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4.血の盟約 ⑥

 それは夢のようだった。  車の中で散々交わって、それでも足りなくてラブホテルに飛び込んだ。  ユーリの肌も、汗も、唾液も、欲望の証からとろとろとあふれる蜜も、すべてが彼と楽しんだ食事の記憶を吹き飛ばすほどに美味しかった。  噛みつきたくて、でもそれがどうしてもできなくて、とにかく全身をくまなく舐めて吸った。触れたそのときは固かった体がほぐれて、くすぐったいといいながら気持ちよく火照った体を持て余してユーリが啼く。その反応が嬉しくて止まらなかった。 「もし、私が執行官になったら、君にお願いしたいことがある」  散々欲の証を貪りあって、二人そろって眠気に負けた夜明け前に、フェンヴァーンの腕の中で眠そうに目をこすりながらユーリが言った。  フェンヴァーンは何かと尋ねたが、ユーリは眠いのか躊躇っているのか言葉を続けられなかった。  彼の言葉をいつまでも待とう。そう心に決めてそのまま意識が途切れる。  翌朝のチェックアウトを知らせるインターホンが鳴り響く部屋で目覚めたのはフェンヴァーン一人だった。  広いベッドの隣は冷たく、寝乱れたシーツの上にユーリの姿はなかった。  ただシーツを鼻に寄せて大きく深呼吸をした時、そこに残った濃密な香りだけが、彼の存在を夢ではないと証明していた。  それは夢のようだった。  でなければバーで出された酒に悪酔いしたのか。なんにしてもこれは夢なんだと、そう思った。思いたかった。  目を開ければ真っ暗で、辺りは饐えた路地裏の匂いを覆い尽くすほどの芳醇な血の香りが漂っていた。  足下でぴちゃりと水音が響いた。大きな狼の足先が完全に浸ってしまうほどの血溜まりが広がっていた。  その中心で誰かがうつ伏せに倒れていた。薄暗い中でも獣の目は、鼻は、彼を誰かはっきりと理解した。 「ユーリ………?」  真っ白な顔と柔らかいアッシュブロンドの髪がべったりと血の海に浸っていた。 「……ユーリ…………」  傍らに座り、そっと彼の肌に狼の柔らかい肉球で触れる。  仕立てのよいスーツはぼろぼろに切り裂かれ、肌に鋭い爪の痕が走っている。それらの傷はすでに乾き、ホテルで触れたしなやかでしっとりと手に吸いつくようだった肌は氷のように冷たく固い。  フェンヴァーンの鋭敏な耳は、彼の鼓動の響きを少しも聞けなかった。 「………ユー…」  フェンヴァーンは恭しく、額を地面にすり付けるようにして一面に広がる血溜まりに口づける。大きく長い舌で掬い、嘗めた。    夢ならば、どれほどよかっただろうか。  ああ、なんと香しき、甘い臓腑からの血。  その味が目の前の惨状が夢ではなく現実なのだと思い知らせてくる。  常にフェンヴァーンの本能を魅了し、食らいつくしたいと渇望したものがそこにあった。それは天上の美酒にも似て、路地裏の地面が汚いとかどうとか思う躊躇いもない。  誰にもやらない。  これはすべて、俺のものだ。  ただ夢中で、一滴たりとも失うまいと貪った。 「嗚呼………美味いな」  その感動が活力となって体を満たしていく。今なら神にすら勝てる気さえした。  でも心は、どうしてこんなにも乾いていくのだろう。  フェンヴァーンは嗚咽を漏らす。狼の目に涙腺は無いはずなのに、銀色の毛並みに覆われた獣の顔は、ユーリの血と涙に濡れていた。 「どうして……フェンリルが?」  闇の中から声がして、ゆらり、とフェンヴァーンは立ち上がる。 「誰だ?」  低い獣のうなり声とともに、睨みつける。  目を凝らせば顔のよく似た数人の吸血鬼が立っている。彼らの一人はユーリから毟り取ったと思われる服の端を持っていた。 「お前たちが……お前たちが………! 彼を?!!」  怒りは急激な本質の覚醒を促し、高まる神格が巻き起こす風圧が辺りを蹂躙する。その中央でフェンヴァーンの背中の、胸の、足の筋肉がそれぞれ違う意志を持つように関節を外す音とともに盛り上がり、吸血鬼たちの目の前で見る見る体高が優に4メートルを超える巨体に変化した。  その場にいた者たち全員が黒い月に浮かび上がる白銀の怪物に蒼白となる。