25 / 27

第25話

 翌日に工藤が面会に訪れたのには驚いた。 「工藤?」  それにはすでに来てくれていたタカハシも心底びっくりしたようで、滅多にない声をあげる。  いったい、なぜ工藤にここが分かったのか、ぼくの頭は不審と不安でいっぱいになった。 「すみません、高橋先輩。宮代と二人で話したいのですが」  病室に入るなり、固い表情で伝える。ぼくは、椅子から立ちあがって部屋を出ようとするタカハシの腕をとった。 「いいよ、タカハシ。ぼく、少し歩きたいから工藤と下のロビーに行く」 「疲れないか」 「うん。ずっとベッドにいちゃ、足の筋肉が落ちちまうもの」  それでもベッドから降りるぼくの手を王子様のようにとってくれる。工藤の前だというのに、そんな仕草一つにもぼくはのぼせそうになった。  外来もすっかり終わった一階のロビーは薄暗くて閑散としていた。待ち合い用に並んだ長椅子の一番奥に工藤と並んで腰掛けた。  ここへ来る間も、なぜ工藤にぼくの入院が知れたのか、なぜこの病院だと分かったのか、ぼくはあれこれ疑念がわいてきて落ち着かなかった。 「今日は先生、来れないんだって。急に会議が入ってね」  工藤の言葉でぼくはハハーンと合点した。 「なるほど。じゃ代理できたってわけね、あんた。生徒会長も、いろいろご苦労なこったね」 「違うよ。きみのところに面会に行っていいかって訊きに行ったら、そう伝えてくれと頼まれたんだよ」  だったらずっと来んでいいですから。と、相変わらずの何様な態度で先生に伝えてもらおうと思った。  だけれど、そこでぼくの疑念はまったく払拭されていないことに気付く。 「なんで知ったのさ? ぼくがここに入院していること」  さっそく核心を突いた。あまり長時間をここで費やしたくなかった。もちろん、病室でタカハシがぼくを待ってくれているからだ。工藤を嫌いになったわけじゃないけれど、彼のために余分な時間を割けるほどの心の余裕は、いまのぼくにない。  工藤には珍しく煮え切らない様子で口ごもる。 「迷惑だった?」  だからそんなこと誰も訊いちゃいねーんだよ、と言いそうになる。さすがに偉そうにもほどがあるな、うん。 「別に。でも、あんまり知られたくないんだよね、他人には」  素っ気無く返事すると、工藤の頬にさっと赤みがさす。 「でも、高橋先輩はいたよね、きみと一緒に」  低く呟く。ものすごく引っかかる言いかただった。それが癪に障ったぼくは、むきになって反応した。 「それはどういう意味? なにが言いたいんだよ、あんた?」  ぼくの鋭い詰問に、逆に迷いが吹っ切れたみたいに工藤が口を開く。 「昨夜、きみのことで佐藤先生がうちにいらしたんだよ」  佐藤はぼくたちの担任だ。  ぼくはきょとんとした。クラスメートだからって、なんでぼくのことで佐藤が工藤の家に行かなくちゃならないのだ。いくら工藤が生徒会会長だとしても、わざわざ教師が家を訪問するまでの案件ではないだろうに。 「ぼくとあんたとどう関係があって、佐藤はあんたんちに行ったのよ」 「そうか。知らないんだね。うちの父はね、PTA会長なんだよ。それで、先生が父にきみの現状を報告しに来たんだ。これまでのこと――あの…、ちょっと言いにくいことだけど、きみが叔父さんからされたこととか、そのための骨折で入院中だとか…ね。それに、きみと高橋先輩とのことも――そして、きみの両親のことも。先生が玄関先で父に話しているのに気付いて、話題がきみのことだと分かったらもう、どうしても我慢できなくて。…ちょうどすごく心配していたときだったから、つい、盗み聞きしてしまったんだ。もちろん自分の心に納めるつもりでだよ。だって結局、合唱コンにも来なかったしさ。春香と心配していたんだ。どうしたんだろうって」  ぼくは聞くうちに青褪めてしまった。  油断していた。