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3.女王様のお気に召すまま ②

 霧のなかに、光背を失った朝日が、雲に包まれた満月のように浮かんでいる。  あたりは深い乳白色の霧がたちこめ、ユーリのコートの表面や毛羽だったタートルネックの白いセーター、赤茶けた長い髪や黒縁の眼鏡にしっとりと細かな水滴がまとわりつく。  霧の里(ミスティランド)。  この地域は朝が来ないわけではないが、その時間は極めて短い。常に白い霧がかかっていて、里に住む者は殆ど活動しない。言うなれば朝が人間の夜のような時間であり、霧が晴れて決して欠ける事のない赤い月が浮かぶ夜こそが、本来の活動時間だった。  年間を通して気温も低い上にその霧ときて、ユーリは灰色のダッフルコートの前を合わせる。足早に向かった先は自宅に定めている古びた木造ハイツだ。その一角にある1DKの部屋がユーリの城だった。  ギシギシと音をたてる木製の階段と廊下を歩き、二階の最奥に真鍮で作られた扉を開けて中に入る。床はところどころニスが禿げていて、壁はくすんでいた。ソファーはベッドを兼ねていて、寝乱れた毛布がわだかまっている。テーブルの上には書類が散らばっていて、友人を招待することもお茶の時間を有意義に寛ぐ事もできない。  ユーリは棚代わりにしている椅子に鞄とコートを掛け、靴を脱ぎ捨ててバスルームへ向かう。中はトイレが同居していて、温度調整も細かくできないシャワーだけ。浴槽はない。  しばらくシャワー音が続いた後、白いセーターとジーンズ、脱いだ下着を手にして、ユーリは銀縁の眼鏡にバスローブ姿で出てくる。ただその髪は傷んだ赤茶ではなくアッシュブロンドで、白磁の顔には染みはおろか毛穴一つ見えない。薄い唇は淡い薔薇色に染まっていた。 「なにが良くて、こんな物置以下、いや、犬小屋以下の部屋に住んでいるの? 兄様」  部屋の中から少女が尋ねる。  ユーリが視線を向けたソファーの上に少女が座っていた。つやつやと真っ黒な髪をツインテールに結び、ゴシックロリータ風のレースで装飾された真っ黒なドレスを着ている。人形のように無表情な顔にはバラ色の蕾を思わせる小さな唇や、つんと小さい鼻、吸い込まれそうなほど大きな黒い瞳が歪み一つなく配置されて大変美しい。  面影はユーリとどこかしら共通するものがあった。 「カロエ……か」  ユーリは彼ら二人以外にはわからない程かすかに、しかしカロエにははっきり理解できるほど、むっとした表情をした。 「勝手に入るなと言っただろう、姉様」  ユーリは手にしていた衣類を椅子の上に無造作に置いて、鍵をかけたはずの玄関扉を確認しに行く。内側のサムターンはきちんとしまっている。かけ忘れていた閂様の内鍵に気づいて、ユーリはがちんと音を立ててかけた。 「鍵なんて、私たちには無駄だとわかっているはずよ、兄様。本当に入られたくないなら、大蒜(にんにく)か銀の十字架を置くべきね」 「それこそ何の役にたつと?」  ユーリは今度は誰にでも明らかにわかる顰めっ面でカロエを睨んだ。  吸血鬼が大蒜を嫌うのは、彼らが大蒜を始めとした香草類や、獣、下水、汗、腐敗物などの物理的存在が醸し出す匂いを下品だと避けるからにすぎない。  十字架も物体それ自体が吸血鬼に直接的な危害を加えるわけではなく、信者達の狂信性を嫌っているだけだ。  唯一銀の武器だけが鏡面世界(ミラーリング)の住人達を傷つけることができたが、ただ生成しただけではハサミほどの威力もないし、効果を持たせるためには結構な手順と魔力を必要とする。ただの防犯グッズとして生成するには割が合わなかった。 「どうして館にお戻りにならないの?」  カロエが尋ねたがユーリは見向きもしない。キッチンと言うには手洗い場のように粗末な場所で薬缶に水を入れて、一口コンロに乗せる。掌の上に作った炎をコンロのガス台のあたりへ移動して、薬缶の中身を温め始めた。 「あなたには我が一族の長として受け継ぐべき当然の財産があるのに」 「大きい家は苦手なんだ。迷うから。それに冬は寒いじゃないか。今夜のパーティーには参加するよ。それが私の義務の一つだからね」  半ば棒読みの口調でユーリは答えると、濡れた髪をタオルで手荒く乾かした。  ふわっと床を蹴り、カロエは羽のようにユーリの背後へ舞い降りる。白くて細い腕を回して抱きついた。 「最近お姿が見えなかったようだけれども、どこへ行っていたの?」 「仕事だよ。私には弁務士という肩書きがある。一族が……おとなしくしてくれないから、その尻拭いが大変でね」 「聞いたわ。