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3.女王様のお気に召すまま ④

 その日の人間世界にある某病院の周辺は朝から空には透き通るような青が清々しく広がっていた。  病院にある個室の一つで換気のために隙間ほどあけた窓から冷たいが心地よい風が入り込んでくる。朝日の眩しさを軽減させるために半分ほど引いた白のカーテンがふわりと揺れた。  その扉が軽くノックされる。 「どうぞ」  フェンヴァーンは中から機嫌良く応えた。  はげ頭の年配男性の姿に変化した鬼の班長と外出用の真っ白な式服を身に纏った尼僧姿のマローニが入ってくる。病院によくある医療用ベッドの上で、体のあちこちを包帯に巻かれたフェンヴァーンは身を起こして出迎えた。 「調子はどう?」 「ま、こんなもんじゃない?」  フェンヴァーンは天井から吊られた足のギブスを軽く揺らしてみる。巻かれたそのときは真っ白であったはずの石膏の塊は、口紅やマスカラ、サインペンなどでかわいくカラフルに装飾されている。傍らの棚には果物やお花の他、高そうなお菓子や、何故かいろんな種類の避妊具まで置いてあった。  それを見るマローニとトウゴウは呆れた。 「昨日より増えてない? モテモテね」 「狼の雄は雌に優しいからね。こういうときはみんなが心配してきてくれるんだよ」 「そのお優しい狼君はこのお部屋でどんな悪さをしてるんだろうかな」 「それは大丈夫。今、下半身は動かないんで。そこの箱も綺麗に未使用だろ?」  フェンヴァーンはニヤニヤと笑う。  彼のセーフハウスが人間世界にある関係上、鏡面世界(ミラーリング)よりもそちらにいる方が多かった。大体は夜の街に生きている。なじみの飲み屋もホステスもいる。彼が単独行動で有益な情報を手に入れてくる理由はそこにあった。 「結構な事ね。はい、手を出して」  ベッドの傍らでマローニが両掌を見せて広げる。言われるままフェンヴァーンはいつものように両手を差し出した。それをマローニが受け取り、静かに目を閉じる。 「ドミネ、ルーメン デ セデ カエリ インフンデ……」  詠唱と共に彼女の体が白い光を放ち、その光が繋がった手を伝ってフェンヴァーンへと流れ込んでくる。柔らかく暖かい波動はやがて急激な熱さに代わる。同時に壊れた組織が加速度的に修復されていくのをフェンヴァーンは感じていた。  かれこれもう4日ほどになる。こうやって毎日治癒の術式を受けたおかげで、人間の医者が全治6カ月と言って包帯とギブスにがっちがちにした手は、今はテーピングのぐるぐる巻き程度にまで回復していた。  ただ本当のところを言えば鏡面世界(ミラーリング)での姿に変化した方が治りは早い。治癒の魔法を全体にかけるというのは施術者も被験者も大変な肉体的負担となるからだ。結果、部分部分でしか処置はできなかった。  フェンヴァーンはトウゴウに尋ねた。 「変身したらだめなのか?」 「ここは人間界だぞ。お前は今傷病休暇扱いで、胸には追補士のバッジがないんだから、俺だけの一存では認められん。弁務官が同席しないとな」 「ユーリはいつ帰ってくるんだ?」 「さあ。もう少し先じゃないか? それに彼がかけた呪いがある。それを解けるのはかけた本人しかない」 「かかったまま無理できるほどの状態でもないしね。はい、今日はここまで」  そう言ってマローニは軽く手を叩いた。  フェンヴァーンはさっきまで曲げようとして激痛がはしっていた両指にそうっと力を込めてみる。多少の痺れを残しているし、滑らかとまではいかない。それでもゆっくりとなら曲げて伸ばしてする程度には問題がない。ギブスの中で感覚を失っていた左腕も、多少力を入れても痛くなくなっていた。 「君、治癒呪術できたんだな」 「もともとそっちが専門よ」  フェンヴァーンにマローニは胸を張る。若干14歳の少女だが、バチカン教皇庁でも第3局でもかなり優秀であると評判だった。 「でも始末書の数は俺とタメはれるって誰かから聞いたことあるけど」 「煩いな。メディ殺っぞ、コラ!」 「メディ殺すって……」  フェンヴァーンははははと苦笑いを見せる。治癒(ヒール)系でダメージを受けるのはアンデット種だけだ。  また、個室の扉がノックされた。 「あ、は……ぃ……」 「失礼。