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4.血の盟約 ②

 雨は夜通し降り続いていた。  夜と、月と、霧と、静寂が支配する真っ黒な幽谷の森の奥に佇む城、ドラキュリウス家の屋根を打つざらざらという水音が、まるで遠い海の波のように響いていた。  窓の外を見れば、庭の噴水が雨に沈み、鳥たちは姿を隠している。 「カロエお嬢様が今朝はお辛いだろうな」  若い執事、ノーフィスは自室でシャツに袖を通し、手元と襟首の身だしなみを整えつつ言った。ネクタイを結ぶ。少し緩めにしてみるが、すぐにやり直す。カロエの前では、乱れは許されない。こんな天気の日は機嫌が悪いのでなおさらだ。  部屋を出て階下へ向かう途中、彼は目隠しをした顔色の悪いメイドが恭しく差し出した新聞を受けとった。  ノーフィスは台所の召し使い用食卓について中を眺める。猫の話題や美術展の情報など、カロエが喜びそうな話題を探す。しかし今日のニュースはどれもこれも気分を滅入らせるようなものばかりだった。  トップ面に某銀行がデフォルトを打ち出した旨が書かれている。支店長の放埒な営業手腕が原因で資金繰りがショートしてしまったのだ。  彼の行方はわからない。 「食われたんだろう……自分の頭だったやつに」  さっきとはまた別の、しかしやはり顔色の悪いメイドから血のように赤い紅茶を受け取ってノーフィスは口へ運ぶ。  大捕物があった銀行の地下を後から見に行ってみたが、封鎖されたあとだった。支店長の闇オークション会場だった場所だ。今ではビルが建設された当初から地下は二階までしかなかった(・・・・・・・・・・)ように建て替えられていた。  境界管理庁。  ノーフィスは忌々しい特務機関の存在を思って外見には似合わない行儀の悪さでチッと舌打ちをした。  封印特務班が施工の当初図面から、損害箇所から、関係者の記憶から何から、全部手を回したに違いなかった。  銀行の摘発、埠頭倉庫の手入れ、組織の末端吸血族に紛れていた内偵(モグラ)。この一年は黒の夜明け(スヴィタニェ・ツルノグ)にとって星の巡りがよくないことばかりである。  特にこの銀行摘発は非常に手厳しいダメージだった。先代からコネクションのあった者や、新規で有力な戦力として当てこんでいた者達が悉くオークション会場で捕えられ、カロエが個人的にこつこつと積み上げてきた同志達の信頼とネットワークも著しく損なってしまった。集めた人間達もそれまでため込んできた財産や資金ルートもごっそりと接収され、抵抗した仲間も何人かが手傷を負った上、司直の手に落ちた。  鏡面世界(ミラーリング)真実の間(コート)には辣腕を振るうユーリが弁務に入ってくれるから、不安はない。それでも埠頭の倉庫の件にしろ、組織末端に忍び込んだモグラの存在にしろ、代替わりを機に組織が綻び始めているのをノーフィスは感じていた。  なんとかしなければ。  ノーフィスは上等なカップの縁を軽く噛んだ。  グランドマムはカロエをいたく気に入っている。しかし失態が続けばそうも言っていられない。いずれ見限られるかもしれない。  そうなったとき、彼女に期待されるのは「ただ子を孕むだけの真祖」としての能力に過ぎない。彼らの両親のように次世代の真祖が誕生してしまえば、不要品として処分される可能性は十二分にあった。もちろん彼女の前に補佐が不十分だったノーフィス自身が消されるかもしれない。  それだけは避けなくてはならない。  だが事態は次々にカロエを追い込もうと動いている気がしてならない。それはもう意図的なほどに。 「意図的?」  ふと、ノーフィスは自分で思いついて、なぜ今までその視点がなかったのか、と自らの読みの甘さを叱責した。  グランドマムに逆らう者などいない。そう思っていたからだ。しかし誰もが誰も彼女に心から付き従っているわけではない。  妖魔種族は吸血鬼だけではないし、それぞれの一族を後見している魔王は自らの勢力を拡大する機会を虎視眈々と狙っている。逆にそれらの介入を嫌う立場の魔王なら、後見している一族内にいる獅子身中の虫に対して敵対意識を持っている可能性も否定できない。 「死神、か」  ノーフィスは吸血鬼族の後見であるアンデッドの神を思う。  