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第3話 カイル:そして薔薇の花が飛び出した

 イドリスは気にしないといったけど、マギシアターの入口をくぐりながら僕はすこし落ちこんでいた。二日酔いの頭痛はだいたいおさまったけど、それ以前から失態が多すぎる。マギシアターに行くとイドリスに伝え忘れていたことも、時計塔のことも、仕事でこんな調子だったら嫌味な上司から小言をもらうこと確実だ。  それはそうと、マギシアターは大きくて立派な建物だった。入場がはじまると正面の大扉が開け放たれ、観客は赤い絨毯が敷かれた通路をぞろぞろと進んでいく。壁は暗幕で覆われて通路の先の方は見えない。ロビーはどこだろう? |魔術劇場《マギシアター》というだけあり、ふつうの劇場とはちがう作りなのだろうか。 「へえ、正面の入口はこうなってるのか」とイドリスがつぶやき、小さく口笛を吹いた。全員が中に入ると大扉がゆっくり閉じていき、はるか頭上で星のような白い光がいくつもまたたいている。  観客はいっせいに上を見上げた。もちろん僕も。  するとふいに頬を風が撫でていった。建物の中にいるはずなのに夜空の下に立っているような気がして、思わず視線を戻したそのときだ。暗幕がすうっと透けて、周囲に街があらわれた。  僕らは感嘆の声をあげてあたりを見回した。空の色がすうっと変わり、夜明けから昼の明るさに、さらに夕暮れの色へ移り変わる。僕ら観客がいるのは王城の手前にある広場だ。  いったいどこまでが舞台装置で、どこからが魔術による眩惑なのだろう。本当に街の中にいるみたいだった。でも僕は広場の向こうにそびえる城門にかすかな違和感をおぼえていた。  塔の数が少ない――?  ふいに上から柔らかな声が降ってきた。 『ようこそマギシアターへ。わたしは当劇場の支配人です。ただいまみなさまがいらっしゃるのは百年前の王都でございます』  そうか! 僕は大きくうなずいた。塔の数が少ないはずだ。今の王城は百年のあいだに改修や増築を重ねている。過去にさかのぼって再現しているのだ。すごい!  感心しているあいだも声は続いた。 『これよりみなさまが目撃するのは、かつて本当に起きた事件にまつわる物語。まずは燈火祭の前日、王城で起きた大胆な事件をごらんください』  すると城門のあたりで騒ぎがおこった。巨大な黒い鳥――いや、漆黒の凧が城から舞い上がったのだ。 「王妃よ、美しい花々をありがとう」  凧から男の声が響いた。思わず聞き惚れてしまうような美声である。間髪入れず城の奥で「怪盗が! 王妃様の宝石が!」と女性が叫ぶ。  衛兵が数人城壁の上を走り抜け、凧はすぐに逃げると思いきや、からかうようにくるりと宙を舞った。すると城門の上に騎士のマントを着た男があらわれた。長い弓を手にして、背には矢筒。 「逃がすか、怪盗ジャック!」  しかし怪盗は飄々とした口調で騎士に告げる。 「ロビン君じゃないか! ひさしぶりだね」 「今度こそおまえを捕えてみせる」  騎士は冷静な表情で弓を引き絞ると、凧に向かって矢を放った。きらりと光る先端は黒い翼に命中する。僕らは思わず「おお」と声をあげた。凧はどさっと城門に落下し、衛兵が駆け寄っていく。 「隊長、やられました! これは人形です」  騎士ロビンは肩をいからせたが、大股で落ちた凧のそばに行った。怪盗人形をひろいあげ、乱暴にその体から何かをむしりとる。  ところがそのとき広場の方から(僕らのすぐ近くから!)怪盗ジャックの声が響きわたった。 「ははははは……残念だったなロビン君。私にまた会いたいか?」 「そこか!」  騎士ロビンが僕らの方へ走ってくる。その手はぎゅっと黒い鳥の羽根を握りしめている。進路をふさぐまいとして観客は自然に左右に分かれ、道ができた。とそこに、黒いコートに帽子をかぶった長身の男が立っている。帽子には黒い鳥の羽根。 「ロビン君、私のかけた謎が解けるかな?」  怪盗ジャックは優雅な手つきで帽子を脱ぎ、とたんに黒い鴉が何羽もあらわれて、僕らの頭上を飛び回りはじめる。