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4.血の盟約 ⑤
表通りの喧噪が急に暑くなった街の空気の様相を助長する。
ユーリはそれを避けてわき道から裏通りへ入る。喧噪は少し遠のいたが、やはり暑さは変わらない。寒さには比較的強いが、暑さにはそれほどでもないのでウンザリとして立ち止まる。額にうっすらと滲む汗を手の甲で拭った。
「ハンカチを、どうぞ」
その眼前に白いレースのハンカチが渡される。少しつんとするほどの、ラヴェンダーの香水の匂い。それを差し出す手元は、今の気候には不似合いな羽の袖飾りがついたベルベッドの袖に包まれていた。
ユーリは顔をあげ、険しい目つきで見る。
真っ黒なゴシックドレス姿のカロエが立っていた。
「事務所に行ってたの?」
「この間のオークションで捕まった同族の件でね」
「大変ね。ねえ兄様は、私達を裏切ったりしないわよね」
「どんな悪党でも、弁務には手抜きしたりしないよ」
ユーリの首筋を、暑さによるものとは違う汗が流れる。嫌な冷たさを感じさせた。
「そう」
カロエが微笑む。本当に少女らしい可憐な美しさがあった。だがそれはすぐに失われた。
「嘘つき。弁務士をやめたくせに!」
強い口調で責めるカロエからユーリはひらりと飛び上がって10m近く離れた。
目凝らすとカロエの背後には彼女の側近であるノーフィスが居る。本当にすぐ近くまできていたというのに気配を一切感じなかったのは、彼の腹心として培われた技量の高さによるものだ。
彼のあげた左腕の上には大きな一つ目の烏がいた。監視されていたのだと知った。その烏もノーフィスの分身として彼と同等によく訓練されているに違いなかった。
隠し立てしても無駄。
ユーリはそれを悟ってカロエとまっすぐ向き合った。
「耳が早いね」
「じゃあ、執行官になるっていうのも?」
「そうだよ」
「どうして、兄様?」
「それを君が聞くのかい、姉様」
二人は見つめあう。
その間に横たわる闇に、重く湿った風が通り抜けた。
「兄様なら、わかってくれると思ってた」
「姉様には、言ってもわからない。だから、私は君を、糾弾する側に立つ。御祖母様の妄執から解き放つためにも」
平然と宣言するユーリに、カロエのフランス人形のように整った顔が歪み、怒りに目が真っ赤に染まる。高まる神格の気配を察知し、ユーリは身構えた。
「御祖母様に言うか? だがお前たちはやりすぎた。後見者達の不興を買っているのはもう知っているはずだ。死神に霧の里ごと根絶やしにされたくなければ、テロから手を引け。これが一族の長としての最後の忠告だ」
「ご忠告ありがとう、兄様。でもドラキュリア一族は、裏切りを許さないわ。私もそう。裏切ったら、殺すの。その手足を切り落として、首輪でベッドに縛り付けて。兄様の胤が枯れて無くなるまで、何人でも宿して、愛 しつくしてあげる」
カロエは完全に激高していた。
彼女は片腕をまっすぐに横へ広げる。彼女の小さくて白い指先から鋭い赤い爪が鋭い刃となって飛び出す。その刃が起こす風に触れたビルの壁に、鋭い亀裂が走った。
カロエはそれを鋏のように交差させて首筋にあてる。そのまま躊躇うことなく勢いよく肌に刃を滑らせた。
暗い月の光の元、闇よりも真っ黒な血が噴き上がり、その勢いに押されるように小さな体が後方へ倒れる。ノーフィスがそれを抱きしめて支えた。カロエは苦痛と失血に体をぶるぶると震わせていたが、その顔は不敵に笑ったまま、視線は決してユーリから離さなかった。
彼女の吹き出た血潮が黒い霧へと代わり、次々と無数の蝙蝠に変化していく。蝙蝠は集まってやがていくつもの同族の姿を形作る。勢いを失った血液で、カロエのドレスがべったりと浸される頃には、40人近いユーリによく似た青年達の集団がカロエを先頭にユーリを狙っていた。
「こんなに眷属を増やすなんて、なんて無茶な事を…」
ユーリは驚愕に目を見開く。
血の召喚はいついかなる状況下においても従僕を呼び出すことができる代償に、彼らに力を分け与え、主人は従者からの苦痛や感情などの一切をも自分のものとして引き受ける。
また主人が従僕を呼び出すためには、従者と同神格分の血液を必要とする。多ければ多いほど、高い神格であればあるほど、主人は苦痛を伴う。
一人の身に、すべてを背負うにはこの人数は異常だ。その苦痛は計り知れなかった。
だがカロエはうっとりと笑っていた。口元から血を滴らせながら。
「兄様も仲間になってよ。素敵なのよ。みんなで交わったら、すべての快楽が私に流れてくるの」
「カロエ………」
「私、兄様の眷属になってあげる。そうして兄様も一緒に交わりましょう。私に流れてくるすべての快楽が、兄様に与えられるの。すばらしいことよ。そうして私たちは一つになるの。永遠に。私、兄様の子供を産むわ。何人でも」
カロエの目は正気を失っていた。
そうさせたのは、誰か。
眷属や従僕を作らせることで真祖としての神格を抵抗できないほどに奪い、耐えきれないほどの苦痛と快楽を、幼い身に我慢と、依存と、恐怖で躾たのは、誰か。
「……御祖母様!」
ユーリは奥歯を噛みしめる。
裏切りを許さない血族の亡霊。彼女は両親 から命を奪うだけでなく、残された子供達に死ぬより辛い責め苦を与え、いびつな愛で狂わせた。
カロエは血泡を吹きながら、ゆらりと鋭く赤い鋼の爪でユーリを指し示す。80の真っ赤な狩人達の視線が一斉にユーリを見つめ、鋭い牙と赤く長い舌を見せて下卑た笑いを見せた。
「愛 しつくしてあげる。捕まえて! 一度くらいなら息の根を止めてもかまわない。どうせいくつも命を持つ身よ。四肢を削いで、押さえつけて。首が繋がっていれば何度でも蘇生するわ」
カロエの命令に従って、狂った目をした従僕達が一斉に襲いかかってくる。さすがに40人も相手にすることはできない。捕まればどうなるか、ユーリの奥底に封じた両親亡き後の記憶が思い起こされる。
おぞましい、永遠(とわ)に無慈悲な悪夢の日々。
嬲られ、弄ばれ、傷つけられ、引き裂かれ、食われ、犯され………回復すればまた同じ事が繰り返される。幼い体に与えられた苦痛と悦楽の混在は、本能に強く刻みつけられ、今でも触れられることは正直苦手だ。急に触れられると無意識に体が強張った。
ユーリという存在の魂は死んだと、だからもはや守るものも、恐れるものもないのだと、自身に言い聞かせて生きてきた。けれども、拭いようもない精神的外傷(トラウマ)は、ユーリの足にかけられた重い枷だった。
その場に背中を向けてユーリは走り出す。どこへ行こうという当てはない。とにかくこの状況をバビロンの官憲に知らせる必要があった。
「無駄よ、兄様!」
高らかにカロエが笑うと追いかける吸血鬼の数体が黒い霧に代わってその行く手を塞ぐ。完全に進路を塞がれてユーリは囲まれた。
「フェンヴァーン……!!」
今はただ彼しか思い浮かべることができず、ユーリは一縷の希望となる相棒の名を呼んだ。
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