それは吸血鬼たちが恐れる人狼族の中で、最も悪辣で貪欲な獣の姿だった。  夢であれば、いいのに。  銀狼が咆哮した。  夜空に悲痛に満ちた遠吠えが響きわたる。  獣になったフェンヴァーンの強大な神格がもたらす呪的効果により、吸血鬼たちは萎縮した。  唯一、カロエだけがフェンヴァーンを睨みつけたまま怯まなかったが、失った血の量が多すぎて、ノーフィスに抱えられたまま動けずにいた。 「行け。我らが使命、偽りの秩序の破壊を遂行しろ!」  ノーフィスが叫び、命令する。  神格結界を乗り越えた者だけが、次の世界を約束されると、その場にいる者達は洗脳(マインドコントロール)されていた。本来ならば神格結界の呪縛に動くこともできない筈の80の赤い目が、一切の動物的感性を封じてフェンヴァーンを見た。  彼らの指先からは鋼鉄をも切り裂く爪が次々と現れる。そのうちの一人がフェンヴァーンの頭上から彼の目を狙って飛びかかった。 「ぎゃあああああ!!」  悲鳴と、べしゃりという湿った肉片が内側から破裂する音が上がった。大きな前足の肉球に捕捉され、そのままものすごい圧力と早さで地面にたたきつけられた吸血鬼の、背骨と内蔵を踏みつぶされた絶叫であり、その痛みを我が身に返されたカロエのものだった。  痛みに身を震わせ、苦しげにのたうつカロエにノーフィスが声をかけた。 「カロエ!」 「こ、殺して。あの狼を! 私の大切な、子供を、傷つけた! あいつを!」  血の涙と血泡を垂れ流し、カロエは自らが飛びかからんばかりの勢いでフェンヴァーンを睨みつけ、叫ぶ。  感覚を共有する同胞を傷つけられ、カロエの従僕達の殺気が高まる。  だがフェンヴァーンの怒りはそれを上回っていた。間髪入れずに一番近くにいた数人の吸血鬼を、一陣の風を巻き起こして鋭い牙と大きな口で銜える。助けを求める彼らの懇願や悲鳴など無視して、強靭な顎が容赦なく咬み合わされ、ばきばきばきっという小枝の踏み割られるような音を立てた。  ああ、不味い………。  人狼にとって、吸血鬼は極上の獲物で、ユーリと同じ肉の筈なのに、まったく味がしなかった。  欲しいのは、ユーリだけ。  ただユーリの暖かい唇が、柔らかい舌が、香しい汗が、濃厚な体液が、欲しい。それ以外は何もいらない。  でも、もう、二度と得ることはできない。  フェンヴァーンはそのまま咀嚼することなく、半死状態で意識を失った吸血鬼たちを遠くへ放り投げるように吐き出す。狼の顎からは大量の黒い血とちぎれた臓物が滝のように流れ落ちた。  このまま、何も口にすることもできずに、死んでしまうかもしれない。  自暴自棄気味になり、次の獲物を狙うフェンヴァーンの瞳は、もはや純粋な獣のそれではなかった。あるのは憎悪と、悲壮と、憤怒と、復讐。鏡面世界(ミラーリング)では禁忌とされる『殺すための殺意』に支配され、正気を失っていた。 「……撤退する……」  怒り狂う銀狼の前に踏みつけられ、噛み潰され、投げ飛ばされ、為す術なく倒されていく同胞の姿にノーフィスは歯噛みする。しかし獣の目に十字架を掲げて吸血鬼の心臓に銀の杭を打たんとする狂信者(人間)と同じ光を見て、反撃を諦めた。  ノーフィスがカロエを抱えたまま天高く飛び上がる。彼女の腕はだらりと力無く垂れ、全身は小刻みに痙攣を繰り返して、目は白目をむいていた。苦痛を快楽と同一の感覚として躾られた身だが、一気に流れ込んでこんでくる数十の同胞の苦痛は、どちらの感覚だったとしても、彼女の脳をショートさせるのには十分すぎる刺激だった。  ノーフィス達が去った後、その場には怨嗟と苦痛の呻き声が響き、濃密な血の匂いが細かな赤霧の姿で漂う。傷ついた吸血鬼が霧に姿を変えて回復と防御を図ろうとするのだが、呪的効果を物理的に切断する銀狼の牙によって、叶わなかった。  フェンヴァーンは雑魚になど見向きもせず、くるりと踵を返すと、とぼとぼとユーリに近寄る。ピスピスと小さく鼻を慣らし、背中に、首筋に、髪に、頬に、瞼に舌先で触れ、肌を汚す血痕を拭った。 「待望の私の胎中(なか)の味はどうだった?」  突然、ユーリの唇が動き、声が出た。