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3.女王様のお気に召すまま ③

 その城は、夜と、月と、霧と、静寂が支配する真っ黒な幽谷の森の奥にある。  重厚な太い柱をもつ石造りの白亜の城。まるで大きく翼を広げた蝙蝠のように堂々とした曲線を描いて横へ広がる。精緻な彫刻がびっしりと施されたファサードは石畳の張られた正面玄関のロータリーを抱え込むように優雅に佇む。  東西の端にそそり立つ二つの尖塔は城を囲む黒い針葉樹にも似て、赤い月の輝く夜空を背景に黒々とした影を浮かび上がらせていた。  ロータリーには次々に首のない蝙蝠の羽根を持った馬が引く車が横付けする。胸に手を当てて出迎える若い執事を前に、中から流れ出てきた黒い霧はおおよそ馬車に入りきらないような豪奢なドレス姿の貴婦人や気取った紳士を形作っていく。  重厚な扉を抜けた先はホールになっていて、仮面をつけた正装の客人たちがひしめき、そこで声を潜めた立ち話をして時が来るのを待つ。  館内には甘美でありながらどこか壊れたオルゴールのように不安定なバロックの旋律が流れ、据えられた円形のステージに立つ歌姫のすべらかな絹の声色が時折裂くような高音で悲しみを綴る。彼女の黒いドレスは羽のように広がり、まるで闇そのものが歌っているかのようだった。  大きな窓は金で縁取られ、蝋燭の灯りが幻想的な影を落とす。黒曜石のシャンデリアがぶら下がる天井には妖魔たちの伝承を伝えるフラスコ画がびっしりと描かれていた。  壁には写真たてほどの無数の肖像画が飾られ、大理石で作られた正面階段にも所せましと飾られている。新しいものは最近人造人狼によって食い殺された者達であり、古いものの中にはユーリやカロエに面立ちの似た男女があった。  階段の中心には血のような紅の絨毯がひかれていて、ホールを全体を見渡す事ができる二階からの階段との踊り場に、豪奢な彫金の装飾が施された椅子が一脚据えられていた。  歌姫の声が消え、音楽が止まる。静寂が支配する空間を二階へ続く階段から一人の男が椅子へ向かって歩いていく靴音が響いた。  漆黒の闇よりも深い黒の、縫い目一つ乱れぬ完璧な仕立ての燕尾服を纏う彼を、客人たちがほうっと溜息をついて見上げる。  まるで時の止まった肖像画から抜け出してきたかのように美しい男だった。  アッシュブロンドの髪は、退廃的な儚さを漂わせながら、しかし一筋も乱れず額にかかる。  睫毛は淡く輝くプラチナの糸のように長く繊細で、瞬きをするたびに誰もが言葉を失う。  氷の湖を思わせる透き通った青銀の瞳は見つめられれば心の奥底まで見透かされるような静謐さがあった。  肉付きに無駄のない頬は白磁のように滑らかで血の気を感じさせない。微かに薔薇色を帯びた薄い唇は血の毒を含んだ花弁のような妖しさを漂わせる。  生きる死者(ノスフェラトゥ)の王。その名に彼はふさわしい吸血鬼一族の現族長であった。 「おお、我が真祖(マイロード)」 「ご機嫌麗しく。ユーリ=ドラキュリウス侯爵」  人々は口々にユーリの真名を呼び、その存在を賞賛した。  彼は椅子に寄り添って立ち、今しがた降りてきた階段を振り返る。  ベルベットのような黒い髪とドレスを身に纏い、その場の闇を全て支配した女がカロエに手を引かれて階段を下りてきた。  女ざかりを少々過ぎたほどの熟女だ。顔も豊満な胸元も、無駄のない背中も、肉付きの良い太ももからスラリと細く引き締まった足も、黒いドレスから惜しげもなくさらされた肌は月光にすら触れたことがないかのように白く冷たい霧のような質感をもっている。こちらは夜を支配する女王の風格があった。  カロエから彼女の手を引き渡されたユーリはその手を恭しく取って甲に軽く口づける。女は満足そうに口元を歪ませて、鷹揚に椅子へ座って足を組んだ。 「相変わらずなんとお美しいのでしょう」 「グランドマムに幸多からん」 「闇の女王に最大の敬意を」  人々は膝を折り、腰を曲げてカーテシーをとる。それを見下ろすユーリも、グランドマムと呼ばれた女王に寄り添うカロエも、フランス人形のような無表情で彼らを見下ろした。  年若の執事が王の一族にグラスを捧げる。中にはなみなみと赤い液体が注がれていた。  同じものがホールの人々にもふるまわれる。それらが一通り巡る間のしばらくのざわめきの後、ユーリがこつん、と足音をさせて、階段を一段降りた。  彼が一歩踏み出すたびホールの空気が重く冷えていく。その背後では肘置きへ気だるげにグランドマムが頬杖をつく。濃い葡萄酒のように赤い瞳と唇を歪ませてユーリを舐めるように見つめていた。  