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第26話

 それから一週間が経った。  胸のギプスは外せないものの、食事も普通にとっているから日に日に元気がでてきたぼくは、暇を持て余して病院内をパジャマ姿でぶらぶらと探検してみたりする。そのうちに患者同士で知り合いになって挨拶を交わすおじさんなんかも現われる。院内のコンビニで小説やマンガ雑誌を立ち読みしたり(店にとっては迷惑な話だ)、お天気のいい長閑な昼間に屋上のベンチでぼんやり空を眺めたりしていると、なんだか永久にこんなぐだぐだした生活を続けてしまいそうな気がしてくる。そう。たとえば退屈に任せて澄んだ青空に浮かぶ羊雲なんかを、のんびりと数えているときなんかは、特に――――。  この病院に鐘があったらいいのにな、などと思ったりする。  「ノートルダムの鐘」のカジモドみたいに、ぼくは決まった時間に鐘を鳴らす仕事だけをしていればよくて、そのほかはこの院内でひっそり身を隠しながらぶらぶらと過ごしてゆく――――て。あほくさ。我ながら思考が低次元すぎて呆れる。人間は暇だとろくなことを考えないってのは、事実だな。だいたいカジモドは心清らかな人間なのだから、ぐだぐだ目的のぼくなんかは足元にも及ばない。  けれどまあ当然そんなことになるはずはなくて、主治医の橘先生の今朝の回診では、思いのほか回復が早いから退院も間近だと言われた。 「若いからだねぇ。治りが早いのは」 「ほんと。若いって羨まし~」  相変わらずピンクモードの看護婦が、橘先生の隣りで溜め息をついた。この看護婦はあのキスを目撃されて以来、「今日も彼氏来るの~?」なんて廊下ででも訊いてくるから本当に困る。  確かに回復は早かったのかもしれない。前々から感じていることだけど、こう見えてぼくはけっこう頑丈にできているらしいのだ。 「きみだってまだ若いでしょ。看護婦になって何年?」 「まだ二年~ペエペエですよぉ。ここの先輩たち厳しくってぇ」  二人で話し始めた。 「看護婦さんもたいへんだよね、いろいろと」 「あー? 分かってくださってるんですね、一応」 「まあ、ホントに一応だけどね」 「もお頼りないんだからあ、せんせえはぁ」  その掛け合いのなんともいえない安穏とした雰囲気に、入院も悪くなかったなとふと振り返ったりした。ここに来るまでのぼくは毎日がド修羅場だったのだもの。こんな世間があることも知らなかったほどに。  けれどそのあとで先生から、明日は四人部屋に移るからね、なんて言われて前言撤回、ぼくはしょぼんとへこんだ。ぼくの身分でいつまでも個室にいられないだろうとは思っていたけれど、大部屋じゃこれまでみたいにタカハシといちゃいちゃできないじゃない、どうしよう、なんて本気で悩んだ。  過呼吸の発作も体調の回復と共に鳴りを潜め、心療内科の診察も先日受けた一回だけですみそうだった。向こうの先生が言うには、今回の発作は突発的なもので、心身の過度のストレスの解消と共に収まってくるのではないかということだった。 「順調に行けば今週末に退院できるよ」  橘先生が言った。  退院か。  長かったような、短かったような。  そうなるといよいよ施設での生活が現実味を帯びてきて、新生活への茫漠とした不安が押し寄せてくる。  でもぼくはあまりそのことを考えないようにした。まず具体的なことがまったく想像つかないし、ただただ不安だけが募るだけなのでやめることにした。 (ケ・セラ・セラ。なるようになるわ)  なるようにしかならない人生の流れに身を任せてしまおうと思った。じつはぼくってヘンなところ鈍感力の強い人間なのかもしれない。 「僕たちもさっき担当の看護婦さんに聞いてね。そろそろ退院だって? 過呼吸の方もたいしたことなくて本当によかったよ。でももうしばらくギプスは外せないんだってね?」 「はい」  福祉司の塚原さんが相変わらずの丸い笑顔を遣す。  今日は心理司の中本さんと一緒だけれど、昨日は施設の専属弁護士の村田さんと来ていた。村田さんはまだ二十代くらいの若い女性で、悟さんが書類送検されたことを遠慮がちにぼくに伝えた。  