怪我をしたって?」  振り返ったトウゴウの言葉を遮って扉が開かれ、慌てた様子で一人の男が入ってくる。その男の顔を見て三人全員言葉を失った。  生粋の、上級天使族が舞い降りた。  そう思ったからだ。彼らは皆、万の言葉を尽くしても足りないほどの絶世の美形だというのは有名な話だった。  外見年齢は人間で言えば四十少し手前くらい。すらっと細めでありながらバランスよく肉付きが良いの体躯に、ぴったりと仕立てられたオーダーメイドのスーツ、上等なカシミアの茶色いコートを彼は纏っていた。  走ってやってきたのか少し疲れた感じが退廃貴族的な雰囲気を感じさせる。ただアッシュブロンドの前髪が一筋だけ流れ落ちる以外はきちっと撫で上げられ、少し神経質な感じのする色白で細面の掘りの深い顔立ちに銀のフチなし眼鏡がよく似合っている。女性的ではなく男性として完成した、芸術品のように洗練された美貌の持ち主だった。  が、その場にいる全員の頭の中にあったのはたった一つだ。 「どなた?」 「誰?」 「どちらさん?」  一斉に同じ内容の言葉をぶつけられ、男はむっとした顔をした。  ただフェンヴァーンだけは目の前の彼が誰なのかについてうっすら頭に浮かんでいた。彼の胸元からよく知っているほんのかすかなバニラとバラの香りが漂っていたからだ。  男は不満げにフェンヴァーンを見た。 「相棒の顔を忘れるとは、薄情だな」 「相棒……といわれましても、ねぇ」  フェンヴァーンは困る。その香りを持つ相棒とはこの一年確かに付き合ってきた。けれども彼はそんな綺麗なアッシュブロンドではなく、傷んで赤茶けた長髪でずっと顔を隠していたのだ。 「君は耳がいいくせに、私の声を忘れたのか?」 「忘れてないよ、ユーリ」 「ユーリ?!」  トウゴウとマローニが素っ頓狂な声をあげてフェンヴァーンとスーツ姿のユーリを交互に眺めた。 「嘘! ほんとに?」 「あの?」  信じられないイメージチェンジに二人は動揺を隠しきれない。  フェンヴァーンは獣の習性として外見よりも匂いや声で相手を判断する方だから、そこまでは驚きはしない。ただ記憶と現状の誤差が大きすぎて、それを自分の中で腑に落とすまでに少々混乱はあった。 「いつもの格好は?」  フェンヴァーンはユーリに尋ねた。 「やめた。もう、必要ない」 「なんで?」 「そのうち説明する」  ちらっとユーリはマローニを見る。彼女は真っ赤な顔になって何度も目を瞬かせた。  熟れた女が醸すものと同じ匂いをフェンヴァーンは彼女の汗に感じる。意地悪くちらっとユーリを見てから、もう一度マローニを見てにやにや笑った。  マローニはますます顔を赤くして口をへの字に引き結ぶと、トウゴウを道ずれに部屋を慌てて出て行った。  それをユーリは怪訝な顔で見送る。 「なんだ?」 「初心なのさ。まだ14歳の処女(ヴァージン)だしな」  鼻歌を歌うようにフェンヴァーンは言ったが、ユーリは意図がつかめずに小さく肩をすくめてからため息をついた。 「吸血鬼なのに太陽の下を歩いても大丈夫なのか?」  フェンヴァーンが尋ねる。 「バッジをつけていればな。種族性弱点が緩和される」 「それが本当の姿?」  問われてユーリは少し考えた。  吸血鬼族にとってそれは大変答えが難しい質問だった。容姿を好きなように変えられるからである。  同族同士ならそれは当たり前の事なので、なにが本当の姿かなどという疑問すら浮かばない。だが普通、外見とはアイデンティティの重要な一要素なわけだから、そういう疑問が多種族から出てくるのは当たり前と言えた。  ユーリはコートを肩から滑り落としながら、ぽつりぽつりと言った。 「何が本当かと聞かれても答えように困るが……。生まれた時からの外見が自然な状態で経年した姿、というならこれではある。慌てて帰ってきたから、仕事着のままになってしまったが」 「びっくりした。でもイカしてる。これからその格好で出勤したら? 前の格好はあまりにも……ちょっとな」 「カロエにも言われる。私服がダサいって」 「カロエ?」 「姉妹。双子の。君も随分と男くさくなったな」  ユーリはコートと荷物を来客用の丸椅子に置くと、ベッドの縁に腰掛ける。手入れの行き届いた綺麗な指先で黒々とした髭が短く生えたフェンヴァーンの顎を撫でた。  