ただ神は銀の契約によりある一定の神格を持つものでしか認知できず、だからこそ直接的に認知できない者たちへ手を下してはならないことになっている。  だとすれば、誰かが彼の手先として動いていると考えられた。  その場合、候補はそう多くはない。中にはノーフィスが考えたくはない者もいた。  まだカロエには話せない。それが事実だった場合、彼女は発狂してしまうに違いなかった。  せめてもの日々の慰めにと、朝食はふわふわのオムレツと温かい紅茶をノーフィスは用意させる。紅茶には彼女の大好きな薔薇のジャムを溶かしておいた。  寝室の前で、彼は深呼吸をする。ノックは三回、音は小さく、優しく。扉の向こうから返事がなくても、彼は慌てない。お嬢様の世界は、外の天気にも、社会の喧騒にも左右されない。彼はその静かな世界を守るために、今日も雨音の中を歩き続けるのだ。 「お食事をお持ちしました、カロエお嬢様」 「どうぞ」  ようやく声がしてノーフィスは中へ入る。大理石の床が広がる広い部屋には天蓋付きの大きなベッドが一つとテーブルセットが一つだけ。  ベッドの上にはシースルーの黒いネグリジェとショーツだけを身につけた未成熟な肉体のカロエがいて、その周りには彼女に顔のよく似た全裸の青年が数人侍っていた。  ノーフィスは男達の存在を極力意識から排除した状態で、手にした朝食をテーブルへと並べた。   「お加減はいかがですか?」 「頭が痛いわ」 「雨のせいですね、お嬢様。紅茶はいかがです? お嬢様の大好きな薔薇のジャム入りですよ」 「いただくわ」  ベッドから降りたカロエが裸足で大理石の床を歩く。ストンと椅子に座ると、ノーフィスがサーブした紅茶を口にした。 「死神の機嫌がいいみたいね」  窓の外、霧が広がる大雨の風景を眺めてカロエは不機嫌に言った。鏡面世界(ミラーリング)では世界の天気はその土地を後見している者の気分によって変わる。霧の里(ミスティランド)では霧が薄ければ機嫌が悪く、霧が濃くて雨が多ければ機嫌がよいとされる。  遠くで雷鳴が響いて、 「格別のようで」  と、ノーフィスは返した。 「何かあって? 死神が小躍りするほどいいことが」 「さあ」 「さしずめ、私たちにとってはよくない事なのでしょうね」  ノーフィスの手がふと止まる。彼女の口ぶりは死神からの不興を知っているように感じられた。何も応えないままテーブルへの用意を続ける。カロエは廊下から少し浮いた白い足をゆらゆらと揺らした。 「ノーフィス。私はもうあなたと出会った頃の小さなカロエではないの。御祖母様からすべてを引き継いだんですもの、気を使わなくてもいいわ」  一見すると少女の姿に女王の風格が漂う。テーブルの上の準備が終わると、ノーフィスは背中に右手を、左手を腹部に添えて軽く頭を下げた。 「それでは、僭越ながら我が組織黒の夜明け(スヴィタニェ・ツルノグ)を取り巻く情勢についてご説明を」  静かに告げてからこの一年の組織と境界管理庁の対立を軸に情勢をノーフィスは説明していった。  その動きを唆しているは誰なのか。  カロエが窓の外に目をやる。彼女の目には大釜を持った頭陀袋の姿が霧雨の間にゆらゆらと揺れて見えていた。 「忌々しい死神」 「所詮は神です。どれほどの絶対的な力があろうとも、神である以上直接後見族に手を下すためには維持聖府への煩雑な手続きと承認が必要になります。現実的ではない」 「うっとうしいのよ。消えてしまえばいいのに」 「グランドマムは死神に代わる後見について模索しておられたようですが、魔王クラスの思惑は我々下々の考えが及びもしません。なんにせよ死神はうち捨てておいてかまわないでしょう。問題は直接動けない彼にかわってその意図を受けた者がまだ動いているかもしれないという事です」 「裏切り者は排除したのでしょう?」 「組織末端の売人共はニセ人狼達に。しかし彼らは今境界管理庁の入界者収容所(第4局)にあります。我々の情報が漏れるかもしれない」 「どこまで知ってるのかしら?」 「さて。我々が直接雇った者たちではないので、そこまでは……」 「ではその雇い主の方を殺して」 「そちらはすでに対応済みです」 「さすがね」 「それでも我々を邪魔する動きが止まっているようには思えません。報告によると、維持聖府機関によって魔薬工房が一つ制圧されたとか」 「死神が手を回したのかしら?」 「神は維持聖府においては裁定者です。