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2.背中合わせの世界 ③
警備課のオフィスの窓の外を、長い尾を引いた彗星が爽やかな笑顔と軽やかなハンドサインを見せて過ぎ去っていく。
彼らは無機物に見えて彼らの世界の住人な訳だが、生き物というカテゴリーにするとインパクトが強い。
「定時退社ってうらやましい」
それを見送った後、ポチポチとノートパソコンのキーボードを慣れた様子で叩きながらフェンヴァーンはぼやいた。さっきの彗星は事務局 総務課の事務員なのである。どの世界でもだいたい規則通りに勤務が過ぎる職だった。
その傍らでユーリは手書きで始末書を綴っている。凝った意匠が随所に見られる使いこまれた万年筆から、芸術的といっていいほど整った字がさらさらと生まれていった。
「なに?」
その手元を覗いていたフェンヴァーンの視線を感じてユーリが尋ねた。
「いや。書いてるところ今まで見たことなかったから。字、綺麗だな、って思って」
「昔から両親が教育熱心でね」
「その万年筆、年季が入ってそうだけど、いつから使ってるの?」
「いつからかな。もともと父が使っていたものだ。彼が亡くなって、形見分けに引き取った」
「あ……そう……なんだ」
悪いことを聞いたな。
フェンヴァーンは業務上の関係というには踏み込みすぎた話題に少々後悔を見せる。その様子をちらっと前髪の間から見てユーリは言った。
「君はパソコンが使えるんだ。すごいね」
これまでユーリからそんな風に褒められた事などなかったので、フェンヴァーンの顔がぱっと明るくなった。
「親が武闘派の田舎者で、昔から学にまったく興味がなくてね。恥ずかしいぐらい字が下手なんだよ。この仕事に着いて初めて人間世界に行ったとき、携帯電話やパソコン使えば必ずしも手書きしなくてもいいと知って、必死になって道具の使い方を覚えたよね」
フェンヴァーンは へへへ、と笑って少々饒舌になる。
ユーリは軽く頷きながら、合いの手を入れてくれた。
「境界管理庁で機材が導入されたとき、君は周りが使い方に困惑している中で一人小躍りしながら指導員やったって」
「誰から聞いたの、それ?」
「班長」
「ああ、まだ筆で書いてったっけ? 今回の始末書も?」
「らしいな。枠線におさめるのが苦手だが、キーボードはもっと苦手だそうだ。スズリ? というのかな。彼らの故地で使われてるインク作成具でスミを刷ってると、部下に対するイライラも落ち着くとか」
そのイライラの原因が自分たちであるとは二人とも自覚済みだ。ふふふ、と自嘲気味に笑い合ってそれぞれ自分の手元作業に戻った。
しばらくして反省の終わりが見えてきたところでディスプレイの影からフェンヴァーンはこそっとユーリを盗み見る。
傷んで赤茶けた長い髪にそばかす面。野暮ったい眼鏡に野暮ったい服装。身長がフェンヴァーンよりも小さいこともあって一見するといろいろと未熟なティーンエイジャーに見える。
一方で熟れた字癖や深みのある声、柔らかい笑いなどは明らかに深い人生経験を感じさせる。
謎だ……いろいろと。フェンヴァーンは小さくため息をついた。
いくつなのか。
家族や交友関係はどんなものか。
オフはなにをしているのか。
好きなもの、嫌いなものはなにか。
寝るときは本当に土の入った棺で寝てるのか……。
バディなのだからもっと個人的な情報交換をして信頼関係を高めるべきではないか、とフェンヴァーンは考える方だ。
ただユーリ本人に聞いてもこれまで「ああ」「うん」「はい」「そう」くらいしか返ってこなかったので、プライベートはおろか仕事についてもあまり聞いたことはない。それとなく周りに探りを入れてみたが、誰もよく知らない。
おかしいことではない。吸血鬼族はその神秘性の高さにおいて特異な存在だったから。多くを語らない、知らせないのは彼らの習性としての自衛手段の一つなのである。
あまり同種以外との交友も持たない。妖魔族としては最大派閥ではあるので維持聖府内にも公共機関にも吸血鬼族は必ず一定数存在している。だがはっきり言って孤立して いる。ただそれを苦とする様子も見られない。だから公文書や情報管理だとか、潜入だとか助けが少ない一人の業務に回された。
それがいつ、どういった経緯で警備課に来たのか。