まさかそんなルートで工藤にすべてを知られてしまうなんて、想像もしていなかった。  どうもこうもない。ぼくは合唱コンどころじゃなかったのだから。 「そう…」  血の気が引く思いだった。いったいぼくの情報ってのはどこまで共有されてしまうんだろう?  両親の殺人事件だけでなく、ぼくが叔父から強姦されまくっていたことも、すっかり工藤に知られてしまったなんて。 「驚愕だったろ? ぼくが殺人犯の子供ってだけじゃなくて、実の叔父から毎日ファックされまくってたオカマだって分かってさ。キワメツケって感じだったろ?」  自棄になって自嘲しながら毒づいた。それで工藤がお白州の金さんみたいな顔になる。 「そんなことを言うな、宮代。なにひとつ、きみのせいじゃないじゃないか」  真面目な顔つきのまま続ける。 「宮代…、ぼくが今日ここに来たのにはきちんとした理由があるよ、もちろん。それは、きみに大事なことを伝えるためなんだ。昨日、佐藤先生が帰ったあとで、きみは本当に気の毒だなって家族で話し合ってね。あ、誤解のないように言うけど、僕の方から父に話しかけたんだよ。父はけじめのある人だから、けしてそういうことを自分からは言い出さないんだ。僕は一人っ子でね、だから父と母と三人で長いこと話し合って。本当に、なんて可哀想な境遇の子だろうって、心を痛めたんだよ。それで、ある結論に達したんだ。なあ、宮代。よく聞いてくれ」  まるで悪人退治のときみたいなキリリとしたまなざしでぼくを見つめる。 「僕の家族は決めたんだ。きみの里親申請をしようって。きみさえよければ、ぜひうちで引き取ろう、って。宮代、ここを退院したら、施設なんかに行かないで里子として僕の家に来ないか? 僕の両親は真面目で優しい人たちだよ。父は、わりと大きな予備校を個人経営していてね、自身も物理を教えているんだ。きっと理数系のきみと気が合うよ。それに、僕はきみと一緒に勉強ができるし、きみだってそうなればもう不良みたいに過ごさなくていいんだ。これはお互いにとってすごくプラスになると思わないか? 母はいつも家の中をきちんとさせているし、料理も巧い。家も数年前に建てたばかりで、きみの個室もちゃんと用意できる。僕の家族は、きっときみを幸せにできると思う。だから、なあ、宮代。ぜひ真剣に考えてみてくれないか? 僕の家の里子になることを、さ」  そしてここで一旦、工藤が言いにくそうな感じで口を噤んだ。ぼくはさっきから、もうこれ以上開くことができないだろうなと思うくらいに、目をまん丸にして彼を見つめていた。 「…それから、差し出がましいようだけど、一つだけきみに忠告しておきたいことがある。気分を害したら、本当にごめんよ。あの…、あのさ。高橋先輩とは、もうこれ以上付き合わない方がいい。これはきみのために言っているんだ。きみは転校してきたばかりだから知らないのもしかたないけれど、彼には良くない噂がある。確かに、穏やかな人だし、会長になっていたときも人をまとめるのがうまくて、仕事もできたから、人気があったけれどね。でもそういう付き合いに関しては、本当に悪い評判ばかりなんだ。それこそ、そういう相手をとっかえひっかえしているって……去年は、それで自殺騒動まで起きたくらいなんだよ。彼に弄ばれた同級生がね、思い余って屋上から飛び降りようとして――やっぱり同性同士で。僕は、父づての会話で知ったんだけど。もちろん、こんなことはきみ以外に他言していない。でも僕はもう、きみがこれ以上余計なことで傷つくのを見たくないんだ。まして高橋先輩になにかをされたとかで…。佐藤先生も心配していたよ、きみと高橋先輩の仲…。ぼくも、じつを言えば心配だったんだ、きみと先輩を二人きりで残したときがあったろう? あのとき、きみが先輩によからぬことをされはしないかと思って心配していたんだ。そうしたら、案の定…」  工藤が、お悔やみ申しあげる、みたいな表情で悲愴な顔をする。  ――よからぬこと、か。  ふと爆笑したい気分になった。そういうぼくが自分からケツを差し出してタカハシを誘ったことを知ったら、この顔はいったいどう変わるだろう。 「ね。だからさ。まあ、そんなことも、きみの生活が安定したら心配はなくなると思うんだ。きみが普通の生活に戻れさえすれば、きっと彼からも離れられると思うよ。とにかく、僕の両親も言っているんだ、部屋も一つ用意して大事に育てるから、是非、うちにおいでって。高校も今の学校が行きにくいのだったら新しいところを探すし、大学もきちんと行かせるつもりだ、そのためのお金の心配はまったく必要ないから、って……」  途中から強い口調になっていた。そしてその熱いまなざしは、正しいことをしているという信念に裏打ちされた自信に満ちている。  ぼくは、まんじりと聞いていた。突然のプロポーズを受けている気分だった。これじゃ驚きすぎて石になっちまう。メデューサでもここまで硬くはできないだろうと思うくらいに固まっていた。  一種の感動を覚えていた。  ああ、こういう人間もいるんだと。  まったくここまで頓珍漢なことを、こうも自信を持って語れる人間がいるんだなと。  いったいこういうやつは自分の言葉の一パーセントだって疑ってかかったりしないのだろうか? それがとんでもなく大きなお世話で、言われた方を深く傷つけるほど的外れなんだってことを…。  工藤の言葉をどこからどう攻めればよいのか分からず、いや攻めどころが満載過ぎて途方にくれて、ぼくは黙って俯いた。でも本当は叫びたかった。「そんなものぜんぶニセモノだ! そんなものいらねえんだよ!」と、わあわあ喚きちらしたかった。 「ぼくには、あんたの言っていることはぜんぶ、偽善にしか聞こえないよ、工藤」  ようやく出てきたぼくの返答に、驚いた声をあげる。 「偽善? なぜ? 僕は、偽善を行っているつもりなんてないよ。きみを助けようとする一心なんだ」  真剣に反論する。  そりゃそうだろう。偽善なんてもの自覚がないからそう呼ぶのだから。自覚があれば恥ずかしいったらありゃしないじゃないの。 「ぼくはいらねーよ? 里親なんか」 「また、そんなつんけんした言い方をして」  工藤がかしこまって答える。 「そんなにつっぱるな。人の善意は素直に受けるべきだよ」  それでまたぼくはひっくり返りそうになる。きっとこいつとは永遠に意見も感覚も噛み合わないだろうな、と。  ――――善意、か。  なんて無邪気な響きだろう。でもそれこそ単純な発想から出てくる偽善ではないのか。  ぼくは顔をあげてまっすぐに彼を見た。工藤はといえば何事かといぶかしげな目で見つめ返す。  工藤は相変わらずだ。  端正な顔、清潔感溢れる髪形と身なり。このくそ暑い日に学ランのボタンを上まできちっと閉める優等生。  育ちのよさそうな表情に、正義感の滲み出る瞳。これらはきっと、正しい生き方と幸福な家庭環境に育っていることと、それを自負している自信から自然発生しているものに違いない。  いっときは彼に夢中になったぼくがいた。工藤を好きでいることが生きる支えだった。  あのころのぼくならば、この里親の申し出を両手をあげて喜んだろうか。またとないチャンスだと申請をお願いしただろうか?  ああ。だとしたら悲劇だった。  だって、彼が求めているのはぼくではないぼくなのだから。彼の中の理想のぼく、彼の中で曲解されてしまったぼく。恐ろしいことにその認識はいまも変わっていない。もし彼にひきとられれば、ぼくは自分ではない自分を期待され、課せられた役を演じることに疲れきってしまうだろう。  病室に戻るために立ちあがった。焦ったように工藤が目で追う。 「ぼくは施設に行くつもりでいるからいいよ、工藤。里親申請なんかしなくていい。でも、ありがとう。ぼくのことを家族でそんなに真剣に考えてくれてさ。感謝なことだよ。