くちばしが奇妙な形をしていると思ったら、何か咥えているようだ。 「ここまでおいで」  怪盗はにやりと笑って走り出した。 「追え、街を封鎖しろ!」  騎士ロビンが部下に命令する。直後、あたりが真っ暗になった。 『さあ、物語がはじまりました』  柔らかな声が僕らの頭上から降りそそぐ。マギシアターの支配人だ。 『怪盗を追うか、騎士についていくか、それとも百年前の王都を探検するか――これからどこへ行かれるかはみなさまの自由です』  薄明かりがほんのりと僕らを照らし、騎士ロビンと衛兵たちにスポットライトが当たる。彼らはそのままの姿勢で彫像のように固まっていた。怪盗ジャックが去った街の方向にもスポットライトが当たっている。彼はあそこにいるということか。 『ただしひとつだけお願いがございます。この物語はお客様おひとりおひとりが紐解いて体験するもの。お連れ様とはいったん分かれ、それぞれの冒険をお楽しみください。それでは……3、2、1――』  ゆっくりしたカウントダウンのあと、急に世界が動き出した。鴉が大きな声で鳴き、くちばしに咥えていたものがひらひらと落ちる。カードだろうか。 「拾ってくれ!」と騎士ロビンが叫んだ。真っ先に動いたのはノルベルトで、足元のカードを拾うとそっちへ駆け寄った。 「ジャックは宝石を街に隠している。我々を攪乱してその隙に逃れるつもりなのだ」  ロビンはノルベルトをみつめていった。精悍な顔つきで、俳優だけあって男前だが、ノルベルトも負けていないと僕は思い、ちょっと感心した。 「あなたは何という?」  ノルベルトはとまどった声で返事をした。 「ノルベルトだが……」 「ノルベルト、ここで会ったのも何かの縁だ。手伝ってほしい。鴉のカードはジャックの残した手がかりだ。すべて拾い集めなければ」  そうか! 観客が物語に巻き込まれるって、こういうことなんだな。そしてスポットライトの当たっているところで物語が進んでいるってことか。  ノルベルトやその他の観客は騎士と共に手がかりを集めはじめたが、僕は他のスポットライトへ目をやった。どうしよう、せっかくだから怪盗の様子を見に行きたいが―― 「イドリス、きみはどうす――あ」  隣にいると思いこんでいたが、イドリスはもう踊るような足取りで広場から街路へ向かっていた。一方騎士ロビンには兵士の報告が入った。 「わかった。急ぐぞ!」  ロビンが広場を抜けていくと、ノルベルトをはじめとした観客がつられたようについていく。よし、僕も行くぞ!  街のあちこちで人の声や馬車の音が響いている。僕は怪盗のいた方向へ早足で向かった。たとえ芝居だとしても、百年前の王都を探検できるなんて、なんてわくわくすることか!    *  ――と、そう本気で思ったときもありました、が…… 「ハ、ハァ、あ――……つ、疲れたぁ……」 『王妃の薔薇』が終幕したいまは、劇場近くのカフェで椅子に座ってへばっている僕を、ノルベルトとイドリスが生暖かい目でみつめているのだった―― 「カイル、大丈夫か? 劇の途中で怪我とかしてないな?」  僕があまりにくたびれているせいか、ノルベルトの目つきは心配そうになってきた。僕はあわてて答えた。 「まさか、僕が運動不足すぎただけだ! あんなに走るとは思わなくて……」  イドリスがふふっと笑う。 「じゃ、早く栄養補給しないとな」 「イドリスだって細いのに!」 「オレは栄養足りてる。あ、注文お願いします」  白身魚とポテトのフリット、メープル仕立てのハム、ソーセージのパイ包み焼き、デザートにはアイスクリームとビスケット。飲み物はお茶だけ、まだ夜には早いからホットワインもビールもなし。 「ほらほらカイル、たんとお食べ」 「イドリス、母親みたいなこというなって!」  そうぼやいてみたものの、食べ物を待っていたのは僕だけじゃなかった。まったく、観劇でこんなに空腹になるなんて思うだろうか。 「疲れたけどほんとに面白かったよ」  人心地ついてデザートのアイスクリームをゆっくり食べながら、僕はしみじみといった。 「最後はびっくりしたけどさ。ノルベルトが騎士ロビンの相棒になってるなんて!」 「ああ…いつのまにかそんなことになってた。