ひやっと冷たい指先とフェザータッチが心地よい。  フェンヴァーンは暫くユーリが触れるままに任せて、うっとりと目を細めた。 「境界管理庁に戻ってみたら、入院していると聞いた。でも、元気そうでよかった」  窓の隙間からそよ風が入り込んで白いカーテンを揺らし、からっとカーテンレールが小さな音をたてる。その風に固く張り詰めた糸がふわっと解けるように、最後の言葉が静かに消えていった。 「ユーリ……」  フェンヴァーンは目を開けて、ユーリをじっと見つめた。  生きる死者(ノスフェラトゥ)。彼らには他者に対する共感や感情がないという。  誰がそんなことを言うのか。  ろくに付き合いもない同族の死を悔しいと思い、その家族を哀れんでいた。  他種族の相棒が傷ついたことを心配し、その無事に安堵していた。  なんとこの男(ユーリ)の優しいことか。  確かに無口で無表情で隙の無い美貌がユーリのペルソナだ。だがそれらの内には不器用だが豊かな情緒を感じられて、ユーリがフェンヴァーンは急に愛しくなる。 「ありがとう。心配してくれたんだ?」 「呪いをかけていたから無茶はするまいとは思っていたが、君の事だから予想外の事でもしでかすんじゃないかと思った。だから第3局に行く前に、第4局に行った」 「信用無いんだな、俺」  フェンヴァーンは苦笑いを見せる。 「君の代わりに桃みたいなスライムが解析課の天使に迫られてた」 「支店長だったもの、だ。あんたがが殺すなって言ったから、約束通り殺さなかったぜ。えらい?」 「えらいえらい」  ユーリが笑いながらフェンヴァーンの癖の強いダークブラウンの髪をくしゃくしゃと指でかき乱す。その心地よさをひとしきり味わってから、フェンヴァーンは強請った。 「フェニーって呼んで。前みたいに」  少し低めの落ち着いた声の高さで、声色はしっとりと熱く、語気は優しく柔らかに囁く。微かにユーリの誘因香が強くなったようにフェンヴァーンには感じられた。 「いい子(グッドボーイ)って……言ってよ」 「いい子(グッドボーイ)だ、フェニー」  ユーリも低く秘めやかな声色で、ゆっくりとフェンヴァーンに応えた。  彼の胸元から漂う香りはますます強くなる。そのせいで薄い布団の下に隠された昂りにどんどんと熱が集まっているのをフェンヴァーンは感じていた。  気が付いた時には彼の腕をとってぐいっと自身の胸元にフェンヴァーンはユーリを引き寄せていた。  不意を突かれたせいで抵抗らしい抵抗もなく、ユーリはその胸の中へすっぽりと納まった。 「……っ!」  いきなり強い力で自由を奪われたことで、ユーリの体が驚愕に固く強ばる。  一方のフェンヴァーンもただ本能的な衝動で抱擁をしてしまったものの、この先にどういう意図があってそうしたのか、自分でも決めていなくて暫く途方に暮れた。  吸血鬼なのがいけない。おいしそうな匂いがいけない。しかし彼は『餌』じゃない。忘れるな。大切な同僚で相棒だ。  フェンヴァーンはいい匂いがするユーリを抱きしめたまま、いきり立つ欲望を宥め続けた。  そうしているうちにユーリの身体から力が抜ける。彼はケガに負担をかけないように気をつけながら、フェンヴァーンの胸におずおずと体を預けてきた。 「ユーリ?」 「ごめん……。君の方が大変なのに。体温が、暖かくて……心地いい」  ユーリはフェンヴァーンに抱きしめられたまま、静かに目を閉じる。染み一つないと見えていた彼の目の下には、微かな疲れの痕が見えた。  故郷で、何があったのだろうか。フェンバーンは気になった。  弁務士という職務が非常に精神的に疲れる部類のものだということをフェンヴァーンは身分柄関わることもあるので知っている。利益の相反を避けるために客や案件を選ぶ権利は人間世界のように認められているが、実際は族内の柵でがんじがらめになって選り好みできるわけではない。原告と被告との間で板挟みになりながら落としどころを模索していかなくてはならない。自我はすり潰される。  フェンヴァーンはテーピングだらけの手に力を込めて、ぐっとユーリをさらに引き寄せる。自分が彼の一刻の安らぎになるなら、甘やかしてやりたいと思った。 「気にするなよ。俺は身体的にタフだけが取り柄さ」 「私も、精神的にはタフな方なんだがな。