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第25話

夜明け前、世界は、まだ、雨と、闇に支配されていた。 朽木(くちき)がその祖を「常世(とこよ)(むし)」に持つと言われる東の地で、彼らは虎視眈々(こしたんたん)と機会を窺っていた。これまで神凪家(かんなぎけ)が守られてきたのは、先代当主・柏木(かしわぎ)景正(かげまさ)(きさき)神氣(かむけ)で築いた強力な結界あってこそ。 しかし、景正亡き後、(よわい)十五の神子(みこ)暁斗(あきと)が継いだ直後の内乱により、その結界に致命的な揺らぎが生じた。謀反の対応の遅れが、国の守りをかつてないほどに弱めたのだ。 朽木にとって、それは、千載一遇(せんざいいちぐう)の、そして、絶対に見逃すことのできない、最高の「饗宴(きょうえん)」の始まりを告げる、鐘の音だったのである。 白鷺(しらさぎ)城の、正門からは神凪蒼家の千五百の軍勢が、白鷺街道を東に行軍し始めた。残り五百は石動の指揮のもと、白鷺城の護りに配置される。 そして、固く閉ざされた裏門から、音もなく、二百ほどの、影の集団が、滑り出ていく。 その先頭に立つのは、神月(みかげ)(じん)。そして、そのすぐ隣には、本来、決して、そこにいてはならないはずの、若き王神凪耀(かんなぎのきみ)暁斗(あきと)の姿があった。 彼らが向かうのは、正規の街道ではない。 地図にも載っていない、けもの道。迅が、子供の頃、自らの縄張りとして駆け回った、「鴉返(からすがえ)しの谷」と呼ばれる、断崖絶壁(だんがいぜっぺき)の道だった。 ぬかるんだ急斜面を、彼らは、まるで、獣のように、四肢(しし)を使って駆け上がっていく。 それは、もはや、軍の行軍ではなかった。 ただ、一人の、神がかった少年の、その、狂気じみた「確信」だけを信じて突き進む、異様な、そして、美しい、「神の軍勢」だった。  迅が率いる二百の兵は、獣道すらない険しい山中へと、その足を踏み入れていた。地図には載らない、道なき道。それは、屈強な兵士が重い鎧を纏って進むことなど、到底不可能な行程だった。  だが、迅の「猿飛衆」は違った。  彼らは、迅が意図して集めた、まだ成人前の、十代の若者たちで構成されていた。大人に比べて身が軽く、装備も最低限。そのしなやかな体躯は、まるで山猫の群れのようだ。彼らだからこそ、この無謀な行軍は、かろうじて現実のものとなっていた。  その先頭に立つ迅には、一切の迷いがなかった。 「―――待て。こっちじゃねえ」  鬱蒼とした森の中、分かれ道でもない場所で、迅はふと足を止める。 「甚八(じんぱち)、どうした?」 「……分からん。けど、こっちの道は、なんか嫌な感じがする」  理屈ではない。ただ、肌が粟立つような、生命的な拒絶感。  迅は、皆が当然進むと思っていた道をあっさりと捨て、全く別の、より険しい斜面を指さした。 「遠回りになるが、こっちから行くぞ」  誰もが訝しんだが、黙ってその指示に従う。数刻後、彼らが避けた道の先で、大規模な崖崩れが起きていたことを知るのは、まだ先の話だ。  やがて一行は、天を突くような巨大な岩山を前に、行く手を阻まれた。断崖絶壁が続き、どこにも登れそうな場所は見当たらない。  その光景を、迅たちの少し後ろから、暁斗が静かに見つめていた。譜代の家臣は一人もいない。ただ王であるという、己の身一つで、この若者たちの奇策に国の全てを賭けている。  絶望的な状況を前に、猿飛衆の間に動揺が走る。  だが、迅は諦めていなかった。彼は岩山の麓にあった小さな泉で静かに手を清めると、天を仰ぎ、そっと目を閉じた。  祈りの言葉はない。  ただ、心の中で、この地に坐す大いなる存在へと語りかける。 (―――岩山の神様。俺は、神月(みかげ)(じん)。この国を守るために、あんたの懐を通らせてもらう。道を開いてくれて、ありがとうな)  それは願いではなく、まるで旧知の友に語りかけるような、信頼に満ちた感謝の祈りだった。  その瞬間。  ゴゴゴゴゴ……と、地響きが起こった。 「な、なんだ!?」 「山が崩れるぞ!」  猿飛衆が身構える中、彼らの目の前で、絶壁と思われた岩肌の一部が、まるで意志を持ったかのように、ゆっくりと、しかし確実に崩れ落ちていく。轟音と共に土煙が舞い上がり、それが晴れた時。  