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5.始末書バディ ⑤

 髭が、気になりだしていた。  顎を触るとジョリという感触に指先が埋まる。 ―――髭が痛いな。  そう言って、キスの前に小さく笑ったユーリが思い浮かぶ。次に会うときはくすぐったいと言われるだろうか。気をつけないとな、とフェンヴァーンは思った。 「……会いたい」  壁にもたれ、ぼんやりと呟く。  次があるのかなんて、わかりはしない。最後に会ったのはいつだったのか。やることもなく飼われた犬のように何度も寝たり起きたりを繰り返しているので、時間の感覚がよくわからない。  髭の伸び具合からあたりをつけようとするけれども、拘置牢がある境界と鏡面世界(ミラーリング)と人間世界では時間の進み方がそれぞれ異なるので、意味がないと考えるのをやめた。  それに会いたいと思う人に会えないなら、それが一秒でも千年でも同じことだ。  生きているなら、それでいい。  せめてそう思うことでなんとか気を紛らわせようとする。けれども、耳を澄ませてもユーリの鼓動を最近は聞き取ることはできない。それがフェンヴァーンを不安にさせる。 「ユーリ……」  フェンヴァーンは膝を抱えて冷たい床に身体を丸めて横たわった。  夢のように、幸せな夜だったのに。  ホテルで抱き合った肌の感触も、キスの味も今はもう遠い。  拘置牢では規則正しく種族に応じた食事が出されているし、それをきちんと残さずに平らげているのに、まったく満たされた気がしない。 「このままじゃ……餓死しそうだ」  ぽつり、と呟いたとき、耳にがちゃんと不快な金属の触れ合う音が響いた。  フェンヴァーンはばっと起き上がって身構える。次にここから出られるときは真実の間(コート)での裁判が開かれる時だと弁務士からは聞かされていたから、いよいよその時が来たかという気持ちだった。  しかし鉄格子の外に立っていたのはよく知った顔だった。 「少しは反省したか? フェンヴァーン」  受口気味の下あごから飛び出した牙をふがふがと動かしてのが尋ねる。側には公選弁務士がいた。 「出て。あなたは不起訴になったわ」  弁務士がそう言うと、フェンヴァーンから首輪が外される。だが彼の心はちっとも晴れなかった。 「保護プログラムは?」 「その件も含めて、今後の事について今から説明する」 「どこへ?」 「お前の古巣だ。ロッカーは未整理のままにしてある。滅多にお目にかかれない局長と出会えるんだ。その髭とぼやけた顔も着替えるついでに綺麗にしてこい」  トウゴウは軽くフェンヴァーンの胸を叩いて先に歩いていく。フェンヴァーンは慌てて後を付いていった。  フェンヴァーンはロッカールームに付属したシャワーブースで何日かぶりに全身をくまなく磨き上げ、丁寧に髭をあたる。髪が伸び伸びになっているのが少々気になったが、固めのワックスで撫で上げて誤魔化した。  局長が、来る。  その意味を測りかねて鏡の中のフェンヴァーンは神妙な顔つきをしていた。  課長クラスまでは見ることはあっても、それより上のクラスを現場で働く者はほぼ見たことはない。彼らは多くの時間を秘跡聖庁や維持聖府、または境界管理庁の執行部など、上層組織にいるからだ。  現在の境界管理局(第2局)の局長は、嘘か本当か人間だという話だった。フェンヴァーンが境界管理庁にかくまわれた時の局長は故郷の長老会に進出したと聞いているので、その人物とは別である。  保護プログラムが、解かれるかもしれない。そうなったらどう生きようか。フェンヴァーンは鏡に映る自分に問う。  元々は根無し草だった。そのときに戻るだけだ。そういう開き直りはどこかにある。  一方でユーリとは離れ離れになるだろうという現実が見えてくる。それは少し、辛い。フェンヴァーンは唇を噛んだ。  ロッカーをあけると着なれたレザージャケットといつものシャツにパンツが入っている。