なにしろ孤独を苦にしない種族だから」  自嘲気味なユーリの言葉がフェンヴァーンには寂しく感じられた。  彼の頭に頬を寄せ、さらに身を寄せる。 「そんな悲しいこと言うなよ。辛いなら、素直に頼ってもいいんだぜ。俺達、相棒(バディ)なんだろ?」  ユーリが顔を上げる。フェンヴァーンは力強い微笑みを返した。 「いい子(グッドボーイ)だな、フェニー」 「だったらご褒美にキス、していい?」  問われてユーリは真顔になった。フェンヴァーンの目の前で、眉間にゆっくりと皴が寄って、視線が少し泳ぐ。 「『私』でいいのか? なんだったら女にも子供にもなれるが」 「雌だったのか?」 「いや」 「ならいいよ。わざわざ無理しなくても。今の方が違和感がないから前の姿に戻らなくてもいいし、子供はかわいいとは思うけどそういう趣味はない。ただの女ならもとから不自由してないんだ」  そう言ってフェンヴァーンはサインだらけの足のギブスを揺らしてみせた。 「今のあんたがいいんだよ。そのままのあんたで、キスさせて」 「変わってるな、君は」  目を瞬かせてからユーリはフェンヴァーンと唇を重ねた。  最初は軽く一度。  離れて絡み合った視線が再度を求める許可を問う。ユーリはふふ、と小さく笑った。 「髭が痛いな」 「しー……黙って」  どちらともなく引き寄せられるようにさっきよりも深くもう一度。そのまま角度を変えて触れ合い、薄く開いた唇を柔らかく食みあってから、お互いのさらに奥深くを求めて舌を絡ませる。ちゅ、じゅ、という卑猥な音と、時折鼻から漏れる吐息だけが、からからとカーテンレールが風で揺れる音に重なって響いた。 「んっ……」  ひとしきり互いの味を堪能して離れる。お互いに唇は艶々と濡れ、頬はほんのりと上気して赤らんでいた。それがなんだか初心な子供の頃を思い出させて、フェンヴァーンは年甲斐もなく恥ずかしくなる。 「あ゛ーすっごい。やっぱ吸血鬼(大好物)の味は、元気出るな。バッジ無くて変身できないから、治りが悪くって」  半ば棒読みのセリフをカラ元気でフェンヴァーンは口にすると布団をバサバサと直す。そうしないと丁度ユーリが手を置いているところに、際どい膨らみが隠しきれなくなっていた。 「そういえば、そうだったな」 「呪いを解いてくれる? そうしたらすぐにでも俺は退院できるんだけど」 「どうだろう。バッジがない状態で変身する可能性を私は立場上見過ごせないし、君は今傷病休暇中だ。別に呪いを解かずに人間並みの状態で過ごしても問題ないだろ?」 「退屈なんだよ。夜の街と女の子たちが俺を待ってる。もっと言うなら酒飲みたい。病院食は不味くないけど飽きた」 「我儘な奴だな」  ユーリはそう言ってから、自らの左手の人差し指を形の良い唇で咥える。フェンヴァーンが止める間もなくぐっと吸血鬼の牙に力を入れた。 「ユーリ、何を!」 「口を開けて」  そうフェンヴァーンに命令するユーリの唇に、血のルージュが淫靡に映える。  左手で顎を下向きに固定され、薄くあけられたフェンヴァーンの口の中へ、濃い血の雫が浮かぶユーリの指が差し入れられる。  ベルベットのような滑らかな舌触りが口の中に広がる。濃厚なバラと甘いバニラの芳醇な香りが鼻を抜け、舌先に果実酒のような甘みとほのかなスパイスの刺激を感じる。  キスで味わった唾液の甘さとは比べ物にならない程の美味に、次から次へと溢れる液体を舐めるのをやめられない。同時に夢中になるフェンヴァーンの体がどんどん熱くなる。マローニの治癒魔法と同じ効果が全体に染みわたって広がっていくのを感じる。それは固く張り詰めた彼自身へもさらに活力を与える。もう誤魔化しようがないほどにそこは滾っていた。  ちゅぷん、とフェンヴァーンの咥内から傷口が少しふやけたユーリの指が引き抜かれた。 「元気になったか?」 「主に怪我とは別のところが」  興奮と我慢ではあはあと荒い息をつくフェンヴァーンの、動かない足の付け根辺りが高く盛り上がる。布団をかけていても野性味のある匂いが部屋に漂っていた。  ユーリは盛り上がりを指先で軽く弄ぶ。  布団の上からのもどかしい刺激にすらフェンヴァーンの背筋を甘い衝撃が断続的に駆けあがっていった。  今すぐ胎中(なか)へぶちまけたい。  それしかもうフェンヴァーンの頭にはなかった。しかし相手がいない。目の前の美しい男は相棒だ。