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4.血の盟約 ④
いつもなら、この季節は冷たく乾いた風が吹き抜けるのに、今日は珍しくしっとりと雨が降っていた。
「リリスの機嫌が悪いかな」
ユーリは電力を供給するワイヤーが縦横に走っている空を見上げる。
ニューヨークのマンハッタンや東京、香港などの人間世界の先進都市部でよく見た高いビル群によって狭く切り取られた空は、多少ドブくさい細かい雨を降らす厚い雲に覆われている。ラスベガスやマカオ、モナコなどの歓楽都市で象徴的な煌びやかなネオンは、朝を知らないこの街では年がら年中都市の足下で輝き、今も広告塔からの白いビームライトの帯がくるくる動いて灰色の雲のスクリーンに反射していた。
不夜城都市バビロン。
常夜の砂漠に咲く、大輪の背徳の華。そう、例えられるこの街は、鏡面世界(ミラーリング)でもっとも人間界の影響を受けた都市国家である。一説によると、女主(おんなあるじ)リリスが、かつて人間の男を夫として持った経緯があるからだとも。この街は彼女が作りだした一大娯楽企業体であると同時に、彼女の化身でもあった。
表通りであけすけに誘ってくる客引きをユーリは軽くかわし、派手な大音量を響かせるビルとビルの隙間へ入る。路地裏通りは表通りの喧噪が嘘のように静まり返り、この都市を故国とする淫魔達が商う娼館が立ち並んでいる。明けない夜の闇のここそこで、絶えず淫らな嬌声が響いていた。
そんな娼館の合間にある、廃墟のように汚らしく煤けて古びた雑居ビルへユーリは入った。そこに所属するメルニェット弁務士事務所があるからだ。
「本気か?」
事務所内で淫魔族の老練なホスト経営者のように派手なベストを着た、気難しい気な年配男性が葉巻を咥えたまま尋ねた。事務所長のメルニェットである。
「たぶん、近日中に辞令が下ると思います」
「間違いないのか?」
「最終確認のための召喚令状が来たので」
ユーリはジャケットの胸元から羊皮紙の封筒を見せる。厳重に金と赤と緑の韻符で封印されたものだった。
それをユーリはたやすく解いてメルニェットに見せる。この封印を解けるというのも執行官の資格要件の一つであるので、その点においてユーリが言う辞令の交付の話は真実であろうとメルニェットには思われた。
メルニェットは中身を確認して、深くため息をつくと、封筒をデスクの上に投げ置いた。
「このことを、一族は知っているのか?」
「いえ。まだ」
「知らせる……つもりはなかろうな。その方がいい。あの古漬けババァは存命なんだろう?」
「相変わらず」
「お前の片割れ……あの娘は、まだ婆さんの言いなりなのか」
「物理的に距離を置くでもしないと、話も聞きませんよ。洗脳されてますから」
「『組織』を継いだと、風の噂に聞いたがな」
「さすが。バビロン一の弁務士だけありますね」
「茶化すな。叩き時としては新体制構築の今、だがその分一族の動向に対しては過敏になっているだろう。あの娘の腰巾着が黙って当主の勝手を放っておくとは思えないが?」
「だからこそ私は執行官になるのです」
「故郷と縁を切るつもりか」
「鏡面世界 にいては、彼らの勢力を削れないので。それに境界管理庁というのはなかなか侮れないほどガードが堅い。身を隠すならうってつけだ」
「相棒はどうする? 執行官になるなら手足となる護法官を選任しなきゃならないだろう。お前の出自を知ってそれを受け入れる奴がいるか?」
「その点はすでに。先生は240年前にこの町であった『同族12体殺し』を覚えていらっしゃいますか?」
「忘れるわけない。私が担当した事件だ」
それはこの街で起こった暴力死傷事件である。
加害者は若い白銀人狼1体、被害者は彼を故国から追ってきた12体の氏族人狼。
彼らの故郷には銀狼がいずれ世界を破壊するという予言のために、生まれた場合は成人後に必ず殺すという風習があった。
銀人狼はその因習から逃げるために故郷を出てこの街へ逃げ込んだが、12体の彼の兄らは厳密に予言の警告を守らんがために彼を追って故郷から出てきたのである。
食うための殺害は合法。
これが鏡面世界 の決まりだった。しかしバビロンは人間社会により近い独自の特例法と経済を持っている。その関係上、一切の殺しが罪となる。
にもかかわらずこの兄弟達は殺しのための殺しを街の中で繰り広げた。結果、加害者によって12人の兄たちは全員絶命し、捕らえにきた維持聖府の官兵は6人が病院送りになったのである。
「結局リリスが夫の魔王 から借り受けた私兵を出動させてようやく確保に至ったんだよ。そこで知られていなかったソロモン法違反の因習が明らかになって、結構長い間俺はその正当性を巡って獣族長老会とやりあったもんだ」
「その加害者の処分はどうなりました?」
「煉獄 の第三階に有期で囚われていたはずだが……刑期は、終わっているな。身元引受人が誰になったかまでは私は知らないが、故郷には帰っちゃいないだろう」
「見つけたんですよ。境界管理庁に匿われていました」
「なんだって?」
それは偶然だった。
ユーリの出自にまつわるもめ事のために半ば押しつけられた相棒 。彼は巧妙に人間のふり をしていたから、最初は騙されていた。
彼とキスしたとき、その味に彼が獣族だと知った。
あの囮捜査の夜、真っ黒な夜空をバックに、白銀の豊かな毛並みがきらきらと光を放つ狼の神格に恐怖を覚えて確信した。
彼が240年前にバビロンを騒がせた白銀の狼なのだと。
「とても、よい男でしたよ」
ユーリはメルニェットに笑顔で言った。
吸血鬼からの極上の誘因香にも、特殊能力の『誘惑』にも本能を滾らせながら、任務を優先できる理性の強さ。
業務に対する情熱。
仲間や弱者に対する義侠心。
相棒に対する礼儀と気遣い。
人間世界という新しい知識に対する好奇心と勤勉性。
そして獣族最強クラスの神格。
どれをとっても相棒としてはこれ以上の相手はいない。
誰にも、渡さないとユーリは決めた。彼を自分のものにすると。
だから『印』をつけた。
「『印』をつけたのか?」
メルニェットは素っ頓狂な声を上げた。
「ええ。ですので私が執行官になれば、彼は自動的に護法官になります」
「本人は同意してるのか?」
「吸血鬼が『印』をつけるのに、同意はとりません」
「だがお前達が一心同体になったって事は、護法官の罪をお前も問われるということだぞ」
「それは承知の上です。一族は彼を諦めていないでしょう。きっといつかはそのことでぶつかることになる。ですが一族と対立しているというなら私も同じだ」
ユーリは悲しげに目を伏せて、自嘲気味に言った。
「死なばもろとも。辛いなら、素直に頼ってもいいんだそうですよ。相棒 なら」
最後にメルニェットへ現在進行中の案件について引き継ぎをお願いし、事務所に置いた私物は正式な辞令が下ったら引き取りに来ることを告げる。
「お世話に、なりました」
ユーリは深々と頭を下げると、事務所を静かに出て行った。
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