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 老婦人の御用聞きで遠夜が忙しいのは夜明けから夜の九時まで。観劇や音楽会の終わるこの時間になると、あとは看護師に任せて翌日の夜明けまで解放されることになる。  朝から着ていたスーツを変えて、ひと息つける時間だ。もっとも二十二時にはデッキのプールやジャグジーも閉まり、二十三時にはジムが終わる。疲れているはずなのに遠夜は不眠気味だった。この稼業に必要な素質は「どこでも眠れること」なのに、船の環境のせいか、老婦人のいう通りスイートルームに問題があるのか。  とはいえ自分のような乗客は珍しくもないらしい。何日か過ごすうちに、この時間になると、カードルームやライブラリーのバーで眠れない男女が密やかな交流を繰り広げていることに遠夜は気づいた。ランチやディナーの席で家族と一緒にいた男女がひとりで、あるいは他人と連れ立って徘徊しているのだ。  あきらかに新婚の夫を部屋に残して、デッキから海を眺める若い女。夫婦で乗船しているにも関わらず、深夜にだけ会って親しげに話している壮年の男たち。  海の上を漂う船は陸の出来事から切り離されている。衛星経由でネットにつなぐことはできるが、船は閉じた世界のようなものだ。隔絶された場所でさまざまなドラマが起きるは当たり前のことだろう。遠夜自身も例外ではなく、深夜のバーの顔見知りは簡単にできた。  その男に話しかけられた時、遠夜はいささか動揺していた。といっても、遠夜以外の人間には何が起きたともわからなかったはずだ。金ぴかのカジノの奥で、慣れない手つきでチップを並べていた青年が、長らく消息を知らされない友人を思わせた、というだけのことだったから。  もちろん遠夜の錯覚だった。たしかにその青年には|星《セイ》の面影があったが、遠夜を見ても何の反応も返さなかったし、隣には妻らしき女性と小さな子供がいた。  いや、遠夜も星も、家族がいてもおかしくない年齢ではある。だが結局、ひとちがいだったのだろう。はしゃいだ子供が床に落としたチップを遠夜が拾い上げたとき、礼をいったその声はたしかに星だと思ったのだが。  家族連れが遊ぶには遅すぎる時間になって、その一家はカジノから消えた。遠夜はデッキに出てしばらく暗い海を眺め、それから舳先に近いバーへ行った。 「夜の海は、陸からみるのと海からみるのとでは、かなりちがう印象があるものだよ」  その男の第一声はこれだった。しばらく自分の横に誰かいることは気づいていたが、それを聞いてやっと、遠夜は相手をするつもりになった。 「どうちがうんだ?」 「陸からみた夜の海は吸いこまれそうになる。死にたい誘惑を我慢している人間には危険なものさ。だが海の上では……そうだな、誰かを殺したいときはここに連れて来ればいい、その程度のことしか思わなくなる」  冗談にしては物騒だったが、口調はいたって穏やかだった。遠夜より十……二十歳近く年上かもしれない。国籍不明の顔立ちで、時計を見るだけで相当な資産家だとわかった。 「物騒だな」 「船は特別な場所だということさ。たまに奇跡のようなことも起きる」 「ふうん」  その日はそれだけだった。だが翌日の朝、遠夜はスイートルームの客しか入れないデッキでその男をみかけ、部屋が近いことを知った。また夜が来ると別のバーで顔をあわせ、話をするようになった。  すぐにわかったが、男は海運業で名だたる財閥の血を引く人間だった。 「ありがたくも子供のころから、何かに困ったという経験がなくてね。この年まで呑気に生きてきたし、これからもそうだろう。勤勉な親族からは放蕩者と呼ばれるが、たいした贅沢もしていない」 「スイートルームでクルーズしているのに、たいした贅沢じゃないと?」 「自分の船でもジェットでもないのに?」  きょとんとした顔で問い返されて、遠夜は苦笑をこらえた。この人物は遠夜が任務で潜入した大型ヨットの持ち主と同類の金持ちだ。 「私は舵のない船のようなものさ。運航に困りはしないが、定まった航路も目的もない。だが海に出ると予期せぬ出会いがあってね、それが楽しくて繰り返してしまう」  それから男は十代のころ、両親と共に乗ったクルーズ船の話をはじめた。初めてのクルーズ旅行だったが、体力を持てあます十代には退屈すぎたこと。しかしある夜、父親がさんざんカモられたカジノで、魅力的な男に出会ったこと。 「彼はいわゆるハスラー、今はあまりこの言葉をその意味で使わないが……詐欺師と紙一重の放蕩者だった。私とおなじように富豪の家に生まれ、スポーツも芸術も一通りわかっている教養人で、ジャーナリストでもあった。上流階級のゴシップを記事にしていたんだが、権力者とも親しかったし、彼に書いてもらえるのはほとんど名誉なことでもあった。口もうまくて、カモられた父親をなだめるやり方も一流だ。私はたちまち魅了されてしまった。その場で恋に落ちたようなものでね、船に乗っているあいだずっと、彼に憧れてついて歩き、仕草を真似した。今でも鮮やかに記憶する出会いだよ。海の上ならではの……」 「海の上でなかったら、そうはならなかった?」 「陸のリゾートなら十代の子供など相手にしてくれなかったさ。今は私も、彼が感じていたことを推しはかれる年齢になってしまったが……」  男はしみじみとつぶやき、グラスを置いた。 「きみはどうだ。白の女王に仕えるのは大変だろう?」  白の女王? 遠夜はきょとんとして男を見返した。 「意外だな。あの御方がそう呼ばれていると知らない?」 「……俺は臨時雇いで、船の上だけの担当なので」 「ああ、そういうことか」  男の顔に笑みが広がる。 「だったら私の下心も許されるかな」 「下心?」 「気づかなかったかい?」  遠夜は男と目をあわせる。絡みあう視線がたちまち秘めていた欲情を刺激した。船に乗ったのは十二月二二日、新年は海の上で迎えることになる。最後に誰かと寝たのはいつだったか。たしかハロウィンのあと、クリスと……。  意識したとたん人肌が恋しくなった。目の前の男にはどこまで自分の欲望が見えているのだろう。 「どこで?」  遠夜はグラスを置く。つぶやくような小さな声も男は聞き逃さなかった。 「私のスイートでも、きみのスイートでも、好きな方で」 「……俺の部屋は借り物だから、あなたの方で」  男はふふっと笑った。 「ここでは何もかもがかりそめのものだ」

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