送検。  お母さんのときにも何度も耳にした言葉だけれど身内に使われるとやっぱりこたえる。しばらく思考停止してしまう。そのときのぼくもきっとそんな顔をしていたのだろう。気遣うように村田さんは続けた。 『執行猶予付きにはなると思うの。ただ、実際には裁判所があなたへの虐待をどのくらい深刻に受け止めるかでだいぶ判決が変わってくると思うんだけど』  塚原さんも村田さんも、悟さんの刑罰に関してはぼくにどう説明すればいいのか途方にくれているようだった。ぼくと悟さんの関係は複雑でややこしかったし、ぼくも彼が実刑を受けることを望んでもいなければ嬉しくもないのだから、それもしかたなかった。もし彼が刑を受けるならばできるだけ軽い方がいい。もう二度と会いたくはないにしても。ぼくの望みはそれだけだった。 「退院の目処もたったことだしね。今日はこれから、きみが生活する場について話をしようと思うんだよ」  塚原さんが口を切った。  ぼくは頷いた。そろそろ来るころだろうと思っていた。 「ぼくはそちらの施設で預かってもらえるのでしょうか?」  これまで勝手に預かってもらえると信じきっていたけれど、よく考えればきちんと確認をしていなかったので念のために訊いた。ここで、いやそれはちょっと、などと答えられたらものすごく困ってしまう。 「それはもちろんだよ。まずは一時保護所になるけどね」  塚原さんの即答にほっと胸を撫でおろした。よかった。行き場があって。 「でもね、もしかしたらきみは、そこに行かなくてもいいかもしれないよ」  急にそんなことを付け足す。ぼくは視線をあげて二人を見比べた。 「早くもきみに、里親を申し出ている人たちがいるんだよ」  塚原さんが頬を緩めて、心なしかめでたそうに続ける。 (――ああ…そうか。そうなのか)  工藤だ。  ぼくがいらないって言ったのに里親申請したんだ。まったく、なんてあいつらしいんだろう。正義漢まっしぐらの遠山の金さん。 「それは、工藤でしょうか?」  ぼくの問いに塚原さんが深く頷く。  やっぱり、そうか。  工藤の熱意と執念を思ってしみじみと感嘆した。そうそう簡単には諦めない粘り強さがあるんだな、あいつには。きっと将来はたくさんの困った人間を助ける仕事に就くに違いない。  それにしても塚原さんの声のめでたげな響きから察するに、ぼくは工藤のところに行くことを期待されているのだろうか。そう考えて気持ちが沈んだ。きっとぼくが工藤の家に行きたくない理由なんて、他人に説明したところで前向きな理解などしてはもらえないだろう。 「それと、もう一組あるでしょう。塚原さん」  中本さんが続ける。  もう一組…? 「うん…まあ」 「あとは、高橋君だよ。きみと仲良しの」  中本さんが微笑する。  …タカハシ?  今度こそ、ぼくの体が硬直した。しばらく息をするのも忘れるくらいだった。 「タカハシが?」  声に力が入らない。溜め息みたいな声が出た。 「うん。そうだよ。彼から聞いてない?」 「はい」  全然。  まったく。 「そうなの。工藤さんよりも早く申請したくらいなのにね。厳密には、申請人は彼のおばあさんだけどね」  中本さんが続ける。  そんな。  タカハシ。  胸が熱く鼓動する。  強烈な衝動が全身から勢いよくわきあがってきて、いますぐ彼に抱きつきたかった。魂ごと彼を抱きしめたかった。  塚原さんが口を開く。 「もちろん、きみが里子になりたいと思えばそういう道もあるということであって、施設に来てくれたってかまわないんだよ。それに僕たちとしても、例えばきみがまだ未就学児とか義務教育の期間ならば、まずはこちらで引き取ってからゆっくりと里子の件を考えるところだしね」  ぼくの感じる限り、中本さんと比べて塚原さんはタカハシの申請を快く思ってはいないようだった。 「でも佳樹君ももう十七歳だしね。知らない人間ばかりの保護施設に来るよりは、親しい友達のおうちに里子として行く方がかえっていいのではないかと、まあ、我々としてはいまのところ、そう判断しているんだ」 「そうなんですか…」  耳にしていることの実感がわかず、まだ、茫然としていた。