けれども今日はその隣にかけられた茶色のスーツとわずかにクリームがかった柔らかな色味の白いシャツの組み合わせを手に取った。  えらくプライドと格式が高い講師がやってくるセミナーだとか、国際的な会議や協議の警備、庁内式典、あとはフェンヴァーンには全く縁のない表彰式など、フォーマルな場所でしか着たことがない。  深いチャコールグレーのウール地は、光の加減でわずかに青みを帯び、滑らかな質感が静かな威厳を放っていた。肩は構築的でありながら自然な丸みを帯び、胸元はふくよかに膨らんで、ブリティッシュタイプの堅苦しさを感じさせない。広めでクラシックなピークドラペルが彼のワイルドな雰囲気によく似合っていた。  深紅のレジメンタルは結び目をきっちりと。普段が割と粗野な印象の服装をするので、それだけで印象ががらりと変わる。  黒に近い焦げ茶のダブルモンクはいつもの彼と同じように少々こなれた感じだった。 「おお、馬子にも衣装だな」  ロッカールームを出たところでトウゴウと出会い、開口一番そう言われて背中を強く叩かれた。彼も普段全く見ることのないカチッとしたスーツ姿だった。  二人が向かった先は長い廊下に面した数ある扉の一つだ。ネームプレートには第2局局長室と書かれていた。  トウゴウがノックした。 「境界管理局(第2局)警備課強襲班班長トウゴウ、召命によりフェンヴァーンを連れて参りました」 「どうぞ」  あまり聞いたことのない男性的な低い声が答えた。  失礼します、と二人は入る。  まず目に入ったのは部屋の一番奥の光沢のある赤褐色が美しいデスクと、その席についた振袖姿の少女だった。  ほっそりと儚げな細身の体躯を白地に金で染められた裾と赤と白の楓があでやかに舞う着物が包み、真っ白な肌に綺麗に揃えられた黒い髪がつやつやと映える。長い睫毛を覗かせる瞼は閉じられたままだった。少女人形という表現がぴったりと来るこの人物こそが局長であった。  その右手に立つのは警備課長だった。だとすれば左側に立つのは審判課長であろうと思われた。  審判課長の近くにはユーリが控えている。  深みを帯びた赤のレジメンタルが目を引く、限りなく黒に近い濃い灰色の、一切の緩みを排した堅牢かつ規範的なスーツが、彼の細身の体を包んでいる。高めに配された三つの銀ボタンが、軍服のような厳格な規律と格式を刻み、撫で上げたアッシュブラウンの髪と銀縁の眼鏡が冷徹な法律家を象徴していた。  すらっと伸びた背筋で立ち、視線はまっすぐにフェンヴァーンを認める。吸血鬼特有の無表情のまま、極力感情を配した青銀色の目からは彼が何を思うのかフェンヴァーンには知れなかった。  ただフェンヴァーンの方は自分がよく知るユーリの姿を見て、泣きたくなるほど嬉しさを覚えていた。 「早速だが、フェンヴァーン。君の今回の事件とその結果の処遇について説明する」  局長が外見に似合わない野太い声で言った。  フェンヴァーンは局長へと体を向けた。 「で? 俺はこれからどこへ放り出されるんです?」 「そんな怖い顔をしなくてもいい」  局長は目を閉じたままで梅の花のような可憐な唇をにこりと頬笑みの形に歪めた。 「まずは先のバビロンの件から説明しようか。弁務士から聞いていると思うが、君の行為は正当防衛と認められ、維持聖府は告訴を取り下げて結果的に不起訴となった」 「正当防衛?」 「先に『殺しのために』手を出したのは向こうだということが立証されたのだ。正確には君に、ではなくそこにいるユーリに対して、ではあるが」  ちらり、とフェンヴァーンはユーリを見る。  ユーリは相変わらず頑なに無表情だった。  被害者たちが『黒の夜明け(スヴィタニェ・ツルノグ)』の関係者であり、彼らの死はフェンヴァーンのせいではなく彼ら自身の理念にのっとった自殺行為であったと立証されたこと。  そもそも彼らがユーリを襲ったのはユーリが吸血鬼族の真祖として『黒の夜明け(スヴィタニェ・ツルノグ)』とは対立していたからだということ。  