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第8話

        秘密の保健室  文化祭前日、校舎は音で満ちていた。  ホチキスが跳ね、脚立が鳴り、紙が風をはらむ。  星乃來夢は看板の角を押さえ、釘の頭を指で導いた。  次の瞬間、鋭い痛み。  赤い点が滲み、金属の匂いが立つ。 「先輩、見せてください」  神城煌真は手袋を外し、來夢の手を包んだ。 「平気」 「平気ではありません。——保健室へ」  反論を挟む前に、片手で片づけ、もう片方で導く。  痛みより、掌の温度が強い。 ◇  放課後に傾いた廊下。  保健室の扉は無人の静けさを返す。  掲示の紙の指示に従い、神城は窓を少し開けた。白いカーテンが呼吸する。 「座ってください」  來夢はベッドの端に腰を下ろす。  神城は手を洗い、薬と綿球、絆創膏。  水音も紙の音も、無駄がない。 「沁みます」 「うん」  綿が触れた瞬間、ひり、と冷たい熱。  來夢の息に合わせ、神城の手つきがわずかに緩む。 「痛い、ですか」 「ちょいね。平気」  薬品の匂いが白に溶ける。  綿の往復が整い、痛みは薄くなった。  絆創膏を剥がす。  角を合わせる直前に、神城は一拍置く。 「すぐ良くなります」 「先生みたい」 「先生ではありません。……でも、守りたいです」  敬語の距離が、今日は近い。  貼り終えると、彼は手を洗い直した。  來夢はポケットから苺の飴を一つ。 「代金」 「ありがたく」  包み紙が小さく鳴り、四角が掌で整っていく。  几帳面な星座が、指先に並ぶみたいに。 ◇  空は傾き、時計の針は静かに進む。  白湯を二つ。湯気がゆっくり薄くなり、時間の形を見せる。  カップを持つ神城の指に、さきほどの赤みがわずかに残っていた。 「俺、待てます。……でも待っているあいだ、失礼をしてしまうかもしれません」 「失礼?」 「触れてしまうとか、近づきすぎるとか。今日みたいに」  伏せられた睫毛。 「嫌なら、叱ってください」 「叱らない」  即答に、神城の肩がわずかに落ちた。 「やめてほしいわけじゃない。……たぶん、俺の方から近づけてる」  神城が瞬きも忘れて固まる。  來夢はカーテンの裾を摘み、布の揺れで照れを消した。 「俺も、待てる。多分」 「“多分”」 「うん。けど、消毒してくれて嬉しかった」  白、薬、白湯。  小さなものが、胸の底で重なる。  神城は包み紙の四角を最後の一折りで星にした。  掌の真ん中、紫の星。 「星乃先輩の、星」 「ダジャレ」 「……すみません」  謝る口元が少し緩む。 ◇  扉が静かに開き、翔琉が顔を出した。  部屋を一瞥。來夢の手、神城との距離、湯気。 「見つけた。指、やったのか」 「ちょっと。もう平気」 「ならよかった」  ポケットから棒付きキャンディ。レモンの黄色が白に跳ねる。 「差し入れ」  手は伸びかけて、止まる。  神城は黙ったまま、視線だけがこちらの手の甲に落ちる。  來夢は自分のポケットをなぞり、赤い棒付きの存在を確かめた。  継ぎ目の段差——昨日より角が丸い。 「ありがとう。持っていく」  言葉だけ受け取る。  翔琉の笑みがわずかに揺れ、「後で」と扉が閉じた。  薬の匂いと白湯だけが残る。 「選ばせましたか」神城が小さく問う。 「選んでない。今日は、受け取らないってだけ。……今は、まだ」  神城の瞳が静かに晴れ、「待ちます」とだけ言った。 ◇  廊下に夜が降りている。  外の風は乾き、白湯の湯気はもう消えた。  來夢はポケットの中で赤い棒付きを押す。  継ぎ目に爪がかかる。押せばほどける。  押さない。  絆創膏の角を撫でる。  痛みはもう、小さな輪郭だけ。  校門の外、街灯の下に影が二つ。  歩幅は自然にそろい、包みは歩調に合わせて小さく転がる。  角は、昨日よりまた少し丸い。 ――第8章おわり―― ⸻ 🌙 次回予告 第9章|俺だけの飴  文化祭の喧噪が終わる夜、残ったのは甘さの行き先だけ。  棒付きの包み紙は、ついに継ぎ目を越えるのか。  独占と優しさ、そのどちらも手放せないまま——選ぶのは、たったひと口の「特別」。

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