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第4話

 だから俺たちはまた、山のふもとの森に来たのだ。  戦争は事実上狼族の勝利だった。狼に有利な条件で和平が結ばれ、天人と竜人の対立も、竜人が優勢な方向に傾いたという。  砧と俺は以前のように汽車で俺の故郷の山へ行った。夏はもうおわろうとしていた。村へつくと砧は長老に会いに行くという。俺はキャンプの荷物を先に運んでいるつもりだった。ところが砧は俺も一緒に行くというのだ。  長老の家まで俺は飛べない。そういおうとしたら、背後から伸びた腕に抱きしめられた。気がつくと俺は眼鏡をかけたまま空を飛んでいた。他の鷲族が唖然としてこっちをみている。砧は巨大な黒い翼を広げ、悠々と鷲族を追い抜いた。そして俺を抱きかかえたまま長老の家の前に降りたのだ。  また採集の許可をもらうのだと砧がいったので、俺は外で待っている、といった。長老には会いたくなかった。砧はみょうに計り知れない眸で俺をみて、その方がいいかもな、といった。  砧を待っているあいだ、鷲族たちは俺を遠巻きにして近寄らなかった。やがて砧が出てきて、何もかも片付いたという。戻るときも俺は砧の腕に抱かれていて、鷲族がこわごわと遠くを飛んでいるのを面白いと思った。そして、俺がもし自分で飛べたなら、こうやって砧に抱きしめてもらえることもなかったと気づいた。  夏の終わりの森で、逆棘の木は好き勝手に生い茂っていた。鷲族は戦争のあいだもそのあとも、あまり見回りをしなかったようだ。俺は砧を手伝って、棘に触れないようにしながら幹から苔を剥がし、標本箱に入れた。最初のこの森へ来たときからずっと、砧は何種類もの苔を集め、月の研究所に送っている。月人の病を治す特効薬になるかもしれないというのだ。獣も鳥も近寄らない逆棘の木だからこそ、他の場所にはない特別なものがあるのだという。  日が暮れると採集はおわって、俺たちはキャンプの用意をする。砧と森で食べると、たいていのものが美味しく感じるから不思議だ。竜人の基地の家の食事もうまかったけど、固形燃料で温めた食べ物を砧と分けあっていると、単なる味を超えた満足感で胸の中がいっぱいになる。  それからふたりでテントに入る。テントの中は砧と俺の匂いと、集めた苔やその他の植物の匂いがまざりあっている。  いつもなら、テントに入った砧は手帳に記録をつけはじめる。でも今日は筆記用具を取り出そうとしなかった。俺に新しい眼鏡をくれただけで。  俺は寝袋の上にすわって、もらった眼鏡のケースを手でくるくる回していた。砧がわざわざ俺のために作ってくれたというのが嬉しくてたまらなかった。砧を好きでよかったと思ったし、このままでいいと思った。来年もまた砧は森へ行くだろう。俺も一緒に行くことができる。  だからこのままでいいのだ。何もいわなくていい。想いを告げても、どうにもならないのだから。 「砧」  つぶやくように名前を呼んで、顔をあげると、砧の顔がすぐそばにあって、どきっとした。 「ん?」 「来年の夏で八年目だ。おまえが森に来るのが……来年は珍しいものが見られるぞ」 「何が?」 「逆棘の木が実をつけるんだ」 「――なんだって?」 「逆棘の木は八年おきに実をつけるんだ。花が咲くのは秋のおわりで、春から夏に堅い赤い実がなる。綺麗だけど食べられない。でも八年に一度だけ、森は宝石箱みたいに見えるんだ。ほんとに綺麗な色だから。来年、見られるぞ」  きっと喜ぶだろうと思ったのに、砧があまりにも憂鬱そうなので、俺の声はだんだん小さくなった。砧の唇がすこしだけひらいた。 「ゴーシェナイト、」 「――なに?」 「残念だが……俺はそれを見られない。来年は……もう俺はここに来ないんだ」 「なぜ?」  思いがけない話に俺の声は大きくなった。 「あの苔は必要なくなったのか? 薬ができたのか?」  