あの現場にフェンヴァーンがいたのは、自分も含めて死者を極力出さないためにユーリが召喚したからだったということ。  局長は淡々とそれらを説明した。 「吸血鬼(好物)を前にして一体も食殺しなかった君の理性と職業倫理は感服に値する」  局長はそう賞賛したが、フェンヴァーンは素直に喜べなかった。 「だいたいからしてなぜ俺があそこにいられた? セーフハウス近くのバーで飲んでたはずだったんだ。気がついたらバビロンだったなんて、理由がわからない」 「簡単なことだ。君がユーリ(吸血鬼)の血の盟約によって従僕になったからだよ」 「は?」  今度ははっきりフェンヴァーンはユーリを見た。  そしてユーリははっきりと意図的に視線を外した。 「そのあたりの同意如何の齟齬については、後でお互いに話し合えばいい。なんにせよ、その事がユーリを救い、また君を救った」  さっぱり訳が分からずにフェンヴァーンが眉間に深い皺を寄せていると、足音もなくユーリが近づく。  言いたいこと、聞きたいことは山ほどある。  モノ言いたげな視線でフェンヴァーンがユーリを見つめ続ける。  ユーリはほんの一瞬だけ躊躇いがちに動きを止めたが、すぐにいつもの無表情な官吏の仕草に戻る。綺麗に整えられた長い指で手にしたバッジをフェンヴァーンのスーツジャケットのラペルホールにつけてくれた。  盾を模した金色のバッジだった。  対するユーリのラペルホールにはそのバッジと対となる二本の剣を描いた金のバッジがあった。  局長が大きく拍手した。 「おめでとう! ……というべきかどうかは今後の活動にかかっているが、君は本日このときをもって境界管理局(第2局)警備課強襲班捕追士補の任を解かれ、同審判課執行官ユーリの従僕として自動的にかつ彼の指定によりその護法官に採用となる」 「というと?」  フェンヴァーンは戸惑う。  護法官は執行官が専門職として採用される限り同じ身分で組織に直接雇用される正職員である。嬉しいか嬉しくないかというと嬉しいが、その理由や流れがさっぱり理解できなかった。 「保護プログラムは継続され、身柄は境界管理庁の管理下に置かれたまま、ということだ」 「ただし護法官は執行官の存在があってこその役職だから、彼の命を、使命を守ることが今後は先決事項となる。まあ、君にはすでに血の盟約が施されているから、害することはまずできないだろうがな」 「護法官は身柄こそ審判課に所属するが、業務内容は他の課との連携が多いから、基本的にこれまでの生活と代わらん。大きく違うのは上司が俺じゃなくてユーリになったことだな」 「これからの活躍に、大いに期待している。以上だ」  局長がそう宣言し局長室の扉が開く。  出るか出ないかは招かれた者の自由ではない。局長が以上だと宣言すれば、その場に残る必要がないと見なされた者は自動的に部屋の外へと出された。  そして今、廊下にいるのはユーリとフェンヴァーンだけ。  前を見ても後ろを見てもその先は見えないしんと静まり返ったリノリウム張りの廊下で二人は見つめ合った。  言いたいことはたくさんある。  聞きたいこともたくさんある。  それよりも何よりも……。 「ユー……リ」  フェンヴァーンの手がごくごくゆっくりとユーリの頬へ近づく。  ひやりとした、ベルベッドの肌に触れる。その手の上にユーリのさらりとした手が重なって、きゅっと軽く力が込められた。  かすかにバラとバニラを思わせる甘い誘因香が香る。  ああ、キスがしたい。  フェンヴァーンがその唇に顔を寄せようとする。それを遮ってユーリは言った。 「話は後だ。先に腹ごなしをしないか。人が入らない、そうだな、君のセーフハウスがちょうどいいんだが?」  悪戯っぽい上目遣いでユーリがフェンヴァーンを見る。  そんな仕草を見せられて、申し出を断るなどという選択肢がフェンヴァーンにあるはずもなかった。

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