長い睫が覗く瞼がゆっくりと開き、銀青の瞳が肩越しにフェンヴァーンを捕らえてにやりと笑った。 「ユーリ?!」  フェンヴァーンの理性の回復とともに、急速に筋肉が獣から人間へと縮小変化し、上半身だけが人間の裸体で、あとは白銀色の獣の毛と造形をした人狼の姿に戻っていった。 「獣の姿でもある程度は理性が保てるんだな」  ユーリはゆっくりと起きあがって、その場に座り込んだ。血糊でべったりと張り付いた髪を恐る恐るかきあげ、血泥だらけでぼろぼろになった自らの姿を眺める。彼の心臓部のシャツは引きちぎられて、ぽっかりと穴があいていた。 「生きてたんだな」  ほぼ全裸状態の人間の姿まで戻ったフェンヴァーンがユーリに抱きつく。完全に人間の姿になっているのに、まるで主に出会えた犬のように彼の頬や耳にキスをし、長い狼の舌で舐めた。  ユーリはくすぐったかったが、拒絶するほど嫌ではなかったし、何よりフェンヴァーンの自分を思う不安が彼の中へ流れ込んできた。非常事態だったとはいえ、気分の悪い思いをさせた自覚はあったから、されるがままになっていた。 「よかった。死んでなかった」 「いや、さすがに一回死んだ。フェンリル状態の君を呼び出す為に心臓を抉り取ったから」 「餓死するかと思った」 「何故だ?」  ユーリは小首を傾げてからあたりを見回す。  彼を追ってきた者達のおよそ半分近くが、痛みや怪我にうめいている。食べるという目的よりは、ただ傷つけるためだけに獣が暴れた後は、凄惨を極めていた。 「馬鹿な子等だ」  彼らが死んではいない以上、その痛みはすべてカロエに還元されている筈だった。想像を絶するほどの激痛の連続に、きっと苦しんでいるだろう彼女の今をユーリは思う。そして一族の長として、非道な曾祖母と、未熟な母親を持ち、彼らに従僕化されたこの子供達を哀れとも思った。 「早々に維持聖府に通報しないと。君の牙につけられた傷が原因で一人でもこの場で死んだら、君は特例法違反者になる」 「それなら、俺が呼んでやる」  暗い路地に強いスポットライトが輝き、ユーリとフェンヴァーン、そして肉片同然で蠢く吸血鬼達を照らし出す。ユーリもフェンヴァーンも光の眩しさに目が眩む。手をかざして光を遮りながら、逆光を背負ってこちらを見ている者達に目を凝らした。 「吸血鬼族の乱交パーティって聞いて出向いてみりゃ、どうやらスナッフビデオの撮影会だったようじゃねえか」  太い葉巻を燻らせて、真っ白なスーツに身を包む男の背後から大きな三対の翼が現れる。それが大きく羽ばたくと、さっきまで汗が吹き出るほど暑かった街の空気が一気に凍り付き、痛みにうめく吸血鬼17体を瞬間的に冷凍保存していった。 「運び出せ」  顎で背後に控える大柄の男達に指示する。冷凍食肉を運ぶ業者のように、手際良く次々に氷漬けの吸血鬼を拾っては運ぶ、真っ黒なスーツに身を包む男達の名前をユーリはよく知っていた。  アスモデウス、ベルゼブブ、ベルフェゴール、マモン………。  いずれも悪魔族の魔王である。本来であればこんなところで相見えることはおろか、通常のフェンヴァーンには視認できる者たちではなかった。それでも見えているのはユーリの神格を借り受けているからであった。  彼らを従え、その筆頭にあるのは一人しかいない。双子の兄、天使族の長ミカエルと同じ顔、同じ髪、同じ翼をして、けれども堕天した者独特の厭世に目は暗く鋭さを増し、真っ白だった羽もプラチナブロンドだった髪も、極彩色の穢れに染まる。 「魔王ルシファー………」 「なんだって?」  ユーリの呟きを聞き、フェンヴァーンは身を構える。再度獣化しようとするのを、ルシファーの傍らに寄り添う美女が鼻で笑った。 「あら、貴方、240年前にも騒ぎを起こしたワンちゃんじゃなくて? 今度は同族じゃなくて、餌あさり? それともそちらの美人さんと路地裏で秘密の獣姦乱交パーティーだったのかしら? でも興奮しすぎちゃだめよ。捕食関係でも殺しは表向き禁止事項なんだから」  大きく張り出した柔らかそうな胸と肉厚の尻、それでいてその間をつなぐ腰は蜂のように細く、全体的にたおやかな女性だ。彼女はその身を布地の少ないドレスと作り物の羽飾りと豪奢な宝石で着飾っている。