ネズミが一匹、人間界で消えたそうね」 「ネズミかどうかはしらないが、人間界で一族の者が数人、人狼に食い殺されたのは事実だ。その遺族からの生活保障申請を受けててね」 「代償は人狼族に請求するの?」 「なぜ?」  沸騰し始めた薬缶がヒューヒューと音をたてる。ユーリはパチン、と指を鳴らして炎を消すとゆっくりと振り向いて背後のカロエと向き合った。 「相手は人間だった。鏡面世界(ミラーリング)からの『違法薬物』で人狼になったにすぎない」 「あら怖い。誰がそんなものを人間の世界にばらまいているのかしら」  ころころとカロエは笑う。しかしユーリを見つめる目は笑っていない。  ユーリはごくごく小さく舌打ちをしてふいっと再び顔をそらす。大きめのマグカップに人間世界で手に入れたカップスープの粉をあけると、お湯の分量など適当に注いで、ぐるぐると適当にスプーンでかき混ぜた。それを口にしながらソファーへと向かう。  テーブルの上にマグカップを置くスペースを作るそぶりで、それとなく散らばった書類をひとまとめに片付け始める。かなり高度な呪術をかけて中身を見られないようにはしている。内容は境界管理庁の執行官認定試験の過去問だったので、カロエには知られたくなかった。  その側へ、カロエはゆっくりと近づいていく。 「相変わらずね、そんなものを口にして。人間界に行ったの?」 「事件現場を見ておくべきだからな」 「人間の血は? 口になさらなかったの? せっかくの人間界ですのに」 「ソロモン法に反するだろう。我々は必ずしも人間の血をとらなくてはならないわけじゃない。食料生産と食事の種類が貧困だった時代とは違うんだ。食べられるものはほかにいくらでもある」 「でも人間は一番私たちにとってもっとも適した『餌』よ。命を奪わない範囲であれば、少しくらいはわからないでしょう?」 「弁務士に法を逸脱しろとそそのかすのか、君は。一族を維持聖府内で難しい立場に置きたいなら、私は手を引いてもかまわないが」 「そんな意地悪を言わないで、兄様」  カロエが背後からふわっとユーリの首に腕をかけ、くるっと回った際の遠心力を利用してユーリをソファーへと押し倒した。  ユーリは彼女の腕から逃れようとソファに腕をついて身を引いたが、項で組まれた手はびくともしない。彼女は万力で締め上げるようにユーリの頭を胸に抱き、普段はまったくふくらみを見せない幼い体を、今は豊満な熟女のそれに変えて抱きしめる。  ユーリは顔をそむけ、まったく表情を変えない。むしろ胸に押しつぶされて眼鏡が歪み、気分は不快以外何物でもない。当然ながら、彼の男性としての部分は無反応だった。 「愛しているのよ、誰よりも」  ユーリを映すカロエの瞳が真っ赤に染まっている。にやりと笑う口元には鋭い牙が見え隠れし、甘い吐息を洩らす唇が、ユーリの唇を求めてゆっくりと近づく。  それが重なろうとした寸前で、カロエは眉間に不快を示す皺を刻んで動きを止めた。 「臭うわ、兄様。………獣を、食べたの?」  にやっとユーリは笑う。それだけで何も答えない。  カロエは可愛らしく頬を膨らませて、ユーリの腹の上にペタンと座り込む。その瞳は既に黒へ戻り、淫靡で妖しげな気配はまったく失われていた。 「ふぅん、そういうこと。賠償の対価に、人狼に変わった人間を食べたのね?」 「そんなわけないだろう」 「いいのよ。嘘をつかなくても。兄様のことなら私は何でもわかるんだから。でも相変わらず悪食ね。獣を口にするなんて信じられない」  カロエはそう言ったがあえてユーリは否定しなかった。  口にしたのはフェンヴァーン(白銀人狼)のキスだなどと、いえるはずもない。  ただその事実を知らないということは少なくとも今の段階では境界管理庁に彼女のスパイが入り込んでいないということでもあった。  カロエは興を削がれてユーリの上から降りる。ゴシックドレスの乱れを綺麗に整えた。 「今日のパーティには人間が出るの。合成肉だけど」 「どこから手に入れた?」 「安心して。合成肉っていったでしょ。最近は狩らなくてもクローン培養できるんですって。昔は食べられたものじゃなかったけど、ずいぶんと味はよくなってるのよ。ぜひ楽しんで」  カロエは本当に少女らしい可憐な美しさの微笑みを見せる。  彼女は緑色の古びた木の窓枠が嵌めこまれ、四隅が曇ったガラス窓に手をかけると少し隙間をあける。 「後でね、兄様」  カロエの足下が黒い霧へと変わっていく。それは順々に煙のように窓の隙間へ流れ込み、やがて白い霧の中へすべて溶けて消えていった。

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