俺はあの騎士の謎解きに協力していただけなんだが」 「怪盗に相棒が加わることもある」とイドリスがいった。 「筋は決まっているが、観客も芝居の一部になるからまったく同じ公演は一度もない。これが人気の秘密さ」 「って、イドリスは前に見たことがあるのか?」  僕の問いにイドリスはふふっと笑う。 「いや、実は関係者に知り合いがいるんだ」 「あ……そうなんだ」 「ああ。だから一度見に行こうと思っていたんだ」  そうか。だから――  僕の頭に劇場で目撃したとある光景がよぎったが、そのときノルベルトが「カイルも人質にとられたじゃないか。あれには仰天したぞ」といった。 「あ、あれ? 僕もビックリしたけど、どうせお芝居だしさ。怪盗に助けられるとは思わなかったけど」 「俺もだ」 『王妃の薔薇』はなかなかこみいった話だった。王妃の宝石を取り返すために、騎士ロビンは怪盗ジャックが残した謎を追う。ところがその過程で他国に操られた組織の陰謀に気づくのだ。騎士に暴かれた組織はやけっぱっちになって通行人から人質をとる。それが街路に突っ立っていた僕だった、というわけである。  運動不足でどんくさい文官にふさわしい役どころだって? でもあのときはタイミングが悪かった。とあるシーンを目撃してビックリしていたのである。  そのことについてたしかめたいのだが――と思いながら、僕はイドリスをちらりとみた。鮮やかな緑色の眸をいたずらっぽく輝かせながら笑っている。  数年前は細身の美少年だったけれど、今は美青年という感じで、そこはかとない色気まで感じる。ノルベルトのやつ大丈夫かな? と思ったのは余計なお世話で、テーブルを挟んで向かいあった様子は高等部のころと変わらない。  なるほど、といまさらのように僕は納得した。あの頃もこんな調子だったから気づかなかったのだ。ノルベルトがイドリスを好きだったって。 「怪盗ジャックが銃を撃ったときは驚いたな」  ノルベルトは本職の騎士だけあって、芝居の中で登場した武器に興味があるようだ。 「魔術の幻影なのだろうが、弾が命中した様子が本物のようだった」 「からくりがたくさんあるのだろうね」 「騎士ロビンがカイルを抱き上げた時はやたらと悲鳴があがっていたぞ」 「お似合いだったから?」 「ふたりとも、そこはもういいよ!」僕はあわててさえぎった。「あの俳優さん、人気あるみたいでさ」 「うん、甘いマスクの美形だったね」とイドリス。しかしノルベルトは「演技はいまひとつだったな。台詞回しが大げさすぎる」と論評した。  僕は吹き出した。 「バディに冷たいな」 「プロの役者だろう」  さすが芝居好きというべきか、評価が厳しい。いや、イドリスが美形って褒めたせいかもしれない。でも実際、かなりの美形だったのだ。ほんのちょっとだったけど、まっすぐみつめられたときは僕もくらっとしたくらいだから。  人質を助けたあと、物語はこうすすむ。――騎士ロビンは謎を解いて宝石箱をみつけ、怪盗ジャックを追いつめる。しかし怪盗は「今度はきみの勝ちだな」と捨て台詞をはいてぎりぎりで逃げ出していく。  これで事件は解決したと、僕らは騎士ロビンとともに王城前の広場に戻る。ところがロビンが宝石箱を開けると、宝石のあいだから無数の薔薇があふれ、雨のように広場に落ちてくるのだ。さらに純白の鳩が空から舞い降り、宝石箱からもっとも高価なペンダントをかすめとっていく。 『これは土産にもらおう! 騎士ロビン、また会おう!』  怪盗の最後の台詞と薔薇の花に囲まれて、物語は終幕となる。  ほんものの魔術と演劇の魔術が組み合わせられたすばらしい舞台だった。騎士ロビン(俳優)がノルベルト(本物の騎士)とタッグを組んだのも、なかなか胸アツな展開だった――そう思い返していると、横からおずおずとした声が聞こえた。 「あ、あの……さっきのお芝居に出られていましたよね?」  隣のテーブルでお茶をしていた女性たちのひとりが、ノルベルトに話しかけている。 「いや、俺はただの観客です。たまたま騎士ロビンの相棒をつとめただけで」 「え、そうなのですか! ごめんなさい、てっきり本物の俳優さんだと思っていました。