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第3話 滑空の儀式

 きっと俺は、胸の痣が七つそろうことばかり考えて、ぼうっとしていたにちがいない。砧が運転する車が岬に向かっていくときも、遠くを飛んでいる小さな影に気づかなかった。  車はカーブした坂道をのぼっていく。海に突き出した岬の一帯は、背丈の低い木に覆われていた。ひびわれたような赤い樹肌に尖った濃い緑の葉っぱ、幹がねじまがっているのはきっと、海から吹く風のせいだ。 「灯台だ」と砧がいった。 「どこ?」  俺は身を乗り出したが、車はもう次のカーブにさしかかっていた。ぐるっと回りながら坂をのぼる途中で、真っ白の塔が視界の隅を通り過ぎる。 「あった!」  思わず叫んで砧をみたら、やけに嬉しそうな顔をしている。もう一度カーブを曲がると、左側に景色がひらけた。青い海に突き出した崖の先端に、真っ白の塔が立っているのがはっきりみえた。 「ここらで一度停まろうか。いい眺めだな」  砧がいってハンドルを回し、道の脇の空き地に車を入れる。俺は飛び出すように車を下りて、空き地の隅、海に開けた緑の斜面へ走って行った。  灯台が立っている崖は岩肌がむき出しになっている。黒い岩肌をふちどるように緑の木が生えていて、灯台はその上で白く輝いていた。と、黒い小さな影がひとつ──いやふたつ、そこを斜めに横切った。  俺はまばたきして、思わず眼鏡のつるに触れ、もっとよく見ようとした。  ふたつの影は螺旋を描くように絡まりながら、灯台の上へ、さらに高いところへ飛ぶ。ふりあおいで追っていくと、いまや重なってひとつにみえる影は指先よりもっと小さくなったあと、ふいに急降下してきた。灯台にぶつかりそうなほど近づいたあと、ぱっとふたつの影に分かれて、また舞い上がる。 「……砧、俺……ちょっと」  なんだか、喉が乾く。俺は海と灯台に背を向け、車の方へ戻った。  砧が「どうした?」といったのが聞こえたけれど、ふりむいたらまたあの影を見てしまうかもしれない。俺はずんずん車まで歩いて、中にすべりこむ。 「ゴーシェナイト?」  座席にすわって、俺は眼鏡をはずした。たちまち世界はぼうっとかすむ。今なら海の方をみても、あの影も灯台も、ぼんやりした白いかたまりにしかみえないだろう。  バタンと音が響いて、砧が運転席のドアをあけた。 「どうしたんだ? 具合が悪いのか?」 「ううん。ちょっと……いや、なんでもないよ」  俺は口の中でもごもごいったが、砧が納得していないのは明らかだった。 「その、螺旋飛行がみえたから」  砧は運転席から俺の方へ身を乗り出す。 「螺旋飛行?」 「鷲族の求愛の儀式なんだ。変身して、つがいになってほしい相手と一緒に、爪を握りあって飛ぶ。滑空して、急降下して、くるくる回って……どれだけ一緒に飛べるか、おたがいを試す」  俺は淡々と説明したつもりだったけど、自分でも声が暗くなるのがわかった。  螺旋飛行は故郷の村で暮らしていたころ、毎年のように見た。村の近くのひらけた場所でやることもあるけど、このために遠くまで行く連中もいる。さっきの鷲族が俺の故郷と関係あるとはかぎらないけれど、ひょっとしたらそんなこともあるのかもしれない。  ほんの小さな雛だったころは、いつかは俺もあんなふうに、つがいになりたい相手をみつけて飛ぶんだって思ってた。そんなことは絶対起きないんだってことは、自分が飛べないと知ったあとは、だんだんわかったのだけど。  それに螺旋飛行をするのはつがいを望む雌と雄だけにかぎらない。雄同士で飛ぶこともある。親しい友だちと一緒に、翼の限界に挑戦するのだ。  螺旋飛行ができればほんとうの一人前──たとえつがいをみつけられなくても、鷲族の村で大人として扱われる。成功した二人組はすぐにわかる。どちらも興奮して、とても嬉しそうで、生き生きした顔をしている。  ぽつぽつと説明しているあいだ、砧はうなずくだけで、何も口を挟まなかった。それなのに俺はだんだん悲しくなって、嫌な気分になった。  理由は簡単、鷲族として、俺は一生はんぱものなんだってことを思い出してしまったから。何年も忘れていたのだ。都市で働いていたときは空を飛ぶ鷲族を見かけることもなかったし、岩山のふもとの森からは、木の枝にさえぎられてまずみえない。  でも俺がひとりでいたあいだも、鷲族はみんなああやって、つがいや友だちをみつけていた。そう思うと──  もちろんそんな余計なことは、砧には一言もいわなかった。でも砧は俺の話を聞き終わると、運転席に向きなおってハンドルを握った。  灯台に近づいたら、またあの二人組が飛んでいるのがみえてしまうかも。でも、俺はもう鷲族の村に住んでいるわけじゃないし、自分にはどうせ関係ないことだ──そう思ったとき、車は向きを変えた。 「砧? 方向がちがうぞ? 灯台まで行くんだろう?」  俺はたぶん怪訝な声を出していたのだと思う。砧はとくに表情も変えなかった。 「いや、戻ろう」 「え?」 「灯台ならそこに見えただろう」  車はぶん、と音を立てて、下り坂を走っていく。そっと砧の横顔をみたら、なんだか怒っているような、こわい顔をしている。こんな話、しなければよかったのかも。  もしかしたら、砧は俺がほんとうにできそこないだってことを、わかってなかったのかもしれない。俺を〈花〉に──つがいにするのが間違ってたと思っていたら、どうしよう?  下り坂の先にまた海が見えてくる。  馬鹿だな、ゴーシェナイト。俺は心の中でいった。砧が俺のことをどう思ったって、俺をどうすることにしたって、俺は砧が好きなんだから、どうしようもないんだ。

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