静寂の中、蝋燭の炎がかすかに揺れる。仮面の向こうに潜む瞳が族長の言葉を待っていた。 「我が血族よ。 今宵、闇に還った者たちへの祈りのために我らはここへ集った。かつて失われ、また新たに消えゆく同胞たちはこの館に刻まれ、またひとつ我らの記憶となる。 彼らの死は終わりではなく、我らの血に宿る永遠の誓いである。今、杯を掲げよ。 それは祈りに満ちた我らの命。 彼らの名に、彼らの犠牲に、そして彼らの静寂に。闇が彼らを優しく包み、 次なる夜に導かれんことを」  ユーリの声がホールに響いた後、沈黙の中で杯が静かに掲げられ、音もなく乾杯が交わされる。  再び歌姫の声が静かに響き始めた。  ユーリはグラスの中身を少し口にする。それですぐにやめた。  ひどく渋い。  美味しいか美味しくないかという判断で行くと美味しくない。  ユーリは味覚に関してかなり大雑把な方だと自負しているが、それでもこの中身は、よく言えば熟しているが悪く言えば新鮮さが感じられない。  渋い顔のままじっとグラスの中身を見ていると、カロエが顔を覗きこんできた。 「久しぶりだから、口にあわなかった?」  ユーリは自宅でカロエが人工肉云々の話をしていたことを思い出す。  ブリーフィングではここ数百年で境界管理庁の目がかなり厳しくなったと言っていた。そのせいでおいそれと人間を鏡面世界(ミラーリング)へ引き込めなくなっているのだろうとユーリは見た。  それでもこれだけの一族の渇きを満たそうとすればそれなりの人間が必要になる。結果としてかつて捕えて保存していた分を使って造血を繰り返したのだと思われた。  クローニングは新しいものを作り出す技術ではない。採取された時の状態のものを複製するだけだ。年数がたってしまったものは、その年数のものしか作れない。  味の理由をユーリはすぐに理解して、側に控えた若い執事に中身が残ったままのグラスを返した。 「ワインの方が好きかな」 「救世主の血なんか飲んだら悪酔いするわよ」 「でもたぶん腹は壊さないと思う」 「贅沢なことだね」  グランドマムは責めるような口調でユーリに声をかける。とは言うものの、彼女のグラスからは新鮮で適度な深みのある香りが漂っていた。ただ微かだがケミカルな匂いがしている。 「どんな処女(おとめ)を騙してここへ連れてきたんですか?」 「騙すだなんて人聞きが悪いわ」  グランドマムの代わりにカロエが答える。彼女は猫のようにグランドマムの膝へ頬を寄せて甘えた。 「最近の人間世界は地獄だそうよ、兄様。生きていくのが辛いって。若い身空で自分の命を粗末になんてしてたから、こっちに連れてきてあげたの」 「殺したのか?」 「いいえ。今は西塔の中で夢をみているわ。ずっと。幸せな夢よ。私が、与えてあげた。だってせっかく若いのだし、もったいないでしょ?」  カロエはにいっと針先のように尖った牙を見せて笑った。  血の盟約。  その牙で血と呪によって結ばれる牙の印を刻まれた者は、刻んだ吸血鬼の従僕となる。従僕は主の命令に背くことも、逃げ出すことも、それを可能にする一切の行為が許されなくなる。いかなる場合でも主人の召喚には応じなくてはならず、その命令は銀の武器でバリケードを組み、ニンニクをつり下げ、魔法円で退けようとも絶対となる。  その代償として主の命と神格を共有する。主が死ぬまで従僕が死ぬことはなく、貸し与えられる神格により、人間と言えど、おいそれと主人以下の神格の者から手を出されることがなくなる。  幸せな夢の中に眠る少女は、誰からも触れられることなく、吸血鬼の従僕としてカロエの命が尽きるまで死ぬことがなくなった。  かといって食事を与えられることもきっとない。  血を、肉を、クローンのために少しずつカロエに搾取されながら、生きたミイラとなって永遠に眠り続けることになるのだ。  グロテスクな話だとユーリは思った。 「家畜としては好待遇ではないか。そうだろう、私の可愛いドラキュリウス」  グランドマムが腕を伸ばしユーリを手招きする。ユーリは彼女の前に膝をつき、伸ばされた手を取って甲へと軽く口づけた。   「イエス、マイグランドマム」  彼女の言葉に対してNO(否定)はあり得なかった。  彼女は反対者を許さない。些細なことですら彼女の気を損ねたら、どんな地獄が待っているのか、ユーリはよく知っている。  真祖だから、族長だからといって彼女の懲罰を避けられるものではない。彼女にとって一族の存在などどんな肩書があろうと所詮はいくらでも代わりのきくものでしかない。  恐怖と暴力による支配。今この吸血鬼の一族は彼女が実質統率していた。   