最後、主役のみなさまとご一緒でしたし…」 「俺もびっくりしましたよ」  ノルベルトは愛想良く答えた。  騎士役の俳優ほど美形じゃないが、ノルベルトもいい顔をしている。背も高くて目立つし、何よりも本物の騎士で、育ちもいいから、こうしてご婦人に話しかけられても堂々と対応できるのである。イドリスがその様子をみてニコニコしているので、僕はふと思い出した。そうだ、今のうちに―― 「イドリス、あのさ」 「ん?」 「関係者に知り合いがいるって……もしかして怪盗役の人?」  イドリスはふふっと微笑んだ。 「なぜそう思った?」 「一緒にいるのを見た気がして……それに銃を撃ったときさ……イドリス、肩貸してなかった?」  イドリスの目がきらっと光った。 「よく見てたな。どうもオレはちょうどいいところにいたらしい」  ちょうどいい? しかしただの観客にそんなことをするだろうか。それに僕はとある路地で、怪盗がイドリスにささやきかけるのを見たと思うのだ。びっくりして立ち止まったところを人質にとられてしまったというわけである。 「それって……」  僕はさらに何かいおうとしたが、ノルベルトが振り向いたので口をつぐみ、ごまかすように笑った。 「ノルベルト、すごいね。俳優だと思われるなんて」 「たいしたことじゃない。それよりイドリス」  ノルベルトは少しあらたまった声になった。 「今夜は時間あるか? ひさしぶりだから、このあと飲みに行かないか」  イドリスは爽やかに笑った。 「悪い、今日はこのあと行くところがあってさ」 「……そうか」 「イドリス、まだしばらく王都にいるんだろう?」と僕はたずねた。「ノルベルトがいるあいだに会おうよ」 「それはいいな。王都なら手紙もすぐに着くし」とイドリスが答える。「今日はオレ、そろそろ行かないと」 「じゃあそこまで一緒に」ノルベルトが腰を浮かせた。  うーん、ノルベルト、次に会ったときに告白するつもりなんだろうか。それなら僕も気を遣った方がいいだろうし、どうしたものか。  会計をすませながら僕はそんなことを考えていた。カフェの外に出るとすっかり暗くなって、通り沿いの店のウィンドウがきらめいている。  イドリスはカフェからさほど離れていない路地の入口で立ち止まった。 「オレ、こっちの方なんだ。じゃあ」 「あ、ああ……」 「カイルもしっかり食べるんだぞ」  イドリスは路地の奥へ歩いていく。僕は通りを行きかけたが、ノルベルトがついてこないことに気づき、あわてて数歩戻った。 「ノルベルト、どこへ……」  声をかけたときにはもう、ノルベルトはイドリスが消えた路地の奥に向かっていた。あらら。  僕はいそいでノルベルトのあとを追った。ほとんど街灯のない路地は暗かったが人通りは意外に多かった。何かいい忘れたことでもあるのかもしれないが、はぐれると面倒だ。そう思って小走りしたら、急に立ち止まった大柄な背中にぶつかりそうになる。思わず文句をいいかけて、僕は口をつぐんだ。  ――あれは怪盗?  シルエットに間違いはないと思える。すぐそばにイドリスがいる。怪盗はイドリスより頭半分ほど背が高かった。イドリスの腕が怪盗の肩に回される。抱擁しているのだ―― 「ノルベルト」  僕はノルベルトの腕をつかんだ。 「ノルベルト、行こう」  ノルベルトはその場に固まっている。 「……次に会った時に話聞けばいいだろ。いくよ!」  やっとノルベルトはふりむいた。 「……カイル」 「何」 「このあとは暇か?」 「あ……暇っていえば暇だけど……」 「……飲みにいかないか。おごる」  ノルベルトの顔をみて僕は観念した。色々な意味で。 「わかったよ。でも僕は飲まないからね! 話を聞くだけだ」  二日連続二日酔いはシャレにならないと僕は宣言する。ノルベルトは重々しくうなずいた。 「それでいい。……ありがとう」  あとで考えると僕は愚かだった。ビールなしでノルベルトの恋バナ――失恋の危機も含む――につきあえると思うなんて!

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