警備課はチームプレーが基本だ。でなければ仲間を失うことになるから。スタンドプレーを叱られるフェンヴァーンとて、本人基準ではそれを順守して行動しているつもりだった。
それがなぜ身を危険に晒すような勝手を繰り返しても上層部は軽い訓告で好きにさせているのか。
一番の理由は潜入班の内偵捕追士が吸血鬼だったことだ。
種族習性を考えれば、管理の前任者も同種だというのは十分ありえる。それを引き継ぐためにユーリは赴任したのかもしれなかった。
ただ貴重な資産 は消えてしまった。潜入者の一切が秘匿されいて確かめる術もなく、吸血鬼族の習性のために前任者が誰であったのかは推測でしかない。
フェンヴァーンは天井に向けて腕を伸ばし、体をスチール椅子の背もたれに預けてユーリに声をかけた。
「あんたは、どうしてそんなにも現場に出たがるんだ? それも特にテロリストが関わってる事件に。弁務士の免許、持ってんだろ?」
フェンヴァーンの問いに、ユーリは手を止める。万年筆の胴軸を持ち手の人差し指でとんとんと軽く叩いてから、そっと机の上に置いた。
「早く成果を示して、境界管理庁に正式に採用されたいんだ」
ユーリの言葉にフェンヴァーンは少し顔を歪めた。
弁務官は境界管理庁直属の正式職員ではない。
彼らは鏡面世界 において種族間調停資格である弁務士の身分をもっている。今の彼らの状況を人間世界で言うならば、本職は弁護士資格を有してどこかの事務所に所属していて、公官庁から応募がかかったから嘱託として二足の草鞋を履いているという状態なのだ。
種族社会的な側面から言えば官ではなく士として働く方が評価は高い。種族内の評価が高ければ族内政治において有利であろうし、いずれは族内政界へ打って出る者もいる。
フェンヴァーンは尋ねた。
「族内院政家になるんだったら、境界管理庁ってキャリアは決して箔 にはならないんじゃないか?」
「そのつもりはない。そういう君はどうなんだ、フェンヴァーン。捕追士は嫌われ役だ。特に凶悪な悪者からは」
「俺は仮でも正式採用でもどっちでもいいんだ。真っ当な仕事につきたいが、どこにも就職できない奴は、そういう汚れ仕事につくしかない。ここにいるのはその結果だ」
「だからいつまでも捕追士補か。現場の下働きじゃ、報酬と割にあわないだろ。君の場合は自腹の賠償も多そうだしな」
「タフなだけが取り柄でね。仮の身分でもセーフハウスは用意してもらえて、雨風は凌げる。人間世界の飯はうまいし、女の子に気に入ってもらえたら食いっぱぐれはない。故郷にいた時より待遇は全然いい」
フェンヴァーンは自嘲気味に笑ってみせた。
「弁務官だって俺みたいに言うこと聞いてくれるイイ子ちゃんなら楽だろうがだいたいは食って掛かられる。警備課は血の気が多いからな。悪者はおろか、課内でもあまり好かれる方じゃないだろ?」
「吸血鬼 は孤独を苦痛としない。だから平気だ。それに弁務官は足掛かりにすぎない。私は、執行官になりたいんだ」
「執行官だって?」
フェンヴァーンはさらにぐいっと背もたれを倒し、両手を広げて聞き返した。
弁務官も執行官も法を扱う立場というならば同じだ。けれども弁務官が庁内の綱紀管理と職員の保護を職務とする職託職員ならば、執行官とは違法越境者の処遇を決定する直接雇用の専門職である。同じ境界管理局 でも後者は審判課に属している。越境者の在留資格に関する審査と資格取消しなどの行政処分についての「審判」を行う部署で、執行官は完全にソロモン法体制側の立場をとる。
ぽつり、とユーリは言った。
「同族の暴走を止める。その義務が私にはある」
「それって、『黒の夜明け 』のことか?」
「ああ」
ユーリは頷いた。
維持聖府が警戒している反境界純血至上主義集団とは鏡面世界 に出自を持ち、銀の契約に敵対している者達を言う。
思想傾向は保守かつ懐古主義で、人間に対して根強い差別意識がある。曰く彼らは自分たちの『餌』である、と。
『黒の夜明け 』はその中でも最大かつ最凶の集団だった。彼らは暴力による支配と統治、優性者による選別を是とする上級吸血鬼達によって構成されていた。
「大きく出たな。だが同じ種族であるというだけで、そこまで責任を負わなきゃならないものか? そんなことを言いだしたら人狼族も大概無視してる。ソロモン法では『殺害のための殺し』が禁止されてるのに、それを部族習慣としてやり続けている。だが俺は同族だからってその責任なんて取れない」