塚原さんが続ける。 「つまり現段階できみには二組の里親申請があって、端的にいえばきみは択べる立場にあるわけだ。ただね、」  声のトーンが数段落ちた。予想通り、こんな言葉が続く。 「僕は個人的に、工藤さんのお宅をお勧めしたいよ。なぜなら高橋さんのお宅は今、成人者がおばあさんだけなんだ。つまり、まだ未成年者であるきみを養育する立場の人が高齢者お一人っていうのがね、まあ、言ってみれば不安要素で。工藤さんのお宅はその点、ご両親もいてきみをきちんと養育できる条件が揃っている。その点で我々も安心して預けられるというわけで。…あと、もう一点の気がかりは、やっぱり高橋君との関係だね。彼はまあまずきみと一緒にいたくて申請を思いついて動いたんだろうけれど、それだって恋愛がうまくいっているうちはいいよ。でも、そうじゃなくなったときにね、きみの生活や精神が不安定になってしまうんじゃないかと、それを一番心配しているんだ。ごく個人的にだけどね。別に、彼とは一緒に暮らさなくたってお付き合いはできるわけだしね?」  相変わらず遠慮会釈なしな感じでストレートに言う。 「でも」  中本さんが口を挟んだ。 「高橋さんのお宅も、ご両親が海外にいるだけであって別に悪いご家庭ではないし、今回の件についてはご両親の承諾もちゃんと得られているから、高橋君はかなり本気だと思うよ。だから、きみさえ望めば里子になって大丈夫だ。安心していい。確かに、ぼくたちから見て条件が揃っているのはどう考えても工藤さんのお宅だけれど、でも一番大事なのは、佳樹くん自身の気持ちだから」  つまりぼくさえ望めば、タカハシの家に住めるということだった。にわかには信じられないことだけれど。 「ねえ、佳樹君。きみはこれまでだいぶつらい思いをしてきたことだし、ここらへんで思いきって自分の願望通りにしてみたらどうだろう? きみは若いのだし、もし万が一にも今回のことで失敗したって、それこそそのときに施設に来ればいいんだよ。これからだって僕たちはずっときみを支えてゆくわけだし、いずれにしてもきみにはいつだって逃げ場がある。そのことだけは絶対に忘れないでいてほしい」  中本さんの穏やかな口調は、深く心に滲み入ってこの上なくぼくを励ましてくれた。  それはあのピンクの看護婦の「今日も彼氏来るの~?」という言葉の裏に、応援しているよ、というメッセージが込められているのを感じて、恥ずかしくって困りながらも嬉しさに胸が熱くなるのに似ていた。  ぼくはここに来て初めて大人たちの親切というものに触れていた。  そして中本さんは感じ取ってくれているのだ。  ぼくのこれまでの苦しみがどうやったら昇華できるのかを。  幸せな家庭に預けられることでぼくの心の傷が癒やされてゆくなど、とうていないことを。  この数ヶ月間――いや、きっとそれ以前から、ぼくは受動的にさまざまなことを「受ける」立場でい続けてきた。両親の事件も、それによる周囲の反応も、悟さんとのセックスも――どころか、この呪われたと信じきっていた命さえ、ぼくはしかたなしに受けてきた。  それらによって受けた傷は、もはやこれ以上なにかを「受ける」ことで癒えはしない。たとえそれが理想的で幸福に満ちた家庭だとしても。そのなにかが他人からみてどんなに恵まれた養育環境であるとしても。それらが「与えられるもの」である以上、ぼくを真に救いはしないのだ。 (自分の望むようにしてみたら?)  そう言ってくれた中本さんは、分かってくれているのだろう。  ぼくが自分から欲して行動しない限り、真にぼくが救われることはないのだと。  とりもなおさず、このぼくを救い出せるのは、タカハシしかいないんだってことを…。  あのまばゆい宝石を目の前に差し出された気分だった。  あとは自分で腕を伸ばして手に取ればいい。  けれど、それでもぼくはまだほんの少し手前でためらっている。それはまるで明るい日差しを直視するのを畏れて、そっと目を側めでもするように…。

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