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4.血の盟約 ①

 フェンヴァーンが見上げると、澄み渡った薄紫色の空に黄色い雲が人間世界ではありえない程の高速で流されていくところだった。  その空へ塔(タワー)が突き刺さるようにそびえたつ。頂上がどこに繋がっているのかは見えない。足元は小高い石灰質の岩丘の上にあって、パルテノン調神殿様の白亜の建物が日の光を背に受けてどっしりと建っている。遠くからみれば細かいドレープにすら見えるのは幅数百m、段数は数百段はあろうかという階段だ。大きいというよりは広くなだらかに長い。  これが鏡面世界(ミラーリング)の維持聖府庁である。  中には聖府機関である議場だけでなく、真実の間(コート)と呼ばれるこの世界の裁判所、調停機関ももある。地下には時が止まった白い闇、煉獄(コキュートス)がある。いわゆる刑務所だ。   「エレベータでもエスカレーターでもいいから、もうちょっと便利なものをつけろよ」  フェンヴァーンはふうっと大きく息を吐いて大階段の上から5段目ほどのところに座る。タフなことに自信はあるが、さすがにこの階段を下から歩いてくるのはきつい。周りを見るとフェンヴァーンのように地道に歩く者もいたが、魔法や翼を使って飛んでいく者が多く見られた。  重厚な石の屋根を支える細長い同素材の柱の奥にある扉は固く閉じられている。これは決して開くことがない。建物を出入りする多くの関係者は扉の前でふっと姿を消し、またふっと現れる。ここも境界管理庁と同じで安全上の理由から許可なき者に出入り口は開かれないのである。  だから待つしかない。フェンヴァーンは膝を抱える。冬の寒さに石段が冷え切っていようと、埃っぽい強い北風が冷たく頬を撫でようと中に入る許可を持っていないからだ。似たような境遇と思われる者は階段のあちらこちらに見られた。  雲はせわしなく形を変えていく。空の中に同時に存在する3つの月と太陽が動いて、柱の影が少しずつ伸びていく。もうそろそろ尻の方が石の冷たさに痛くなり始めてくる。 「まだかな」  フェンヴァーンは背後を振り向く。  そこに白磁の彫刻を思わせる美貌のスーツ姿が現れるのを認めた。 「フェンヴァーン?」 「よ」  相棒の姿を認めてユーリが声をかける。  フェンヴァーンは長く待っていたことを感じさせないよう、今来たようなそぶりで軽く手を挙げた。立ち上がりそれとなく胸を張ってバッジを見せる。体のどこにも怪我の痕跡は見られなかった。 「退院したのか。全快のようだな。おめでとう」 「おかげさんで。班長に聞いたら、今日はこっちに来てるって。仕事?」 「いや」  ユーリは曖昧に笑う。二人は一緒に階段を下りて行った。 「仕事だけじゃない。例の諮問だ。願書を出したら、その場ですぐに簡単な確認があるんだ」  例の諮問と言われてフェンヴァーンの頭には執行官認定試験が思い浮かぶ。最低条件がソロモン法だけでなく人間界の法体系や概略についてもほぼ完ぺきに網羅しておかなくてはならないらしい、とはトウゴウから聞いたことがあった。 「すごいね。手応えは?」 「悪くはない」 「それはいい。前哨戦に飯食いに行かない?」 「ホテルへ?」  ユーリは何の気も衒いもなく言った。  その言葉でフェンヴァーンの脳内に、3ヶ月前の病院での卑猥なひとときが思い出される。顔が一気に火照ってきたので、口元を手で押さえて少し視線を逸らした。 「いや……その……そうじゃなくて……普通にさ、飯だよ。人間が食べてるような」 「味覚は君と違ってかなり鈍いが、かまわないか?」 「それはさ、ちゃんと旨いモノを食べてないからだよ。早く退院できたのもあんたのおかげだろうから、快気祝いに俺が旨いと思ったものを食べに連れて行くって言ってんの。もちろん俺の奢りで。人間世界には山ほどあるんだぜ」 「ありがたいが、本当にたぶん呆れるほど私の舌は馬鹿だが、大丈夫か? これまで付き合ってきた者たちは、みんなそれで腹を立てて別れてきたんだが」 「俺をその他大勢と一緒にするなよ。バッジがあればどこでもドアになるんだ。世界中回って俺が旨いと思うものの中から、あんたが旨いと感じる飯を探し当ててやるよ。手当たり次第に食うけど、小食とか言うなよ」 「それは、大丈夫」 「じゃあ行こう。手始めは日本のラーメンだ」  フェンヴァーンは段の下からユーリへ掌を伸ばす。ユーリはふわっとした笑顔を見せて彼の手にそっと艶やかに整えられた指先を添えた。 「期待してる」  ユーリの顔を見るフェンヴァーンは、ぽうっと顔を赤くする。しかしすぐに気を取り直して手をぐっと握ると、善は急げとばかりに階段を足早に下りて行く。  その様子の一部始終見ていた一つ目の烏の存在に、二人は気づいていなかった。

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