「人狼族 は基本的に鏡面世界 から出てこない。一族内でソロモン法が履行されていなくても、その影響が故地を超え、また違法越境や人間への不当な干渉に及ぶことがない限り、『族内事原則不介入』の原理に維持聖府は従う。だが『黒の夜明け 』違う。ソロモン法が成立する前から人間界に根を張り、法が契約された後も人間側の呪術師を取り込み、極秘の不法越境ルートを構築して秩序を乱している。それは許されるべきではない」
「あんたはたった一人でそれを糾弾するつもりなのか?」
「糾弾? 甘いな。殲滅だ。組織そのものを根絶やしにしなくてはならない。そのために私は境界管理庁 に来たんだ」
ユーリはかたっと椅子を引いて立ち上がる。足音もなく滑るようにフェンヴァーンに近づくと、パソコンが置かれたデスクの角に軽く腰を下ろした。
甘い、匂いがしていた。
獣種が抗えない、妖魔種の誘因香だった。
それがユーリの白いセーターの胸元からあふれ出していた。
|鏡面世界(ミラーリング)の秩序は弱肉強食の食物連鎖の上に成り立っている。強い者は弱い者を、獣は妖魔を食らう。その本能が口の中に唾液を溢れさせる。
むしゃぶりつきたい。
今すぐにでもその白い首筋に獣の牙をたてたい。
肌を、血潮を、内蔵を存分に舌で味わいたい。
一片の肉片すら残さず骨から柔らかな肉をこそげ取り、綺麗な容姿から骨の髄まで食らい尽くしたい。
性欲か食欲かもわからない暴力的な欲求は狂恋の果てにも似てフェンヴァーンの理性を麻痺させようとする。
心臓が興奮に高鳴る。
呼吸は荒く早くなっていく。
全身の肌という肌がピリピリとさざ波をたてる。
爪が、体毛が、筋肉が、本来の姿―――狼へとゆっくりとした変化を始める。
「ダメだ……」
それをぐっと唇を噛んでフェンヴァーンは耐えた。
吸血鬼なのがいけない。おいしそうな匂いがいけない。しかし彼は『餌』じゃない。忘れるな。大切な同僚で相棒だ。
フェンヴァーンは膝の上で鋭い爪の伸びた手を太ももに食い込ませて己の本能と戦う。その姿をユーリはじっと見つめてから、酷薄な笑みを唇に浮かべた。
「動くな、フェンヴァーン」
フェンヴァーンの耳元でユーリが囁いた。
直後、フェンヴァーンの身体の首から下でまったく自由がきかなくなった。
「ユーリ……」
フェンヴァーンは目を見開いて首だけユーリに向ける。
術式の詠唱もなく、簡単な言葉一つで相手を、それも通常の人狼よりは格段に神格の高い銀狼を束縛するには、それを超える以上の相当高い神格が必要となる。
一体何者なのか。
一介の野心に満ちた訴追官志望の吸血鬼ではないことは間違いなかった。
「キス……して、いい?」
ユーリが低めの、甘えたような声色で尋ねる。
こんな時に何を言われているのか。フェンヴァーンは混乱したが、ユーリの言葉には逆らえなかった。
「舌を出して」
誘われるまま、唇を開き、舌を差しだす。フェンヴァーンの口の端からは一筋の雫が流れ落ちた。
「いい子だ 」
柔らかい穏やかな声で褒められる。綺麗に手入れされた彼の右手が迫ってきて視界は真っ暗になった。
中指にペンだこの硬さを感じるその手はひんやりと冷たく、ディスプレイを見続けて疲れた目に心地良い。首から下の自由が強制的に奪われているという不法を働かれているというのに、フェンヴァーンはうっとりとそのまま目を閉じた。
「いい子だ 、フェニー」
セクシーに掠れた声色で囁き、ゆっくりとユーリは顔を近づける。その髪が傷んだ赤茶ではなく闇に融けそうな程の艶やかな真闇の黒に、青銀色の瞳はブラッディムーンのように赤く染まっていったが、フェンヴァーンは気づかない。
部屋の壁に大きな翼の影が映し出される。
「……いい子だ」
差し出されたフェンヴァーンの舌先をユーリの唇が食む。
一瞬、ちくりとした痛みをフェンヴァーンは感じた。
だがすぐにユーリの柔らかい唇が押しつけられ、濡れた舌の感触が性急に咥内に忍び込んでくる。
濃厚に舌を絡ませ、自分の血の味に混ざって流れ込むユーリの蜜の甘さに、フェンヴァーンは痛みなどすっかり忘れて酔いしれていた。
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