俺が欲しいと思ったらすぐに見つかったってことは、あんたが俺にそうして欲しいってことだよな) (あんたを一人で逝かせちまったことは、いつかそっちにいったときに詫びる) (だから、これをもう貸しといてくれ) 迅は、その小瓶を、静かに手に取った。その冷たい感触が、彼に、思い出させる。 これは、子供の喧嘩(けんか)ではない。本物の、殺し合いだ、と。 彼は、静かに小瓶を二つとも懐にしまうと、一度だけ、空を見上げた。雨が降る暗闇。月は、見えない。 その、まさにその時だった。 背後の、瓦礫の山から、がさり、と、音がした。 迅は、弾かれたように、振り返り、その腰の刀に、手をかける。 「―――迅!」 闇の中から現れたのは、泥と、(すす)にまみれた、一人の若者だった。 小雀(こがら)だった。 彼の、その、常に冷静だったはずの顔は、今は、安堵(あんど)と、信じられないという喜びで、ぐちゃぐちゃに(ゆが)んでいた。 「無事だったぼか…! 迅、俺は、てっきり、お前まであの火事で…!」 その、あまりにも人間的な、魂からの叫び。 迅は、その、忠実なる「影」の、初めて見る、その姿に、ほんの少しだけ、驚いたような顔をした。 そして、彼は、ふっと、その口元に、いつもの、不遜(ふそん)な笑みを、浮かべた。 「…おう。ちっとばかし、野暮用(やぼよう)で、城に呼ばれてただけだ」 彼は、そう言うと、小雀の肩を、強く、叩いた。 「それより、小雀。戦だ」 その、一瞬にして、「(かしら)」の顔へと戻った親友の姿に、小雀もまた、即座に、その表情を引き締める。 「あの警鐘を聞いただろ? デカいのがくるぞ。兵が国を囲んでる。俺たちの街を守るために、戦をするぞ」  その言葉に、小雀の目の色が変わった。 「若(暁斗)は、戦うと、決めた。俺は、若と共に、今夜、奇襲をかけるつもりだ。この国を、守るためにな」 「……おう。で、俺は何をすりゃいい」 「お前は、今すぐ、俺たちの『家』へ行け。そして、生き残った、猿飛衆(さるとびしゅう)を、叩き起こせ。この国のために体張るってやつを、兎に角集めろ。腕っぷしだけじゃねえ。耳が早いやつ、足が達者なやつ、どんな奴でもいい。お前は、集めた全員を連れて、明後日、夜が明ける前に、城の裏門で、俺を待て。分かったな」 「―――おう、任せとけ!」 小雀は、迅の指示を聞くかえすこともなく、一切の迷いもなく、深々と、頭を下げた。 小雀いるもそうだ。彼は迅に、理由も勝算も聞いたことがない。いつでも、ただ、迅が言うから、動く。 それだけの信頼が、二人にはあった。 そして、風のように、闇の中へと、消えていった。  軍議は、三日目もまた、出口のない森を彷徨っていた。  評定の間に満ちるのは、疲労と、焦燥と、そしてじりじりと心を蝕む絶望の色。家臣たちの怒声はもはや熱を失い、乾いた音となって虚しく響くだけだった。 しかし、その、静寂が、戻りかけた、まさに、その時だった。 評定の間の、巨大な扉が、勢いよく開け放たれ、一人の、伝令兵が、転がり込んできた。 「も、申し上げます!」 「た、只今(ただいま)、敵陣より、一騎の使者が! 白旗を掲げ、こちらへ!」 「その、掲げる旗印は…!」 伝令は、そこで、一度、息をのんだ。 「―――東の大国! 朽木(くちき)の、もので、ございます!」 朽木―――その、たった一言。 それが、朱鷺田が提示した、全ての問いに対する、最悪の「答え」だった。 評定の間は、今度こそ、完全な、そして、死そのもののような、沈黙に、支配された。 迅は、見た。 家臣たちの、絶望と、恐怖に(ゆが)む、その顔を。 そして、その、全ての絶望を、一身に受けながら、ただ一人、表情を変えない、玉座の上の、暁斗の、その、神の如き、孤独な顔を。 (―――そうか。こいつらを、束ねているのは、やはり、お前なのだな、暁斗) 迅は、この城の、本当の力関係を、その瞬間に、完璧に、理解した。 その、絶望的な沈黙の中、若き王が、初めて、その、美しい唇を、開いた。 その声には、一片の、恐怖も、動揺もなかった。 