代わりを頼むわけにはいかない。  何より長寿によって出生率が下がり続けている鏡面世界(ミラーリング)においては、不毛な同性間の性行為が禁忌とされている。破天荒な性格だとはフェンヴァーン自身自覚しているが、それを踏みつける倫理観ではない。 「出てってくれないか? 処理、するから」  顔を真っ赤にしてフェンヴァーンはユーリに言った。幸い手は自由に動く。  ユーリは聞いているのか、いないのか。とても美しい顔で聖母のように微笑んでいて、ベッドの縁にかけた腰が動こうとする気配はなかった。   「ユーリ……なに、をッ!?」  不意にフェンヴァーンにかけられた布団をユーリはばさりと剥いでしまう。むわっと籠った熱気が飛び出した。  両足とも骨折しているため、布団の下の入院着はひざ丈迄の貫頭衣だ。熱気の元はその裾を高々と押し上げてそそり立っていた。  ユーリはその頂に躊躇うことなく形の良い唇をつける。喉奥まで一気に銜えこんだ。 「や! あ……あぁ……っ!」  一部の隙もないスーツ姿の、綺麗なアッシュブロンドの前髪を耳にかけた美貌の天使が獣の欲望にねっとりと奉仕している。時折フェンヴァーンへちらちらといたずらっぽく上目遣いに視線を向けて、あえて見せつけるような角度をとりながら。  もうそのシチュエーションだけでフェンヴァーンはたまらなくなる。  だがここで粗相をするわけにはいかない。相手は相棒だ。その中へぶちまけるなど、さすがにフェンヴァーンの倫理観が許さなかった。 「やめ……ユー……リッ、はな、し……ん……ッる」  フェンヴァーンは欲望と倫理の両極端に身を裂かれる思いをしながら、ユーリの手管に耐え続けた。  だが、   「フェンヴァーンさ~ん、お話いいですかぁ?」  個室の扉を開けて女性の看護事務員が笑顔で入ってくる。  彼女の姿を見た瞬間にフェンヴァーンの頭の中は真っ白になった。 「ッあ! ……あー……ぁ……」  絶望的に心地よい排泄感にぐちゃぐちゃになった頭を抱え、フェンヴァーンは不随意の痙攣を何度も繰り返して小さく呻く。呪いのせいで人狼の時ほどの量でなかったけれども、欲望の証は全てぶちまけられ、ユーリはそれを喉を鳴らして飲み干していた。  看護事務員は目の前の淫靡な光景などまったく意に介した様子もなく、淡々と入院時に書いた誓約書のコピーなどをテーブルの上に置いて説明し、ニコニコと笑ったまま出ていく。  力なくうなだれたフェンヴァーン自身を、彼女が去ったと同時にユーリはちゅるりと解放した。 「見られた……ぁ~」  フェンヴァーンは両手で顔を覆ってさめざめと嘆く。これからどんな顔をして彼女らと接していけばいいのか、考えるだけで気が重い。早く退院したくて仕方なかった。  一方その傍らでユーリは内ポケットから取り出した白いハンケチーフで口元を上品に拭った。 「見られてない」 「え?」 「ここへ私が入ったときに、次元の位相を少しずらしたから。彼女には君がベッドの上で一人座っているようにしか見えていなかったはずだ」 「は?」 「辛いなら、素直に頼ってもいいんだろう? 我々は相棒(バディ)なんだから」  ユーリは気分を害した様子もない。最も爛れた行為の後だというのにむしろ汚れ一つ見られない眩しい位キラキラと綺麗な笑顔を見せる。心なしか彼の目の下の隈は薄くなっているようにフェンヴァーンには見えた。  血を与えるバーターに精力を奪ったのだ。吸血鬼というよりも淫魔である。 「……変な性癖に目覚めそう。これって性行為……じゃないのか?」 「食事だ。故郷ではロクなものがなくて、ずっとカップスープしか飲んでなかったからな。腹が減ってしかたなかった」 「ソロモン法違反じゃない?」 「君が人間だったらな。だが神格の上下が逆転している場合、我々(妖魔)が獣を捕食しても実は食殺していないなら人間世界でも許容範囲だ」 「悪食だな」 「よく言われる。じゃお大事に、フェンヴァーン。復帰を待ってるよ」  そう言ってユーリは荷物を手にさっさと病室を出ていく。  パタン、と静かにドアが閉まる。  それを見送ったフェンヴァーンは引き寄せた布団を頭からかぶり、大きくため息をついた。

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