砧は首を振った。 「いや。研究はまだまだだし、サンプルも必要だ。来年は俺以外の誰かが来るかもしれない。長老にも今日話しておいた」 「でも、じゃあ、どうして?」 「それは……」  砧は俺から顔をそむけた。 「もうすぐ期限がきて――俺は地上に降りられなくなるんだ」  意味がわからなかった。砧は俺に視線を戻し、苦しそうな目つきになった。 「本当はもっと時間があるはずだった。あと何回か……だが戦争がはじまったせいで、俺は必要以上に地上に留まっていた。竜人が地上にいられるのは合計273日だ。それを超えると俺たちは死んでしまう。だから竜人の兵士は全員交代制で、地上にずっといないんだ」  俺はぽかんと口をあけたまま砧の話を聞いていた。 「で、でも――地上に留まっている竜人だって……いるだろう? ほら、基地の司令官。あの人は?」 「あいつには〝花〟がいるからな」  砧がいった。俺は新聞に載った狼族の若者のことを思い出した。 「花がいたら――なんなんだ? そもそも、花ってなんだ?」  意味がわからないまま訊ねると、砧は肩を落ちつかない様子で揺らす。 「花というのは……つがいに似たものだ。というか、雌雄が関係ないだけで、ほとんど同じだな。地上に花がいれば、月人はずっと地上に留まれる」 「じゃあ、おまえも花を持てばいい」  砧は苦しそうに顔をしかめた。 「花を持つのはそんなに……簡単じゃないんだ。ゴーシェナイト、おまえに会えなくなるのが俺は本当に……残念だ。逆棘の木の実だってみたかった。もしおまえが月に来ることがあったら、歓迎するから――」 「月に行く? そんなことできるわけないだろう。宙船なんて、簡単に乗れるもんか。だいたい俺は月人の言葉なんかわからない――」  俺は早口でいいかえしながら、そういえば基地で竜人の兵士に「おまえは砧の花じゃないのか」と聞かれたことがあったのを思い出していた。俺は月語がわからず、むこうは片言だったし、何か勘違いしているのだろうと思ったのだ。  そうじゃない――今さらのようにその意味に気づいて、俺ははっとした。砧はいま〝花〟はつがいのようなものだといった。あの兵士は俺に、砧のつがいなのかと聞いたのだ。  急に胸の奥がどくどくと脈打ちはじめた。 「砧、その……花って……」  こんなことをいっても大丈夫だろうか。  砧は嫌がるかもしれない。でも―― 「俺じゃだめなのか?」  口に出した瞬間、砧の表情がこわばった。それでも俺はさらにいった。 「俺がおまえの花になる。そしたらおまえは地上にずっといられるんだろう? いいよ。その、つがいのようなものって、何をするのかわからないけど、俺はおまえに会えなくなるのは嫌だから」 「駄目だ」  にべもない口調だった。他の話だったら引き下がったかもしれない。でも俺はなぜかムッとして、気色ばんだ。 「どうしてだよ! 俺に会えなくなるのは残念だっていったじゃないか! 俺に月に来いって! それこそ無茶だよ! だいたいおまえがいなくなったら、俺はこの先――」  この先どうやって生きていけばいいんだ? 口から飛び出しそうになった言葉を俺は飲みこんだ。 「……それとも、駄目っていうのは……俺じゃ嫌だってことか? その、つがいってことは……するんだよな? 俺とはしたくないって……ことだよな……」  俺の声は小さくなった。馬鹿なことをいった――そう自覚したとたん、恥ずかしさで顔が火照った。  当たり前だ。白い髪の、ろくにみえない、飛べない、できそこないの鷲族。砧が俺としたいなんて思うはずがない。砧は村の連中とはちがうのだ。単なる欲望の対象にだって俺を選ぶわけがない。だいたいそんな風に俺が相手になると思っていたら、これまですごした夏のあいだや、居候においてくれたときだって、もっと何かあってもよさそうなものだ。俺は問題外なのだ。花なんて、もってのほか――  考えが頭のなかでぐるぐるまわり、俺はいたたまれなくなった。