ご両親にもありがとうって伝えておいて。でも、ぼくは、あんたにも、あんたの家族にも似合わないもの。だから、やめとくよ」 「しかし、そんな――――!」  まだ引き留めるつもりなのか、工藤が慌てたように立ちあがる。ぼくは手のひらを見せてそれを制した。 「ありがとう、ほんとに。あんたにはこれまでいろいろと世話になったよな。迷惑かけて悪かったと思ってる、本当に」  今後学校に行くことがなければ、もう会うこともない。 「さようなら、工藤」  工藤が口を開く。またなにか声をかけられちゃかなわないと思って急いで踵を返した。  病室に戻りながら、これでよかったのだと思い返す。  工藤の家に行く。そうなったらぼくは彼の言う通り、きっと普通の家庭の子供として普通の生活を送ることになるだろう。かつて父と母と暮らしていたときのように平凡な、いや、たぶんそれ以上に恵まれた家庭生活をいただくことだろう。もちろん預かりっ子の間借りする身なのだから、そっくりそのままとはいかないまでも。  真面目に高校に通い、工藤と一緒に勉強して大学に進学して、塾を経営する真面目なお父さんと優しいお母さんに守られ、自分の部屋をあてがわれて…。  けれどいまのぼくには、そのどれひとつとってもわずかな魅力さえ感じなかった。どころか、厭わしくしか感じられなかった。  なぜならそんなことを甘んじて受ければ、ぼくのこれまでの痛み、死ぬほどの苦悩を捨て去ることになるのだから。あの苦しみを――――母に父を奪われ、罪に母を奪われ、叔父からの強姦、鞭打たれた痛み、大事にしていたすべてをなくしたこの数ヶ月の苦しみを、そんな他人の好意によってあてがわれた「普通の生活」によって自ら相殺してしまうことなのだから。  それはぼくの中の小さなぼくを裏切ることだった。そんな生活は真にぼくの人生ではない、人からどう見られようとどう思われようとも、ぼくはぼくの身に合った人生を選ばなくては、これまでの苦しみが水泡に帰してしまう。背負わされたものを背負いつつ、自分で自分を無視することになる。  そしてぼくはどんなタカハシでも愛していた。  もちろん工藤からああ言われたくらいでタカハシと別れる気なんてさらさらない。彼から別れをきりだされでもしない限りは。  タカハシがどんな人であろうと、どんな人だったのであろうと、もう彼はぼくのすべてなのだから。  病室に戻ると、タカハシは単語帳を開いて勉強していた。 「工藤は?」 「帰ったよ」 「そうか。早いな」  近くに寄ってベッドの端に腰掛けた。どちらともなく手を取り、指と指を絡ませ合う。  こうやってタカハシをそばに感じてその存在のすべてを味わっていると、タカハシを思って自殺しようとまで思いつめてしまったやつの気持ちが分からなくもない。この人を失ったらぼくだって生きていけない。 「ねえ…タカハシ。もし施設に入っても、あんたの家に遊びに行っていい? そうしたら、毎回、昨日みたいに抱いてくれる?」  ぼくは抜け出してだってこの人に会いに行くだろう。もう来るなと言われるまで、毎日でも、しつこいくらいに行くだろう。  思いがけない言葉だったのか、タカハシがぼくを見つめながら押し黙る。しばらくして、 「いつだって、どうなったって、おまえを抱くよ、佳樹」  静かで優しい声だった。 「幸せにしたいんだ」  急にそんなことを真顔で言い出すから、幸せ半分、困惑してしまった。  それはあまりにもまばゆい宝石のようで、ぼくはかえって臆病になってしまう。欲しいのに、手にするのをためらう。  だって、もしその宝石が手品みたいにぽんと煙になって消えてしまったら?  さっきまであると信じきっていたものが、次の瞬間なくなってしまったら?  そのときこそぼくは、なんの甲斐もなく生きていけなくなるだろう。もぬけの殻になって、すべての感覚を失って。

ともだちにシェアしよう!