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第26話

天衝山脈からの奇襲は、歴史に類を見ない勝利となった。迅が掲げた総大将・朽木骸晶の首級は、二万の朽木軍を総崩れへと導き、彼らは白鷺城を包囲することなく、命からがらに領地へと逃げ帰った。この神懸かり的な軍功をもって、神凪は絶対的な優位に立った。 数日後、朽木の棟梁・朽木凍也(くちきとうや)からの停戦を乞う書状が、豊かな食料品や陶芸品と共に届けられると、神凪耀・暁斗はこれを受け入れ、和睦を成立させた。 :朽木との和睦成立から間もない朝。白鷺城(しらさぎじょう)の広間は、戦勝の儀のために厳かに設えられていた。 広間には、神凪宗家(かんなぎそうけ)の西ノ宮の斎王(さいおう)神凪南茂(かんなぎみなも)のほか、宗家に連なる神凪四家の当主らが顔を揃え、石動(いするぎ)玄頼(げんらい)といった重臣たちも、静かに玉座を囲んでいる。彼らの視線の焦点は、ただ一点、王の座所の前に立つ、銀髪の少年に集中していた。 神月(みかげ)(じん)。 彼は、先日まで裏社会を彷徨う「ごろつき」でありながら、今や国を救った英雄であり、王が「半身」と公言した異質な存在である。その地位はまだ定まっていなかったが、その存在感は、老練な家臣たちの誰よりも強烈だった。 若き王、暁斗(あきと)は、玉座に深く沈み込み、その白い衣の下で、己の支配が今、確固たるものとなる瞬間を待っていた。 暁斗は、清浄な声で、朱鷺田(ときた)に命じた。 「朱鷺田、読み上げよ」 朱鷺田は、王命を拝し、冷徹に、そして流れるように迅の戦での活躍ぶりである、天衝山脈での奇襲と総大将の首級(しゅきゅう)獲得の顛末を、粛々と列挙していく。その言葉の端々には、「理性では計り知れないが、結果としてこれだけの功績があった」という、苦渋の承認が滲んでいた。 報告を終えた朱鷺田が、一歩後ろに下がると、暁斗は、静かに玉座から立ち上がった。 「そなたの働き、天晴(あっぱれ)なり。国の危機を救った功績は、万世にわたって讃えられるべきものだ」 暁斗は、家臣たちすべてに向けて、その神聖な瞳で告げた。その声は、広間の隅々まで、威厳をもって響き渡る。 「よって、神凪輝(かんなぎのきみ)である我の名において、神月迅を『神凪将軍(かんなぎしょうぐん)』の位に任命する。これをもって、彼は軍のすべてを統べる権限を持つこととなる」 しん、と、広間の空気が凍り付いた。 将軍。その位は、譜代の重鎮たちが代々その血で築き上げてきた、軍の最高位である。それを、出自も曖昧な一人の若者に、一足飛びに与えるという、王の私情が織りなす理不尽な裁定。 石動の顔は青ざめ、他の家臣たちも、露骨な動揺を隠せない。しかし、王の言葉には、「異議を唱える者は、国を救った英雄の功績を否定する不忠者である」という、鉄の論理が秘められていた。 暁斗は、その張り詰めた空気の中、玉座の脇に置かれた一本の扇子を手に取った。それは、最高位の褒美として、王が臣下へ自ら与える、栄誉の品であった。 「迅。前に出よ」 迅は、迷いなく、そのしなやかな体躯を王の前に進めた。 暁斗は、扇子を迅の両の掌に、ゆっくりと、しかし確固たる意志を込めて乗せた。それは、扇子という褒美ではなく、「神凪将軍」という、公的な権威の全てを、この少年に託したことを示す儀式だった。 「取れ、迅。これは、お前が唯一無二の我の右腕である証しだ。お前の居場所(いばしょ)は我と共に在ることと知れ」 迅の琥珀(こはく)色の瞳が、一瞬だけ揺らぐ。その瞳は、扇子を見ているのではない。彼に全てを賭けた王の、孤独な、そして狂気に満ちた眼差しを見つめていた。 彼は、その場で深く(ひざまず)き、扇子を胸に抱くように、恭しく受け取った。彼の頭が畳につくほど深く、その姿勢は崩れなかった。それは、王への絶対的な忠誠と、王の与える運命の全てを受け入れる覚悟を示すものだった。 「―――御意」 低い声で、迅が返答する。 暁斗の唇に、微かな笑みが浮かんだ。それは、広間中の家臣たちに向けた「この男の忠誠は、私個人への愛によってのみ成り立っている」という、冷たい勝利の宣言だった。 