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第28話

城の大広間では、朽木軍への勝利を祝う「勝戦(かちいくさ)の宴」が賑やかに開かれている。神凪四家の棟梁や、多くの家臣たちが酒を酌み交わし、神月将軍の功績を口々に称えている。 神月迅は、その中心にいるにも関わらず、どこか場違いな空気を感じていた。彼は笑い、酒を受け、肉を口にしたが、そのすべての「味」が、舌の上で「無」に帰する。唯一、強い酒だけが喉を灼く「刺激」を与えてくれる。 (馬鹿げてる。何の味もしねぇのに、何を喜んでるんだ、俺は) ふと、迅は玉座の方を見た。暁斗は、王として完璧な微笑みを浮かべ、家臣たちの賛辞を受けている。しかし、その視線は、常に迅を追いかけている。 迅は、まるで自身の存在が「王の飾りの剣」になったことを感じ取るように、広間の喧騒からそっと逃れることを選んだ。誰も見ていないと信じ、静かに席を立ち、自身の私室へと向かった。 迅は自室に戻ると、懐の扇子を卓に置き、袴も脱いだ。 帯に括った着物の裾をおろし、一人、腰を下ろした直後。 「……逃げたのか、迅」 背後からかけられた声に、迅は驚き、振り返る。そこには、王の装束のまま、額にうっすらと汗を浮かべた暁斗が立っていた。 「暁斗……なぜ、ここに」 「お前がいない。広間が色を失った。俺の目が、お前を追っているうちに、お前は消えていた」 暁斗は部屋に入ると、そのまま障子を閉めた。 宴の喧騒が、遠い波の音のように聞こえる。 「朱鷺田に、真実を告げたのだな」 「ああ。朱鷺田は神氣を感じることができる。故に、儀式の必要性は自ずと看破(かんぱ)するだろう 。だが先んじて『依り代』の(ことわり)を伝えれば、奴は満月と新月の儀式を統治の秘鑰(ひやく)と信じ 、お前を排除しようとはすまい」 暁斗の答えに、迅は不満そうに口を尖らせた。 「あの狐は、てめえの理屈に(はま)るものなら何でも利用できるつもりでいやがる。でも、俺が聞きたいのは、そんな話じゃねえ」 暁斗が迅を見る。 「俺は臣鬼になるためにお前を受け入れた。でも俺以外の臣鬼たちは、血の盃とかいうものを一回限り交わしただけと聞いた。それなのにどうして俺だけ定期的に……お前と、忙しくなるって、その……」 迅は、一瞬だけ言葉を詰まらせた。 「―――ッ、なんでだ? なんで俺だけが、あんなまねをしなけりゃならねえ?」 その問いに、暁斗はふっと、菩薩のような顔に微かな笑みを浮かべた。安堵と、底知れない優越感を孕んでいた。 「その疑問は、もっともだ。誰もがそう思うだろう。だが、迅。お前は、特別だ。だから、お前には、知っておいてもらいたいことがある」 暁斗は、膝をつき、迅の顔と視線の高さを合わせた。 「我は王として、家臣たちを納得させねばならぬ。奴らを納得させるためには、奴らが理解できる『(ことわり)』が必要だ。ゆえに、朱鷺田には『お前が神気(かむけ)を整えるための依り代』であると伝え、石動には『荒ぶる宝剣を調伏(ちょうぶく)する王の責務』であると伝えた。どちらも、本当のことだ。だが……、」 暁斗の瞳が、狂おしいほどの光を宿した。 「だが、最も大切なことを、俺は奴らに伝えていない。伝えられない。それは王としての理から、外れているからだ。―――迅。俺がお前とだけ(からだ)を繋いだのは、他でもない」 暁斗は、吐息のような声で、その夜、広間を捨ててまで追ってきた理由を告げる。 「俺が、お前に触りたかったのだ。お前の命も、その息吹も、温もりも、俺自身で感じ、俺だけのものにしたかった。だから、この方法にした」 その言葉に、迅はまっすぐ暁斗を見る。紫の玻璃(はり)の瞳にはその奥に炎のような情念が揺れていた。 「俺は、これからもお前に触れる。お前なしでは俺は生きてはいけぬ。だから、この儀式を王の責務として皆に認めさせた。俺が俺であるために、お前が唯一の光であるからこそ、必要だからそうした。迅、よいな?」 それは、命令であり、愛の請願であった。 迅は、目の前で、王としての仮面と(ことわり)をすべて脱ぎ捨てた、たった一人の男の顔を見ていた。その男が、自分なしでは生きていけないと、国中に宣言したのだ。愛という言葉はなくても、これ以上の愛の証明があるだろうか。 迅の琥珀色の瞳に、静かな諦めと、深く刻み込まれるような充足感が滲む。 迅は言葉を返さず、そっと、膝をつく暁斗の首に腕を回した。 「……言っただろう、暁斗。お前が、そう望んでくれるなら、俺は、地獄の底まででもついていくし、なんでもする」 その瞬間、暁斗の瞳から、理性という名の最後の糸が切れた。王の装束が、二人だけの密室で音を立てて崩れる。 暁斗は迅の唇に己のそれを重ねると、迅が口を開け舌を受け入れる。お互いの口を吸いあい、やがて影は絡み合うように倒れた。 狂気と依存の愛が、公的な儀式の前に、二人だけの私的な盟約として、結ばれた。

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