そこには、脆い部分だけが綺麗に削ぎ落とされ、固い岩盤だけが残ってできた、一体の竜が天に昇るかのような、螺旋状の道が現れていた。  呆然とする一同の中で、暁斗だけが、その光景を静かに見つめていた。  その紫の玻璃の瞳に宿るのは、驚きではなく、歓喜と、そして深い誇りの色。  これだ。  これこそが、自分が渇望してやまない、唯一無二の光。  火、水、土、風―――この世の万象が、彼の宝物を愛し、その道行きを祝福している。  迅は、振り返ると、何事もなかったかのように言った。 「ほらな。行けるぞ」  その顔に、奇跡を起こしたという自覚はない。彼にとって、それはいつものことだったから。  暁斗は、その無垢な横顔から、目を離すことができなかった。  この光を、この奇跡を、自分だけのものにできるのなら。  自分は、何だってできる。鬼にも、神にだってなれるだろう。  暁斗の漆黒の髪が、山の風に静かになびいていた。  竜が天に昇るが如き、螺旋の道。  それは、まさしく神が拓いた道だった。猿飛衆の若者たちは、畏怖と興奮の入り混じった表情で、無言のまま険しい岩盤を登っていく。迅と、その先頭に立つ彼の王を、ただ信じて。  岩山を越え、一行がたどり着いたのは、敵の斥候からは死角となる、深い岩陰に囲まれた小さな広場だった。奇襲を仕掛ける敵の本陣は、この山の向こうにある。ここが、作戦前の最後の休息地だった。 「火は一切起こすな。丑の刻までここで体を休める。見張りは三交代だ」  迅の低い声が、静かに響く。  男たちは、松の実や干し肉といった火を使わない食料を静かに口に運び、あるいは武具の手入れをしながら、冷たい岩肌に背を預けていく。疲労は濃いが、誰一人として弱音を吐く者はいなかった。自分たちが今、国の運命を左右する、とんでもない博打の駒となっていることを、誰もが理解していたからだ。  迅は、部下たちの間を回り、一人一人の顔を確かめていく。その姿を、岩陰の最も暗い場所から、暁斗は静かに見つめていた。  生まれて初めて体験する、冷たい岩肌の感触。固い携帯食の味気なさ。だが、彼の心は、不思議と満たされていた。玉座の上で家臣たちに囲まれている時よりも、ずっと。 「迅」  暁斗が囁くように呼ぶと、迅がこちらに気づき、小走りにやって来た。 「どうした、暁斗。寒いか?」 「いや……」  暁斗は、首を横に振る。そして、その紫の玻璃の瞳で、じっと迅を見つめた。 「先ほどの山のことだ。……あれは、どうやったのだ?」  その問いは、詰問ではなかった。ただ、純粋な好奇心と、畏敬の念に満ちている。  迅は、きょとんとした顔で、少しだけ首を傾げた。 「どうって……。頼んだだけだ。『道を開けてくれ』って。そしたら、ああなった」 「……頼んだ、だけ?」 「おう。この岩山の神様は、話が分かるやつだったみてえだな」  あまりにも、あっけらかんとした答え。  暁斗は、言葉を失った。自らが持って生まれた「神氣(かむけ)」が、煌帝(きらめきのおおきみ)の血統や官位といった統治のための『物語』によって権威の中に縛られているのに対し、迅の力は、何の権威も纏わぬ剥き出しのままで、この世界の万象と当たり前のように対話する。  その、あまりにも根源的で、自由な力の在り方に、暁斗は畏怖にも似た感情を覚えた。 「……そうか。お前は、いつも、そうなのだな」  ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど、熱を帯びていた。  暁斗は、たまらず、そっと手を伸ばし、迅の銀髪に触れる。闇の中でも、月光を吸って淡く光る、美しい髪。 「お前は、やはり、私の宝だ」 それは、王の言葉ではなかった。 ただ一人の少年が、己の魂の半身に向けて、必死に紡いだ、愛の告白だった。 迅は、その、あまりにも真っ直ぐな言葉に、少しだけ照れたように、視線を逸らす。 風が、岩肌を舐めるように吹き抜けていく。 その、束の間の静寂の後。 暁斗は、すっと立ち上がった。 先ほどまでの、熱を帯びた少年の面影は消え、その顔には、再び、冷徹な王の光が宿っている。彼は、岩陰で息を潜める二百の若者たちへと向き直った。 闇に慣れた獣の瞳が、一斉に彼へと注がれる。 暁斗は、その視線を一身に受け止め、静かだが、岩陰の隅々にまで響き渡る声で、宣言した。 「そなたたちの働き、見事だ。この戦、必ずや勝利に導こう。