直接的な干渉はソロモン法で制限されています。所詮は見守るだけ。むしろ他にも死神と通じる者がいて、そちらから手が回ったかと。現在は確認中ですが、本星の目処は付いています、が」 「そう………。必ず、殺して」  カロエは何の躊躇いもなく言った。  その顔色を上目遣いに伺い、ノーフィスは尋ねる。 「本当にそれでいいのですか?」 「どうして?」 「最も怪しいのは、ユーリです」  カロエは目を見開く。大きな黒曜石の真円が真っ赤に染まった。 「バカなことを!」  可憐なティーカップがノーフィスに投げつけられ、それを避けた先の床の上で粉々に砕ける音が響く。ベッドの上で猫のように揺蕩んでいた青年達がはっと顔を上げたまま、おびえたような顔をして黒い霧となって消えていった。  予想通りの反応に、ノーフィスは少し肩をすくめてカロエを見る。  カロエは目を見開き、その可憐な容姿には似つかわしくない烈火の剣幕で吠えた。 「あの人が、裏切るですって? 一族を? 私達を? そんな筈はないわ。だってあの人は、一族の弁務士なのよ。実際、オークション会場で捕縛された者たちの弁務はあの人が担っているのでしょう?」 「ええそうです。けれども状況証拠は彼が怪しいと示している。死神と直接対話ができるほどの神格を有しているのは各家当主クラスでしかない。私程度では視認することもできないのです、お嬢様」  その上で、厳しい情報統制を行っているにもかかわらず、取引の現場や構成者の種族や人数まで把握されていて、現場には必ず鏡面世界(ミラーリング)の維持聖府官憲や境界管理庁が踏み込んできていた。  『黒の夜明け(スヴィタニェ・ツルノグ)』は弱さを認めない。保身のために情報を売ればどうなるか、所属している者は誰も知っている。だから組織から情報が漏れることはまずない。漏れるとするならば既に捕まって煉獄送りになった元同志からと考えるのが妥当だった。  彼らから情報を引き出し、その身柄の安全とよりよい保釈条件を真実の間(コート)へ取引材料として提示できる人物として考えられるのは弁務士しかいない。  ユーリのこの一年の平均訴訟担当回数はノーフィスが調べた限りで2402件である。うち取引920、減刑286、完全勝訴804。敗訴は392件となっている。  敗訴率が2割以下、完全勝訴が3割越えという実績だけで彼の有能さに目が行きがちだが、完全勝訴と同程度に取引が多い。珍しいことではないとはいえその数が示しているのは彼が依頼人の利益のためにソロモン法側に有益な情報を売っている可能性を示唆していた。 「ありえないわ。それにあの人は真祖よ!」  カロエは椅子をひっくり返して取り乱して立ち上がると、大きく手を振り払い、ヒステリックに言った。  鏡面世界(ミラーリング)の民は神格が高い種族ほど長命となる。そのため出生率は下がり、種族数が先細りして行く定めから逃れることができない。  真祖とは血族に新たな遺伝子型と活力を与え、衰えた繁殖力を回復するための存在であり最後の希望だった。 「わかっていて? 真祖は純血を護らなくてはならない存在。一族を繁栄させる義務がある。どうして卑しい維持聖府の味方をして、つまらない人間の定めた銀の契約を守り、一族の悲願を、純血者による世界の構築という崇高な理想を裏切るというの?」 「弁務士は維持聖府に逆らう者ではありません。所詮は遵法者として、銀の契約に従う者です。その上で、一族を存続させる為に交渉し、真実の間(コート)で罪の軽減を訴えているだけ。今はまだ確認中ですが、彼が死神と通じて我々の理想とは違う方向性へ一族を導こうとしている。その可能性は否定できない。あなたと同じ真祖であるからといって、それが組織への恭順の証とは、必ずしもならない」 「だまりゃ!」  大きな破裂音と共に、言葉は失われる。カロエの小さな、それでいて鋭い爪が伸びた白い手が、ノーフィスの頬に鋭い傷をつけながら、強かに彼を打ったからだ。 「去りなさい、ノーフィス!」  カロエは真っ赤な瞳をなお深い赤に変えて睨み、命令する。ノーフィスは頬に入った深い傷口から伝う赤く細い筋を長い舌でぺろりと一舐めすると、足下から黒い霧となって部屋の扉の隙間へ吸い込まれて行った。

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