「少し、夜風にあたってきます」  ユーリは二人から離れると、階段を上って2階にある自分にあてがわれた部屋へ向かった。  霧になってどんな隙間でも入り込める以上、無駄だとわかっている。それでも後ろ手で閉めた扉の鍵をかける。大理石の床をこつこつと歩き、ロココ調の豪奢なテーブルとイス、そして天涯付きのベッドだけが置かれた殺風景な部屋を横切る。エントランスとは真反対の大きな窓をあけ放つと、バルコニーとその眼下に深い霧がけぶる黒々とした森が広がった。  バルコニーの手すりに手を置いて、やっとユーリは深呼吸ができた。 「そんなに辛いなら、今すぐ『黒の夜明け(スヴィタニェ・ツルノグ)』を終わらせてやろうか?」  皺枯れた不機嫌そうな声が降ってくる。ユーリははっとして声の方を見上げた。  目を凝らすと灰色の頭陀袋(ずたぶくろ)が宙を浮いていた。その隙間から表情の乏しい真っ白な面がちらりと見える。それはシンボルともいえる三日月様の大鎌を抱いていた。  ユーリは険しい顔つきを向けた。  彼なのか、彼女なのかは知らない。知っているのは死神という名前と、死と闇を司りながら天使や神などの聖属性をもつ魔王神格クラスの一人であるという事だけだ。     「私が族長につくなら、それをしないと約束したではないですか」 「だったら血族の長として、あのババアと小娘を何とかしないか。今日は千載一遇のチャンスというやつだろう?」  言われてユーリは返す言葉もない。  『黒の夜明け(スヴィタニェ・ツルノグ)』の前首領。それがグランドマムの真の裏の顔だった。  しかし彼女は寄る年波に勝てず、ついに次代をカロエに譲った。1年ほど前の話になる。  それ以降、この屋敷ごと次元結界を使って次元の狭間に移動させて常に身を隠し、尻尾がつかめないでいる。唯一開放されるのが、この一族総出となる鎮魂祭だった。 「私が長と言っても、ここは鏡面世界(ミラーリング)の中でも最も『古き血族』の多い土地です。人間ごときと見下す者達が定めた銀の契約にも、彼らの交渉に応じた維持聖府にも、反感を持つ者は多い。私を含め、父をはじめとした聖府の支持派は、この土地ではむしろ少数派だ。彼らにとって私が特別だったとしても、あからさまに対立すれば排除の対象になる」 「そうやって自らの責任から逃げるから、代わりに私が手を下してやろうと言っているのではないか。この霧は銀の契約から例外的に妖魔族を守るために私が張ったものだ。それを取っ払ってやれば、全てが朝日に焼き尽くされて無に帰す(チャラになる)」 「罪もない妖魔種族全体に『死ね』というのですか?」 「罪がない? 隠居したババアになおこびへつらう輩は長老界にも、下級妖魔にも多いではないか。世界の秩序の為に、銀の契約は既に為された。これを覆す事はできない。歯向かうというなら力づくで排除する。当然のことだ」 「そんなことをしてもこの館ごと、彼女らはどこかへ雲隠れしてしまうだけだ。被害を被るのは本当に何も知らない者達ばかりになる」 「新しい世界に適応できない不出来な種族など、滅びても構わん」  死神はにゅうっと顔をユーリに近づける。  はっきりと顔の造詣も表情のわかる程の距離にありながら、その顔は死んだ魚のような目以外、ぼんやりとしてしまう。本気を出したユーリよりも桁外れに大きな神格と、特別な呪紋の為だ。とんでもない呪圧がユーリにかかってきていた。 「『お前』さえあれば、血族はまたいくらでも増やすことはできるのだからな」  死神の言葉に、ユーリは一瞬だけ、非常に不快な表情を見せる。  その理由を知る死神は、対照的に愉快そうに目を細め、元の状態に戻った。 「魔王共が、五月蠅いのだ」  のんびりと言う。言葉の物騒さとは裏腹に、欠伸を噛み殺したような口調だった。 「この郷の筆頭妖魔はお前達吸血鬼族であり、その後見が私だから、今は黙らせているが、これ以上あのババアと小娘が銀の秩序を乱すようなら、近隣の後見他種族を(けしか)けんばかりの勢いだ。まあ、内政干渉を装って、自分達の勢力を広げたいのが本音だろう。私は、興味がないがな」 「貴方に興味がなくても、種族間戦争は維持聖府にとっては避けなくてはならない大事件だし、何よりテロリストの思うツボです」 「だったら逃げていないで手を尽くせ。種族大戦が起きる前に、私に皆殺されたくないならな」  それだけを告げて、すうっと死神は闇に溶けるように霧深い森の中へと音もなく去っていく。  ユーリは軽く唇をかみしめ、厳しい顔つきでその姿を見送る。  耳に痛い静寂が、冷たい霧と共に彼を包み込もうとしていた。

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