そして、戦が終わった暁には、そなたたち全員を、神凪の正規軍として取り立てることを、この神凪暁斗の名において約束する」 しん、と、空気が凍り付いた。 猿飛衆の若者たちは、その言葉の意味をすぐには理解できず、顔を見合わせる。 「……正規軍?」 「俺たちが…?」 「どういうことだ…?」 生まれてこの方、日陰者として、役人に追われ、その日暮らしの暴力を生きる糧としてきた彼らにとって、「公の兵士になる」という言葉は、あまりにも現実離れしていた。 その、戸惑いのざわめきを、低い声が制した。小雀だった。 「てめえら、分かってんのか。こいつは、とんでもねえ話だぞ」 小雀は、仲間たち、そして王である暁斗を交互に見据え、言葉を続ける。 「正規の兵になれば、もう俺たちは、ただの『ごろつき』じゃなくなる。役人に追われることもねえ。俺たちの腕を、城がお墨付きで買ってくれるってことだ。日向(ひなた)の道を、胸張って歩けるようになるかもしれねえんだぞ!」 その、あまりにも率直な言葉に、若者たちの目の色が変わった。 戸惑いは、やがて、抑えきれない興奮と、そして、血が沸き立つような決死の覚悟へと変わっていく。 失うものなど、何もなかった。だが、今、初めて、守るべき「未来」が、その手に示されたのだ。 暁斗は、その光景を満足げに見つめ、そして、隣に立つ迅の肩を、ポンと軽く叩いた。 「行くぞ」 迅は、仲間たちと暁斗の顔を交互に見て、複雑な、しかし、どこか誇らしげな表情で、深く頷いた。 敵陣が寝静まり、丑の刻が訪れるまで、あとわずか。 少年たちの、短く、そしておそらくは最後の休息の時間は、新たな覚悟と共に、静かに過ぎていこうとしていた。 一刻(いっとき)後。 彼らは、天衝(てんつき)山脈の、頂上近くに、到達した。 眼下に広がるのは、朽木(くちき)の、その、広大な本陣。数えきれないほどの篝火(かがりび)が、まるで、地上に広がる、星屑(ほしくず)のようだった。 彼らは、完全に、油断しきっていた。 まさか、この、天と地の境目から、敵が現れることなど、夢にも思わずに。 暁斗は、迅を見た。 迅は、ただ、静かに、(うなず)いた。 それだけで、全てが、伝わる。 暁斗は、一歩、前に出た。 そして、その、か細い身体からは、想像もつかないほどの、神聖な「気」が、奔流(ほんりゅう)のように、(あふ)れ出した。 それは、敵を殺すための、殺気ではない。 それは、味方を、人ならざる「鬼」へと、変貌させる、神の、祝福。 「―――行け」 暁斗の、その、静かな一言が、合図だった。 次の瞬間、二百の鬼たちは、(とき)の声も上げず、ただ、無言のまま、崖を、駆け下りていった。 それは、もはや、人間の軍勢ではなかった。 山津波(やまつなみ)のように、敵陣を、その、圧倒的な質量で、飲み込んでいく。 朽木の本陣は、阿鼻叫喚(あびきょうかん)の地獄と化した。 何が起きたのか、理解できないまま、兵士たちは、次々と、その命を刈り取られていく。 そして、その、地獄絵図の、中心を。 一筋の、白い稲妻(いなずま)が、駆け抜けていた。 迅だった。 彼の、その、琥珀(こはく)色の瞳は、もはや、雑兵(ぞうひょう)など、見ていない。 彼の、その(やいば)が、目指すは、ただ、一つ。 敵の大将が座す、最も、豪奢(ごうしゃ)な、天幕だけだった。 天幕を、切り裂き、中に、躍り込む。 そこにいたのは、朝餉を前に、まだ、呆然としている、総大将、朽木(くちき)骸晶(がいら)。 その男が、「何奴(なにやつ)!」と、叫び終わる前に。 迅の刃は、すでに、その首を、()ねていた。 --- そして、静寂。 迅が、血塗られた敵将の首を、その手に掲げ、天幕の外へと現れた時。 東の空から、最初の、夜明けの光が、差し込んできた。 雨は、いつの間にか、上がっていた。 その、神々しいまでの、朝日に照らされて。 血塗られた、美しい、鬼神(きしん)のような少年が、そこに、立っていた。 残った朽木の兵たちは、その、あまりにも人間離れした光景を前に、武器を捨て、ただ、ひれ伏すしかなかった。 その日、神凪の、若き神の子と、その懐刀(ふところがらな)である、美しき狂犬の伝説が、始まった。 それは、これから、長く、長く続く、血塗られた覇道の、ほんの、始まりの一歩に過ぎなかったのである。

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