そして、その寵愛と、将軍という権威を、最も恭しい姿勢で受け取る迅の姿は、譜代の家臣たちに、「寵愛の深さ」と「王への忠誠」という、二つの絶対的な事実を、有無を言わさぬ形で突きつけるのだった。 奇策を成功させた功績をもって、神月迅を軍の最高位に次ぐ将軍に任命し、内乱と戦火で疲弊した国の復興に、その力を注ぎ始めることとなる。 筆頭家老である石動は、戦勝の報告書を前に、怒りに震える手を抑えきれなかった。 (―――神月迅。あの下郎を将軍だと? 戯言(ざれごと)にもほどがある!) 奇襲の成功は、確かに国を救った。 しかし、それは蛮族が偶然手に入れた剣で強敵を打ち破ったに過ぎぬ。これを神託による大功と見做し、正式な軍の階級を飛び越えて、あの賤しい出自の男を我々譜代の頭上に据えるとは。 我が君は、完全にあの(あやかし)に惑わされておられる。今度は、あの男に軍権を与え、我が君の権威を私情で汚す。これは、神凪の数百年続く秩序に対する、公然たる反逆だ。 (このままでは、国軍の規律は崩壊し、いずれあの男は我が君の牙となって、我々譜代の家臣団を食い破るだろう。御君(みきみ)が私情で国を乱すのなら、臣下としてこれを正すのが、我ら玄家の務め。あの男をこの地位から引きずり下ろし、神凪の清浄な秩序を守り抜かねばならぬ!) 和睦の報せと迅の将軍任命の知らせを受けた直後、思惑は巡る。 朱鷺田は、冷たい自嘲と共に、唇の端を歪めた。 (…まさか、成功するとはな。私の論理が、これほど無残に敗北するとは) 勝算は限りなく低く、正攻法を避けた「狂気の賭け」に過ぎなかった。私の知性が導き出した合理的予測を、あの野獣のような少年が、一時の蛮勇と、そして御耀(みかが)の寵愛という理不尽な力で覆した。 私は、御耀の愛を、統治の論理に勝るべきではないと諫言した。しかし、御耀は「迅の存在は統治の論理に勝る」という信念を、この大勝利という絶対的な結果で証明してしまった。 (屈辱だ。私の知性は、あの粗野で不安定な少年によって破られた) だが、その屈辱こそが、朱鷺田の頭脳を、より深く、危険な探求へと駆り立てる。 (あの奇襲の成功は、単なる偶然ではない。御耀の神氣(かむけ)と、あの少年の規格外の力が、何らかの形で作用した結果だ。私が理解できないもの、それはすなわち「未解明の論理」に過ぎぬ) 朱鷺田の瞳の奥に、冷たい光が宿る。 (神月迅。お前は、もはやただ御耀の寵愛の対象というわけではない。私の知性が解き明かすべき、この国の「理性の外側に存在する鍵」だ。あの奇跡を生む力の正体、そして、御耀がこれほどまでに固執する「愛の根源」を、この私が解明してやる) (理性を超えた狂愛も、その鍵さえ握ってしまえば、ただの道具と化す。私の野心は、今、お前を標的とする。お前の全てを、この朱鷺田が、理性をもって支配してやる) 白鷺城を覆う戦勝の喧騒は、やがて来る嵐の予感に満ちていた。 天瑞煌国(あまきらめきのみつくに)神凪領(かんなぎりょう)の復興という名の光が差す裏側で、神月迅という名の、孤独な王を御するための『鍵』を巡り、国を揺るがす、新たな争乱の火種が静かにくすぶり始めていた。 戦勝の祝賀ムードが残る、城の練兵場。 忠清が同期の近衛たちと剣の稽古をしていると、一人が意地の悪い笑みを浮かべて話しかけてくる。 「おい、忠清。聞いたぞ。お前、あの新しい『神月将軍』様と、山を越えたんだってな。さぞ、お美しかっただろうなぁ?」 周囲から、下卑た笑いが起こる。 「なんせ、御君の『寵童』だと、もっぱらの噂だからな。夜の武勇で、将軍になった、と」 その言葉が言い終わるか、終わらないかのうちに。 忠清は、表情一つ変えぬまま、手にしていた木剣で、相手の喉元に寸止めで突きを繰り出していた。 「―――ひっ…!」 冗談を言った男は、声にならない悲鳴を上げる。 忠清の目は、氷のように冷え切っていた。 「……今の言葉を、取り消せ」 「た、ただの、冗談じゃねえか…」 「神月将軍は、この国を救った功労者であり、俺が付き従った指揮官だ。そして何より、御君が、その功績を認めて、将軍の位をお与えになったお方だ。そのお方を『寵童』と呼ぶのは、御君の御心を侮辱するに等しい。―――次にその名を口にしてみろ。不敬罪として、この場で斬り捨てる」

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