俺はなんて――なんて馬鹿なんだろう。  ここにはいられない。  眼鏡のケースが落ちたのにも気づかなかった。砧のそばにいるのが耐えられなくて、俺は狭いテントの中で立ち上がりかけ、柱に頭を打つ寸前で気がついてかがんだ。砧が何かいった気がしたが、俺の耳は言葉を聞き取るのを拒否した。テントを這い出し、匂いだけを頼りに森の道を走り出す。 「ゴーシェナイト! 待て――」  テントの方から声が響く。俺は止まらなかった。  森は夜露と草木と土の匂いがした。月が出ていても視界はぼんやりして、木々や茂みはにじんだ影にしかみえない。匂いだけが頼りだ。古い眼鏡もかけてこなかったことをいまさら俺は後悔していた。  ほんとうに俺は馬鹿だ。砧にあんなことをいうつもりなんかなかった。俺はただ――夏になったら砧に会えればいいと、それだけを思っていたのだ。砧にそれ以上のことを望むつもりはなかった。  馬鹿なゴーシェナイト。  これからどうしよう。こっそり村に戻ることもできる。でも戦争以来、村は以前にもまして俺の居場所ではなくなってしまった。砧のテントには俺の荷物もある。俺の全財産だ。都市に戻ろうにも、あれがなければ汽車にも乗れない。たとえどうにかして切符を買ったとしても、また職探しからはじめなくてはならない。工房が再開していれば雇ってくれるかもしれないが、それが駄目なら……。  俺は考えながらとぼとぼ歩いた。森の道のことなら俺は知り尽くしている。砧が知らない道も俺は知っている。八年に一度、逆棘の木が実をつけることだって、村の人間だってほとんど知らないのだ。だから砧は俺を重宝してくれた。それだけだ。それだけなのに、俺は自分が砧にとって、もっと意味のある存在だと――思いたかったのだ。  上空でバサッという音が響いた。  俺は上をみあげたが、何もみえなかった。立ち止まり、手をのばして、薄暗い影のように立つ背の高い木に触れる。  匂いを嗅いで方向をたしかめた。どう考えても、眼鏡もなしに森をさまようのは間違っていた。朝まですごせる場所をみつけるか――それともテントに戻るか。  テントはどっちだろう?  ふとそう自分に問いかけて、俺はうしろをふりむいた。眼鏡なしにみる世界はおそろしくぼんやりしていた。ここは――どこだ? 俺は森の道をくまなく知っているはずなのに……?  まさか、迷った? この森で?  ざあっと風が吹いた。  俺は細い道の真ん中に突っ立ち、周囲を見回した。心細い気分がぐんぐんふくれあがり、ぼんやりした世界と混ざりあって、俺を飲みこもうとしている。どうしよう。どうしたらいい?  頭上でまたバサッという音がきこえた。とたんに俺はパニックになった。 「や――来るな!」  悲鳴のような声をあげ、やみくもに走り出そうとしたときだ。 「ゴーシェナイト!」  大きな黒い翼が俺の視界を覆った。砧の匂いが俺を包む。 「ゴーシェナイト。俺が悪かった。逃げるな。逃げないでくれ……」  砧が俺を抱きしめている。そうわかったとたん鼻の奥が痛くなって、こらえていた涙がこぼれた。俺は竜人の翼にすっぽり包まれていた。砧の手があやすように俺の背中を撫で、腰にまきつく。 「砧、おまえが好き……好きだったんだ……」  しゃくりあげながら俺はいった。いうつもりなんてなかったのに、止まらなかった。 「おまえは俺をいらないってわかっても、俺は――」 「ちがう。そうじゃない――」砧の声はながいため息になって、俺の頬に触れた。 「わかった。説明する。竜人の花がどういうものか。それでももし――おまえがいいというなら、ゴーシェナイト、俺はおまえが……ほしい」 「そんなの、いいに決まってる――」 「だから先に話を聞けというんだ。テントに戻るぞ」  砧は俺を抱いたまま翼を広げ、夜空に舞った。  

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