240年前にフェンヴァーンが触れることはおろか、踵の高いヒールで頭を踏みつけられたが、動くこと一つできなかったほど強大な神格を持つこの街の主、リリスだった。  リリスの腰にがっちり手を這わしたまま、ルシファーはフェンヴァーンを見る。 「ああ、あんときの………。今度は殺してないだけ240年前よりマシだが、もうちょっと大人しくできなかったのか。あまりオイたが過ぎるようなら、維持聖府じゃなくて、てめえの親父に直接突き出しても構わねえんだぞ」 「素敵。今度こそ八つ裂きのこんがり焼き肉パーティね」  リリスはぞっとするセリフをあっけらかんと言う。無邪気な彼女の豊かな髪を、ルシファーは撫でた。 「もっとも、そちらの美人さんとお楽しみの途中でのハプニングっていうんだったんなら、続けてもらっても構わんが。なんなら特別に舞台を用意しようか? 獣姦本番ショーはコアな人気がある。いい稼ぎになるぜ」  彼の挑発に、フェンヴァーンの体が小刻みに震える。神格では到底叶わない相手だ。自分が捕まって煮るなり焼くなりされるのは仕方ない。  だがもしユーリに何かしようものなら、気が狂ってでも、止めなくてはならない。ユーリは自分のモノだ。誰にも、触れさせない。その強い意志が、彼を奮い立たせた。  それを片手で制して、ユーリはルシファーを見た。 「彼が私を助けようとしただけだ。騒がせたことは、謝罪する」 「お前は?」  ルシファーの目が細まり、ユーリの姿を舐めるように見る。暫くしてから深々と葉巻を燻らせて言った。 「死神のところの嬢ちゃんか」  にやにやと笑い、見下ろす。彼の笑いにつられて他の悪魔たちも下卑た笑いを見せる。筆頭妖魔の地位を巡って、彼らと死神が揉めている話はユーリも聞いていた。 「身内のテロリスト一つ黙らせることのできない甘ちゃんだと聞いてる。親父さんも、確か奴らに殺されたんだったな」 「否定はしない。身内の恥を、なんともできないのは、力量不足だと。その件で、後見者やあなた方が不快感を抱いていることも承知している」 「そうだ。なんだったら、筆頭なんてやめちまって、うちの傘下に入るか? ガーゴイルに任せておけばいい。ただ奴ら、喧嘩や悪巧みにはめっぽう強いが、少々根性がなくてな。お前さんが下についてくれれば、心強いんだが」 「それは遠慮しておく。ガーゴイルが筆頭では慎ましく暮らしている他の妖魔種が気の毒だし、現状の変更よりも、身内の浄化が私には先決問題だからな」 「そんなもの、いつまでたっても終わらんだろう?」 「いや、私の代で終わらせる」 「ほう………」  ルシファーは咥えていた葉巻を地面に落とし、ピカピカに磨かれたエナメル質の靴で踏み潰す。 「できるか? 小僧。てめぇんところのババァは、俺達でも一筋縄ではいかん難物だぞ」 「だが、銀の契約は為され、秩序が構築されたのなら、それを乱す因習は正されなくてはならない。その為には、彼(フェンヴァーン)が必要だ。今回の騒ぎは『黒の夜明け(スヴィタニェ・ツルノグ)』から私を守るために引き起こした。彼の処分は見逃してほしい。その代償が必要なら、ストリップショーでもなんでも、してもかまわないから」 「ユーリ!」  フェンヴァーンは慌てたが、ユーリはルシファーを前に一歩も引かなかった。  ルシファーもユーリから目を逸らさない。暫く睨みあったまま腹の探り合いをしていたが、折れたのはルシファーだった。 「俺は、別に見逃してもいい。お前があの婆ぁにどんな抵抗を見せるのか………面白そうだ」 「ルシファー!」  リリスが不服気にルシファーの袖を強く引く。ルシファーは彼女を素早く力強く引き寄せ、濃密なキスで黙らせて、懐に仕舞いこむようにして抱きしめると、二人に背を向けた。 「だが維持聖府の聖属性の頑固者はどうかな? 弁務士の手腕を生かしてせいぜい言い訳してみる事だ」  去りゆく彼らの行く先に、こちらへ向かってくる多くの影がある。それは被害者となった吸血鬼を回収するとともに、騒乱の元を作ったユーリとフェンヴァーンの身柄を拘束しようとする維持聖府の実動集団だった。

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