「…使者を、通せ」 評定の間の中央へと、ゆっくりと、しかし、一切の物怖(ものお)じをすることなく、その男は、歩みを進めてきた。 明家の使者。 その、瞳の奥に宿るのは、獲物(えもの)を値踏みする、商人のような、冷たい光。 男は、玉座の上の、あまりにも若い城主を一瞥(いちべつ)すると、侮蔑(ぶべつ)を隠そうともせずに、口を開いた。 「我が軍の将である、朽木骸晶将軍より、君主・朽木凍也から神凪の若君へ、お言葉を預かってまいった」 「―――今、この城を、明け渡されるのであれば、若君の、その御身(おんみ)の安全は、我が明家が、保証いたす。そして、改めて、我が主君の『庇護(ひご)』してやろう、と」 それは、あまりにも、一方的で、そして、屈辱的な、最後通牒(さいごつうちょう)だった。 誰もが、うつむき、唇を噛みしめるしかない。 (どうする、暁斗) 迅は、ただ、見ていた。 (ここで、折れるか。それとも…) その、静寂を、破ったのは、玉座の上の、あの、子供の声だった。 その声は、か細かったが、その場の、誰の声よりも、強く、そして、気高く、響き渡った。 「―――戯言(ざれごと)は、それだけか」 使者の、その、自信に満ちた顔が、初めて、(わず)かに、こわばった。 暁斗は、静かに、そして、きっぱりと、告げた。 「―――我が民も、我が家臣も、そして、我の魂も、貴様ら、(むし)けらどもに、くれてやるものなど、何一つない」 「―――戦場で、会おう、と」 その、あまりにも気高い、そして、あまりにも、無謀な宣戦布告。 使者は、その顔を、怒りと、侮蔑の笑みに、(ゆが)ませた。 「…その、若さ故の、無謀な勇気が、どのような結末を招くか。その身をもって、知るがいい」 そう言い残すと、使者は、一度も、(こうべ)を垂れることなく、その場を、去ろうとした。 ―――その、背中に。 それまで、玉座の影で、ずっと、沈黙を守っていた、一つの影が、初めて、その、低い、そして、獣のような声を、投げかけた。 「―――おい」 使者の足が、ぴたり、と止まる。 そこには、神月迅が、その、琥珀色の瞳を、絶対零度の光で、輝かせて、立っていた。 「―――黙れ、(むし)けら野郎」 王の、気高い「決意」。そして、その王を守る、狂犬の、剥(む)き出しの「暴力性」。 その、二つが、一つになった、神凪という国の、本当の「恐ろしさ」を、使者は、その瞬間に、肌で、感じていた。 彼は、もはや、一言も、言い返すことなく、逃げるように、その場を、去っていった。 後に残されたのは、絶望と、そして、もはや、後戻りのできない、壮絶な「覚悟」だけだった。 若き王は、静かに立ち上がると、その、腹心の家臣たちを見下ろし、そして、告げた。 「―――これより、軍議を、再開する」  誰もが言葉を発せずにいる中、最初に動いたのは暁斗だった。  彼は玉座から家臣たちを静かに見据え、その紫の玻璃の瞳に、温度のない光を宿して、沈黙を破った。 「―――石動」 びくり、と石動の肩が揺れる。 「そなたの考えを聞こう」 その一言を皮切りに、石動が絞り出すように声を上げた。 「―――我が君。ご再考を! 籠城し、援軍を待つ。それしか、道は…」 「援軍? どこから来るというのだ、石動殿」 朱鷺田の冷たい声が、容赦なくその言葉を遮る。 三日三晩続いた堂々巡りの議論が、しかし、もはや熱を失って、再び始まろうとしていた。 だが、その空気は決定的に違っていた。使者がもたらした絶対的な現実と、王が下した灰燼の答えによって、賽は、既に投げられたのだ。 評定の間に響く声が、次第に遠ざかっていく……。 翌、未明。 城門が、軋りながら開かれる。 暁闇(ぎょうあん)を切り裂いて、松明の赤い光が長い列をなし、東の空へと続いていた。 鉄の擦れる音、馬のいななき、そして、二千の兵士たちが踏みしめる、重い足音だけが響いている。 神凪の国の、存亡を懸けた行軍が、始まるのだった。

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